空高くに伸びた積乱雲が広がって、
昼の太陽を遮ると、周囲は薄暗くなった。
広場には道化に飽きた子供達が、
山羊の膀胱を膨らませて作った球を
追いかけている。

赤い紐で縛られた歪な球体は、
蹴られて地面に落ちると弾力で跳ね、
予測不可能な方向へと転がる。
市場では品物を売り切った店が
槌で骨組みの解体を始め、
広場に乾いた音の波が反復する。
わたし達は軽食屋台で買ったものを、
近くの長椅子に座って食べ、
静かに片付けを眺めた。
硬めのパンに削ったチーズを乗せて、
炙った薄切りの燻製を頬張る。
チーズの下に敷いた香草を噛むと、
強烈な匂いが鼻腔を突き、
舌を刺激する味に涙が滲む。
ウントが痛がり、騒いでいる。
彼は倒れた時に舌を噛み、
顎を擦り剥いたらしい。
ウントの行動には問題はあったけれど、
その程度のケガで済んで良かった。
市場の賑わいが収まりつつある中で
街娼達が踊り、演奏をして宴を開く。
近くには中老の肥満男が居る。
貴族病と呼ばれる肥満体。
彼に雇われた娼婦が太い棒を握り、
革を張った太鼓を股に挟んで打ち、
男娼は笛を咥えて演奏をする。
この街ではよく見かける光景。
『ハーフガンは夢を見る。
酒樽抱いて宝の夢。
ハーフガンは酔っ払い。
海でもないのにふーらふら。』
聞き覚えのある歌唱に、
黙っていたムネモスが口を開いた。
「あれ…将軍の詩、でしょうか?」
「酔っ払いの詩だろ。」と、トリン。
「大陸北方のソーンと戦った将軍が、
この街では酔っ払いの扱いで
酒宴に歌われてるのよ。」
「それは、なぜでしょうか?」
「なぜかしらね。」わたしも首を捻る。
この場の誰も分からないことに、
知ったつもりの愚者になる気もないので、
ムネモスの質問に疑問で返すしかなかった。
「二人共、まだ見たいものはある?」
トリンは黙って首を横に振る。
目を赤くしているムネモスが呟いた。
「馬が…。」
彼女のパンを持つ手がずっと止まっている。
「馬? 広場に馬は入れないわよ。」
日時計島の南の広場は
市場として開放されていても、
橋には鉄杭が突き出ているので
馬車の通り抜けはできない。
広場には品物を高く積み上げた驢馬や駄馬、
荷車を運ぶ肉体労働者の姿を多く見かける。
「ねぇ、なにあれ? 生き物?」
トリンは初めて見る動物に静かに慄いた。
「…あぁ、駱駝ね。」
広場には使用人に連れられた駱駝が、
群衆に囲われている。

金の体毛に覆われ、背中に二つの瘤がある。
長い睫毛を持つ駱駝の顔は、
本に描かれていた以上に美しい。
赤ら顔のあの肥満男が、
街娼を連れて自慢する。

肥満男の所有物らしい。
「あれが駱駝?」トリンがわたしを疑う。
大陸語を知るトリンでも、
大陸の動物を見る機会は
市場以外ではわたしも知らない。
「大陸の動物で、馬の代用品ね。
北方ソーンと、中央のラギリの
あいだにある交易路の、
沙漠を乗り越える為の使役獣。
荷を背負わせる駄獣ね。
駱駝は偶蹄だから、
馬よりも牛に近いのかしら。」
右手の中指と環指を開いて
偶蹄を真似て見せると、
ムネモスも同じ手の形を作る。
「なにも食べずに月が一回りしても、
背中の瘤に貯めた脂で生きられるの。
生物学の棚にある
大陸動物の本に描かれてるから、
生態も知れて楽しいわよ。」
「あの肥満男も、
絶食させたら生きられるのか?」
貴族病の男を顎で示す。
彼は鼻の下に髭を生やし、
頭には金色の義髪を被せていた。
わたしは男とグルグスを見比べる。
似たような巨体を持つグルグスは、
もう一つのパンを食べながら、
わたしを見て首を横に振った。
わたしはまだなにも言っていない。
グルグスの身体は
槍も通さないような硬く厚い筋肉で、
皮膚の弛んだ男と比べるまでもない。
「動物、人間が生きるのに必要なのは、
脂以外にも水と塩が大切よね。」
グルグスの持っていた水袋を手にして
ムネモスに向けた。
彼女もまた首を横に振った。
「ムネモスはあいつ、
駱駝は見たことある?」
トリンが訊ねた。
「…はい。駱駝は
エルテルにもたまに入りますが、
羊ほど毛も取れません。
それに秋といえば馬です。」
「なんで?」
「馬を所有するひとは、
資産を周囲に誇示できます。
輸送や戦争だけではなく、乗馬に馬旅、
豊穣の祝い、収穫祭の時期には、
染色した布や綱で馬にお粧しをします。
鬣を整えて、綺麗に編みもします。
家ごとに違いがあって壮観ですよ。」
ムネモスは故郷を思い出し、
空笑いを浮かべる。
近くの街娼達が緑の上に絨毯を広げ、
踊りや演奏を休んでいるあいだ、
わたし達の会話に耳を傾けていた。
こうしてフランジだけで
行動している姿を、物珍しく見る。
子供達は道化が飛ばした泡玉を、
動物のように追って燥いでいる。
夕刻に入ったことを知らせる鐘が鳴る。
展望台から紫黒色の帯を付けた
ロープを降ろす鐘撞きの影が見えた。
「あいつは馬の代わりにならないのか?」
トリンは議長が誇る駱駝を指示した。
「奇抜なものを手にして誇っても、
他人の馬とは比べられません…。」
「ひとと馬には差別があるわね。
どんなに力持ちのグゥグスでも、
馬みたいには働けないものね。
グゥグス、ウント。」
わたしは巨体のグルグスと
小柄なウントを呼んで立たせた。
二人を並ばせると、
その違いは明白になる。
アルもイオスも居ないので、
二人には2匹の代わりになってもらった。
「島の人間と大陸人や
数字の貝札同士のように、
同じ立場でこそ較差として評価される。」
「駱駝をお粧しをしても、
馬にはなりませんものね。」
「駱駝に馬の服を着せたわけだ。」
わたしが避けた諺を、
トリンが言って理解したので
首を縦に振った。
「なに見てんだよ。」
グルグスに集る子供に
隣に立っているウントが威嚇する。
ウントに脅された程度で子供は泣かず、
擦り剥いた顎を見て憐れみを浮かべた。
「馬の服とはなんですか?」
ムネモスの疑問に、
街娼達も口々になにか言い始めたので、
わたしがまとめて説明した。
「『話に王の服を着せる』って諺。
『荒れ地に王座を作った』
って言葉があるわよね。
カヴァの氏族は住民を集めるのに、
農作に適した東の暖かい土地ではなく、
西の寒い荒野に国家を築いたことで、
こんな言葉で嘲られたの。
そこから変化した諺でしょうね。」
「知らない。」
言ったはずのトリンは首を横に振る。
「南部にも地域によって、
似た使い方があってね。
簡潔に説明すると、
『王は次のように仰った。』と伝えて、
その言葉に従うひとが居たとしても、
あなたは王ではない、という教えね。
わたしが王と僭称したところで、
わたし自身は偉くはないもの。
服や喋り方の真似をしても、
そのひとにはなれないって意味。
二人の言った通り、
駱駝を馬の装具で飾っても、
馬にはならないわね。」
「ふぅん…。」頷くトリン。
耳を傾けていた街娼達も
頷いてくれた。
「東部でしたら南のオーブには、
『ソーマも羊の皮を被る。』
という諺がありますね。」
ムネモスは地域の諺を愉しみ、
彼女の知識にある似た言葉を見つけた。
「いつまで勉強会やってんだよぉ。」
パンを食べ終えて退屈していたウントは、
護衛の仕事を忘れて不満を口にする。
「ウントは意味を知ってるかしら?
『ソーマも羊の皮を被る。』って。」
「は? そいつは寒がりなんだろ?」
そんなウントの解釈に、
街娼達から笑われる。
太鼓が盛大に叩かれて、
高い笛の音が鳴らされた。
「人間味溢れる良い回答ね。」
羞恥するウントは鞘のまま剣を空に掲げ、
緑の上で見物していた街娼を追い払った。
取り残された駱駝と議長の男。
それから、
道化に見間違われるグルグスと遊びたがる
近所の子供達が残った。
ようやくパンを食べ終えた
ムネモスの手を引いて、
わたしは彼女を立ち上がらせた。
「歩き疲れて雨も降りそうだから、
ムネモスお嬢様のご要望に応えて、
中継所に寄って帰りましょうか。
お金もまだあるものね。」
「中継所?」
「んだ。」
トリンの疑問に、
グルグスが下を見てから地面を指示した。
それは広場の床石に刻まれた、
西を向く馬の頭のレリーフだった。
◆
長距離の輸送を行う馬を休ませ、
交代させる場所を中継所という。
古代には駅とも呼ばれていた。
北端の洞窟港から南部のオーブまでには、
メルセ領とエルテル領の主要都市を繋ぐ
街道沿いに、中継所が多く置かれている。
東のエルテル領と西のカヴァとの交流は
ほとんど無く、中間に位置する
分水街の中継所の需要は少ない。
それが原因で、
この街の中継所は終端駅とも蔑まれ、
扱いが良いとは言えない。
終端駅で馬を待機させるよりも、
競馬場で走らせた方が稼げる、
という無責任な記述も見かけた。
日時計島から北にある分岐点、
エルテル領とカヴァを直通する街道近くの
中継所を目指す。
わたし達は西の橋を渡って、
川の流れに沿って北へと歩く。
このあたりは緑が少なく、
中流階級の集合住宅になっていて、
塀のない4階建ての高い建物が多い。
周囲の道には日陰も多く、
降雨が近いこともあってか、
湿った風が建物に当たって激しく吹く。
「いまにも降りそうね。」
トリンの呟きにムネモスが小走りして屈む。
「あっ、ここにもありました。
みなさん、早く行きましょう。」
北西の方角を向いた
馬のレリーフを見つけ出し、
ムネモスは燥いでわたし達の前を走った。
「待って! ムネモスッ。」
彼女は路地に入ってしまった。
トリン、ウントが先に走って彼女を追い、
わたしより後ろのグルグスは遅れていた。
「グゥグス! 早く来てっ。」
遅れるグルグスを振り向いた時、
彼は口から赤い泡を吐いて飛ばした。
厚い胸に吊るした水袋が破れ、
身体を貫いた刃先が光って見える。
汚れて黒変している床石が、
赤い水に濡れていく。
頭の中に灰色の靄が漂い、
状況をすぐには受け入れられない。
「ムネモスッ!」今度はトリンが叫んだ。
跪き、倒れるグルグスから顔を背けると、
先頭にいたムネモスは男に捕まり、
口を布で塞がれていた。
ムネモスの喉元に短剣を見せつけられて、
別の男達が路地に押し寄せ、
わたし達を取り囲む。
「グーグスになにしてんだ!
卑怯だぞ! てめえらぁ!」
怒りに湧くウントが、
鞘から剣を抜いてしまう。
「待ちなさいっ! ウントッ!」
フランジでしかないわたしの命令は、
路地に虚しく響く。
護衛一人が複数の男を相手に剣を抜いても、
数の時点で敵わない。
勇敢と無謀の違いを、彼は理解していない。
グルグスを刺した濃い髭の男に向かって、
ウントは剣を大振りして
空を切る音を鳴らした。
ルービィから護衛に認められても、
日の浅い彼の剣先は服さえ掠めない。
対する髭の男が太い腕を横に振る。
ウントの頭を、床石に斬り落とした。
一瞬の出来事だった。
護衛を囮にして走って逃げ出すことも、
ムネモスが捕まった状態では、
わたしには選択できなかった。
「これで二人だぜぇ。」
ウントを斬った髭の男が息を吐き、呟く。
「これまでの賠償金分、
教育してやんねえとなぁ。」
どこかの窓から誰かが見ていたのか、
女の甲高い叫び声がする。
わたしの心音が高鳴る。
「トリン…。トリンッ!」
わたしはトリンの手を取って身体を寄せる。
「なに、こいつら。」
状況が飲み込めず、混乱しているトリン。
「黙って。落ち着いて。」
「おいっ! ムネモスを離せっ!」
ムネモスを拘束する男に向かって、
感情を沸かせるトリンが叫んだ。
わたし達は彼らに命令できる立場にはない。
何度か見覚えのある髭の男。

彼らは街の西側を支配するユヴィルの傭兵。
「トリン、静かにして。」
「わたしに命令しないでっ。」
「抵抗すれば次はムネモスが死ぬわよ。」
トリンはそれを頭で理解していても
感情が昂ぶり、息が荒々しい。
護衛のグルグスとウントはもう動かない。
わたしの身体は急激に熱を失い、
冷たくなって身震いした。
『死を受け入れなさい。』
サンサの言葉が思い浮かぶ。
ユヴィルの傭兵集団を相手に、
わたし達だけで敵うはずはなかった。
『相手の本質を見ること。』
彼女の言葉の意味を考えて、
わたしは小さく息を吸い、
できるだけ大きな声で訊ねた。
「今日はユヴィルは、隠れて見てないの?」
「旦那は居ねえなぁ。」
「夜の館の護衛を二人も殺せて、
これで満足したのかしら?」
「サンサってのはお前か?」
「こんなに薄暗い路地では
証明もできないわね。」
彼らがサンサを『売れ残りの傷物』としか、
認知していないのは分かっていた。
フルリーンとの騒動で目立っていた
護衛のグルグスを標的にしての軽挙。
わたしは首に下げていた、
蝶の装飾がされた銀の鍵を取り出す。
帯紐に結んだ青銅の鍵と重ねる。
「あなた達が護衛を殺してくれたせいで、
これではユヴィルとの商談も
立ち消えてしまうわね。」
「商談だぁ?
小娘がよぉ、なんだその鍵は。」
「マルフが欲しがっている、
劇場の権利に繋がるものよ。」
「はぁ?」路地に男の低い声が響く。
突飛な提案で、中には嘲笑する者もいた。
わたしは目を逸らさずに告げる。
「青銅の鍵を夜の館に届ければ、
わたしの身元を証明できる。
この銀の鍵は、
ユヴィルの秘め事を保管した場所の鍵よ。
あなた達で、大切に使いなさい。
カミーリャの花が咲く前に、
その蕾を落としたくはないでしょう。」
わたしは二つの鍵を、足元に落とした。

「わたし達をユヴィルの元に案内しなさい。
彼を、交渉の席に座らせるつもりが
あるのならね。」
「なにが目的だ?」
髭の男から目を逸らさずに、
わたしは顎を突き出す。
「ユヴィルの代わりが務まるの?
交渉の席を汚したあなたに。」
周囲の傭兵達から、
髭の男に視線が集まる。
わたしを睨み、近付く髭の男。
目の前が一瞬、真白になった。
平手で叩かれたと分かり、
揺れる身体の手足に力を入れた。
頬と鼻の激しい痛みに耐えながら、
それでもわたしは微笑する。
「拾いなさい。
いまの愚行はそれで許してあげる。」
周囲の傭兵達が髭の男を促すので、
彼は舌打ちをして鍵を拾った。
「爺と連絡がつくまで、
お前らは館には戻れねえぞ。」
その言葉を聞いて、
わたしは浅く安堵の息を吐く。
「賢明な判断ね。」
鼻血が唇に触れる。
手札を隠したまま、
彼らを交渉の席に着かせることができた。
わたしを恐喝する目的で
男から叩かれることが分かっていたら、
痛みを覚悟した身体が
反射で、強張っていたに違いない。
上唇に垂れた鼻血を口布で抑えると、
口の中に銅貨の味が広がった。
「彼女をこちらに渡しなさい。
子供に逃げられるような
酔っ払いでもないでしょう。」
わたしはムネモスを目で呼んだ。
髭の男の合図で彼女は解放される。
髭の男が指示を待たず、
また独断で行動をすれば、
ユヴィルの顔をさらに潰すことになる。
寄りかかるムネモスを左腕に抱いて、
わたし達は傭兵達に囲まれながら
目的の中継所に向かった。
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