第8章 第1節 賓客の賜(第3項)
館の東側を一周りして食堂に入った。
厨房では昼食の準備をしており、
上着を着ていると暑いくらいだった。
二人を座らせて早めの昼食にした。
わたしはパンとスープを用意する。
トリンは厨房を眺めて口を閉ざして、
わたしを見るムネモスの考えは
訊ねる必要もないほど分かりやすい。
「ムネモス。」
「はい、ニクス姉様。」
「ニクスでいいわ。
わたしはあなたの姉ではないもの。
敬称は付けないで。
あなたの義理のお姉様も、
そんな風に呼ばれたら嫌がるでしょう。」
彼女は困り顔を見せる。
「でもサンサお姉様は私達を取り上げて、
産湯に浸けてくださった方ですの。」
「サンサが出産に立ち会ったのね。
本人が嫌がってもなく、
望んで許しているのなら
呼んでも良いのかしら。」
「それが…、
あまり良い顔はされませんでした。」
ムネモスは目を伏せて寂しさを見せる。
「ふふっ。
エリク…あなたの父も、
サンサを敬ったりはしてないでしょ。」
二人に器を用意して、
切り分けたパンを置いていく。
「ニクス…は、あの…、お父様のことも?」
「よくは知らないわ。
サンサのせいで、あの庭で一度だけ
会談をさせられた程度に過ぎないし。
彼の功績は、ここには資料がないのよ。
でもとても愉快なひとで、
もっと話をしたかったわね。」
「お父様を覚えていただき、
ありがとうございます。」
彼女は座ったまま、頭を深く長く下げる。
「目元が似ているわね。」
「良く言われます。
弟のクロノはお母様に似ています。
私の方が背が高かったり、
双子なのに違いがあるんですよ。」
第二次性徴は女の方が早く発現する。
そんな当たり前のことを
冗談のように言うムネモスでも、
視界の端ではトリンが疎外感で睨んでいる。
それが理由でムネモスの表情は晴れない。
「それで、ニクス…に、
お願いがあるのですが…。」
「出自は訊ねない。
とは言ったわよね。
でもムネモスが勝手に語る分には、
わたしは叱ったりしないわよ。
言葉に鍵はかけられないものね。」
「それって、よろしいのでしょうか?」
瞬きを繰り返してわたしを見る。
秘め事の多い館の人間に比べ、
彼女の表情は変化に富んで、
レナタと同じく感情が分かりやすい。
「湖から溢れ出た水は、
湖には戻らない、なんて諺もあるわ。
自分の取った行動の責任は
自分にあることを、
常に心に留めておくといいわね。
あなたが名乗るべき相手は、
自分で見て、考え、選ぶこと、
ってサンサも言ってたわ。」
わたしが告げると、
ムネモスは深く頷いて、
隣に座るトリンに向き直った。
「トリン。
せっかく隣人になりましたのに、
欺き続けるのは心苦しいですよね。
私の出自、正式な名前は
エルテル・ハス・ムネモスといいます。
エルテル先代領主、エリクの娘ですが、
同じフランジとして、これから一緒に
助け合いましょう。」
ムネモスは水の入った杯を前に出す。
「…なに、これ?」トリンが首を捻った。
「乾杯ですよ?
宴席での挨拶です。」
「エルテルは酒宴の席でやるものね。
この館でやってるひとは見たことないわ。
決まりも覚えなくてはいけないわね。」
食事を終えたイオスが
わたしの太腿に乗る。
口の周りを舐めながら、
わたし達の昼食を狙っていた。
「だからそれで、なにをしてるの?」
「乾杯は飲食の前に行います。
お祝いの席で普段のお祈りの代わりに、
天の恵みに感謝と祝福を祈ります。
中身を零してはいけませんよ。」
「わたしもやるわ。」
ムネモスを真似て顔の前に杯を掲げると、
柔和にえくぼを作ってわたしに微笑する。
「天ってなに? 神のこと?」
トリンは眉間に力を入れて不信感を示した。
「エルテルでは天とは主に、
気象のことを示します。
他にも水、土、作物のご機嫌や、
農民や妻、子供や良き隣人、
家畜、虫、動物達の健康を、
なんとなぁくで祈るんですよ。」
「なんとなく?」
訛りではない彼女の砕けた言い方に、
わたしは笑いが込み上げた。
「病気や天気と一緒ですね。
祈っても良くはなりませんが、
気象に気を病んでしまっては
仕方がありませんもの。
そんな時はとりあえず祈り、祝って、
愉しみましょうという考えです。」
「楽観的ね。」とトリンは冷笑する。
「本質では悲観的なのでしょうね。」
ムネモスは笑顔を作らず首を横に振った。
「悲観?」トリンが訝しむ。
「エルテルは過去から現在まで、
大水害や人間の病に限らず、
家畜の病死や作物の不作を、
何度も経験してきました。
農家は気象の影響を大きく受けます。
不作が続けば口減らしや、
人身売買が行われます。
家畜や作物、人間、金品を奪うなど、
生きる為に道を誤る者も出てきます。
晴れの日が続けば水路は涸れ、
水を巡って領民同士が血を流すことも、
少なくはありません。
雨が続けば小さな生物は増え、
作物は腐り、内臓や肺を患い、
病が蔓延します。
あらゆる生物は生を受ければ、
育ち、変化し、そして死にます。
明日の保証のない領民は、
常に不安が付き纏います。
不安、恐れを拭い去り、
今日を良い日にしたいから、
わたし達は祈るんです。
明日の自分を想像できるように。」
「…分かった。
あんたはがお姫様だってことがね。」
トリンも杯を掲げると、
ムネモスはようやく元の笑顔を取り戻した。
◆
昼食を終えて館の西側、玉石の庭、
ボイラー室、フランジ棟の教育室、
口布をして鶏小屋を外から眺め、
最後に果樹園を見て回った。
オレームとクァンの果実について
説明を終えると、書室に戻る道が
塞がれていた。
「これは…なにかの記念碑でしょうか。」
「サンサの集めたガラクタ…、
ではなくて偉大なる発明の残滓ね。」
クァンの木立から書室に戻る道が、
サンサの道具に妨げられている。
「この果樹園に
フランジは立ち入り禁止なのよ。」
「案内する前に言うべきだわ。」とトリン。
「見てもいないものを
大した理由もなく禁止したら、
誰だって入りたくなるでしょ?」
トリンがまだなにか言おうとしたけれど、
彼女はなにも言わずに視線を逸らした。
「鶏小屋まで戻ろうかしら。」
「ここから通れますね。」
ムネモスがガラクタの抜け道を探し出した。
「それで、ここが書室ね。」
「牢檻みたいなお部屋ですわね。」
「あのガラクタを片付けたから、
これでも広くなったのよ?」
「あれを片付けたと言えるの?」
「…片付けにも定義が必要ね。」
野外に曝しただけのガラクタを、
トリンに指摘されて否定はできない。
「今日の案内はこのくらいね。
2階は従業員の部屋で、
本人の許可無しには見せられないの。
他は後日、誰かがわたしよりも
丁寧に案内してくれるはずだわ。」
外は寒いので書室を軽く掃除して、
夕食までのあいだは
ここで本を読むことにした。
道具置き場兼面談室から
ランタンを二つ書室に運び入れ、
テーブルに乗って一つを天井に吊り下げる。
もう一つのランタンをテーブルに置けば、
光を囲んで本が読める。
足元には従業員のメグが持って来てくれた
熾火がテーブルの下にあるので、
扉から入る冷たい隙間風も気にならない。
トリンはすでに本を手にして、
他のことに関心を示さずに
ページを捲っている。
「あ、私はこれにします。」
「それ測量の本よ。読めるの?」
「嗜み程度です。」
ムネモスが選んだ本は
土地の広さや距離、長さや高さ、
深さを算出する為の専門書で、
相応の知識がなければ読めない。
彼女は書字板に計算式を刻む。
専門書に書かれた計算を解くのは、
ドレイプでも容易ではない。
「計算が得意なの?」
「農地の広さで不公平が生じて、
領民が喧嘩をしないように、
お父様の仕事を手伝っていました。」
貴族は商人と取引を行うので、
騙されない為に文字や数学の基礎を学ぶ。
領主は領内の農地を区分けし、
その決定権を有する。
恐慌の後で堆肥が足りず、
分水街から不要物を買い付けるほどに、
エルテルは広大な農地を持っていた。
「楽しそうね。」と、わたし。
計算をしていたムネモスが笑顔を見せ、
向かいのトリンに本を向けた。
「トリンも解きますか?」
「あなたはまだ、
領主の娘のつもりでいるの?」
「あ…いえ。
トリンの言う通り、
いまの私はフランジですね。」
ランタンの灯火に照らされるムネモスは
表情は曇らせた。
「ここにある写本は全てサンサが
フランジの為に買ったものだから、
仕事以外の時であれば
好きに読んでいいわよ。」
「…ドレイプにする目的で。」
「共にドレイプを目指しましょうっ!」
自分を励ますように言ったムネモスに、
トリンは同調しない。
「トリンはなにをお読みですか?」
「アラズ興亡詩?」
彼女は4冊もある
分厚い本を見て読み上げた。
大陸北方にあるソーンには、
アラズという名の思想家の
物語が流行していた。
大陸南方のクレワでも、
アリュールという異なる名前の
似たような物語が存在する。
書室に置かれたアラズ興亡詩は、
中央のエンカーで書かれた翻案になる。
大陸の南北は豊富な水や沃土を求め、
歴史に思想の名前を刻むことを目的に争う。
神話の時代から人間は飽きずに
血肉を欲し、身分や地位を奪い、
布を巡って競い、女に騙される。
他人の名前を騙り、
主張を暴力の口実に変え、
様々な理由で争い合いを続けていた。
興亡詩はそんな大陸の歴史を描く、
エンカーンで書かれた人気の長大な恋物語。
――って、ファウナは興奮してたわね。
本はボナの部屋に長いあいだ置かれていた。
「それ、わたしも読もうと思ってた本。」
勉強を優先したわたしは、
まだ手を付けていない。
この本を読む前に、
大陸史を学ばなければ読めない、と
ファウナに諫められていた。
わたしは日陰の庭のテーブルに
開いて放置していた
歴史書を運び入れていた。
ムネモスが自分の計算を終えると、
わたしの本を見て声を掛けてきた。
「ニクス…も、
大陸語が読めるんですか?」
「教えられるほどではないけれどね。」
「…領主の娘なのに読めないの?」
ムネモスに対し、トリンは呆れている。
「…はい。」
「あなた14歳でしょ?
これくらいの本ならわたしは
10歳の頃には読めたわよ。」
「お恥ずかしいことに…。」
「恥ずかしい話でもないわよ。
わたしも夏までは
大陸語が読めなかったもの。
知らないことの方が多いくらいよ。
それにこの館に入った子でも、
大陸語を読めない子は多いわね。
ドレイプになるのなら、
お客さんの手紙の内容は
大陸語の言い回しが多いから、
知っておいた方が良いわね。
競うものでもないのだから、
ムネモスが必要と感じたのなら
これから学べばいいわよ。」
測量の本が解けるのに、
自信を持たないムネモスでも
わたしの話に頷いてくれる。
「勉強で自尊心を満たすのも良いけれど、
他人を貶めるつもりで学ぶのは
勧めないわね。
思想の服を纏ったところで、
実物の服を着ないことには、
裸と変わらないものね。」
大陸にある詩の引用にムネモスが微笑し、
隣のトリンには睨まれた。
ハーフガンと違って舌打ちはされない。
「大陸の思想の本もあるのよ。
学び、偉ぶるひとについて
知ることができるわよ。
思想の本の内容は引用ばかりで、
法則や定理が無いのが問題ね。」
わたしはムネモスの背後の棚から、
別の本を取り出して彼女に見せた。
「わたしはこの本で大陸語を覚えたわよ。
ムネモスくらいの年なら
難しい内容でもないはずよ。」
図書館でスーが買ってくれた写本は、
書室の棚に置いて共有物にしていた。
ガラクタで埋まっていたサンサの倉庫は
元の書室に戻った。
わたし以外に書室の利用者が増えて、
内心で喜んでいることに気付く。
「自分で学んで考えて分からなければ、
トリンに聞けば教えてくれるわよ。」
「は?」トリンが驚く。
「ありがとうございます。
よろしくお願いしますね、トリン。」
「あんた…。」
恨むようにトリンが見てくる。
わたしは彼女の考えを無視し、
またテーブルの本の片付けに戻った。
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