第1章 第4節 交渉の味(第2項)
「お水のついでに、
果物も持ってきたよ。」
サンサとの話の途中で、
石鹸の爽やか香りを漂わせたスーが
部屋に戻ってきた。
「どうしたの?
カーテン締めちゃって、また怖い話?
ニクスはこれ、食べたことある?
皮を石鹸に使ってた、
クァンっていう大陸の果物。
冬は酸味が強くて食べられないけど、
春になると穆らいで食べられるんだよ。
種があるから指で取り除くか、
出す時は口元を隠してね。
下品は禁止だよ。」
黄緑色の玉の形をした果実。
これも初めて見る食べ物だった。
スーが蔕に爪を入れて縦に剥くと、
金色をした不思議な果肉が現れ、
果汁が彼女の手から滴り落ちた。
「ちょっとスー。
いま、大事な話の最中なの。」
「えぇー?
ニクスは幼子でもないんだから、
サンサがそんなに心配しなくたって、
もう出ていったりしないよ。ねえ。」
昨夜、館を抜け出したばかりのわたしは、
嘘をついたスーに罪悪感を覚えていた。
「サンサがそこまで言うなら
こうしよっか。
クァンを食べたら館に残る。
食べなかったら館を出ていく。
『来るものは選び、去るものは追わず。』
ってね。
それが館の決まりだもんね。」
スーは手にした果物を口にして、
滴る果汁を啜る。
「それを買収というのよ。」
「そこはほら。
サンサの得意な
『交渉』って言ってくれないと。」
「人聞きが悪いわね。」
スーは笑みを浮かべる。
サンサはテーブルの短剣を鞘に収めた。
――サンサは結果が分かっていたのよね。
――知らない土地で独り
生きる手段の無いわたしは、
頼れるひとや家族も居ない。
――わたしの軽挙でひとが死ぬ。
――ネルタの家名を名乗れば、
今度はわたしが死ぬかもしれない。
「ここならおいしい食べ物が、
好きなだけ食べられるよ。」
無邪気なスーから向けられた果物を、
受け入れる他に選択の余地はない。
「これで交渉成立だね。」
瑞々しい果実の淡白な甘さと、
酸味のある果汁が焼けた喉を潤した。
「今日からよろしくね、ニクス。」
スーが、わたしが寝ていたベッドに
座って手を握る。
その手は果汁で張り付いた。
「あの…昨日はごめんなさい。」
「サンサになにか言われた?」
わたしは俯き、
首を横に振るとスーはサンサを訝しむ。
サンサも首を横に振って、
向けられた疑念に不満を浮かべる。
「その、嘘をついて、
館を勝手に抜け出したから。
それに帯紐も失くして…。」
「館を跳び出すなんて、
ニクスって豪胆なんだね。
帯紐は買えば済むものだし、いいよ。
今度、お揃いのを買おっか?」
「そのお金は誰が出すの?」
サンサが諭すように言ったのに、
スーは聞く耳を持たない。
わたしは疑問のまま黙って首を捻った。
「あれ、叱られた方が喜ぶ?
心配はしたけど、約束はしてないもんね。
反故にされても、
私はなにも気にしてないよ。」
スーはわたしの手を引っ張って、
ベッドの上に立たせた。
「それにね、
誰かに頼った時は、
ありがとうって言うんだよ。」
彼女はわたしの前髪を撫でて整えてきた。
手が果汁で濡れている。
「あ、ありがと…。」
「あとこの館で上手な嘘をつくなら、
サンサを見習うといいよ。」
「わたしは嘘なんてつかないわよ。」
「ね? こうするんだよ?」
スーは言って窓に手を伸ばした。
カーテンを開け、
逆光を浴びて微笑を浮かべる。
彼女は背中に光を受けると、
金髪が輪郭を作り、輝いて見える。
「サンサって今年で何歳?」
「相手が誰であっても、
年齢は気軽に訊ねないものよ。」
「いまは勉強会の時間でもないよね。
家庭教師を演じたってダメだよ。」
少女のような姿のサンサは、
溜め息を吐いてから答えた。
「…36歳…。」
「えっ?」
スーより小柄な彼女が、
小声で言ったので耳を疑った。
「嘘は言ってないわよ。」
「ね? ニクスは何歳だと思った?」
「えぇっ…16――?」
「そのくらいに見えるよね!」
言い切る前にスーが声を放った。
「二人して嘘つき呼ばわりはやめてよ。
お客さんが来る前に食堂に行くわよ。」
スーの手を離してベッドに座る。
「お客さん…。お客さん? 今日?」
「ニクスはフランジだけれど、
今日はなにもしなくていいわよ。」
「子供が大人の相手をするのは、
法律で禁止されてるんだよ。
ハミウス法ってね。」
スーは犬の威嚇みたいな表情で、
歯を剥き出しにして言った。
――ハミウス法。
それは昨夜の酔っ払い達も言っていた法律。
「あなたに上流階級の相手なんて、
させられないわよ。
こちらの責任問題だわ。」
「でもわたしがサンサの代わりに、
お客さんの対応した時あったよね?
それでオーナーに叱られてたもんね。」
「余計なこと言わない。
ヘッペは客ではないから良いのよ。」
スーに客の相手をさせたことが
あるかのような会話で、耳を疑う。
「ねぇ、スー。
ニクスって名前はどう思う?」
「夜の女神なんて素敵な響きだよ。
この館に似合う名前だよね。
お姫様みたいで。」
「お姫様ではないのよ。
夜の館に夜の女神なんて、
娼婦団の女みたいな名前だわ。
わたしのフランジなのだから、
もっと適当な名前がいいと思わないの?」
彼女はわたしの名前から、
他人に出自を探られることを懸念している。
「親しみやすく、ニックとか?」
スーの提案に、サンサは顎を突き出して
見下ろすような表情を浮かべる。
「…それは勝利の女神よね?
大差ないわよ。
スーに相談したせいで、
無意味な気もしてきたわ。」
「そんなに心配しなくたって、
ニクスはおかしな行動なんてしないよ。
サンサはニクスを
子供扱いし過ぎだよ。ねぇ。」
嘘をついて館を脱走したわたしに、
スーは同意を求める。
「大人からすれば、子供は成年になっても
相対的に子供扱いされるものよ。」
「オーナーにとってはみんな、
自分の子供扱いだもんね。」
スーに言われて、サンサは不満を浮かべる。
「ルービィと同じ扱いをされても、
二つしか違わないわたしが困るわね。
ニクス、ここではあなたは
お姫様ではないのだから、
明日からはそのつもりで
仕事を教わりなさい。」
「今日は?」スーが訊ねる。
「望むのなら、立っているだけでいいわよ。
たいしたお客さんではないもの。
欠伸してたっていいくらいよ。」
「オーナーに叱られるよね、それ。」
――下品は禁止。
それが館の決まりだった。
「ニクス。
あなたが名乗るべき本当の相手は、
あなたが相手を見て考えることね。」
彼女の言葉に、わたしは深く首を縦に振る。
「アル、行くわよ。」
サンサが黒猫の名前を呼ぶと、
言葉を理解したみたいに、
アルは彼女の胸元へ跳び乗った。
「楽しみね。
今日のお仕事。」
アルがミャオと鳴いた。
わたしの顔を見てサンサが微笑する。
――一つだけ、分かったことがある。
彼女は自分の名前を名乗る前に、
唇を噛んで声を震わせた。
――サンサは嘘をついている。
◆ 第1章 『悪夢の檻』 おわり




