第8章 第1節 賓客の賜(第1項)
黒猫のアルが鳴いた。
「ニクス。
あなたどこを見てるの?」
サンサに呼ばれ、
彼女の顔に焦点を合わせた。
わたしは上を向いて口が半開きだったので、
虚ろを見ているとサンサは思ったらしい。
パン生地に粉を撒き散らしたような――、
雲が引き伸ばされた空を見上げながら、
わたしは考えごとをしていた。
「閃いたんだよ。」
「出した本は片付けなさいよ。
ルービィがこれを見たら、
またわたしが叱られるわ。」
「叱ってくれるひとが居るのは
良いことだよね。」
彼女の言葉をわたしの便宜で解釈すると
深い溜め息で返された。
休養日の朝食後。
わたしは日陰の庭のテーブルに
書室にあった気になる本を集め、
読めるだけを広げていた。
誰も書室の本を読まないし、
昼食の前には本を片付けるつもりでいた。
サンサもスーも片付けないひとなのに、
彼女の方から事前に促してきた。
サンサはここで外出の用意を始めた。
スーは朝食を終えるとすぐに出掛けて、
日陰の庭はわたしだけになる。
「大陸と島の歴史書ばかりね。
今日は寒くなるから、
部屋で読みなさいよ。」
冬が近付いて影が長く伸びてきたので、
日陰の庭の天蓋が外された。
太腿の上で寝ている白猫のイオスが、
熾火の代わりをしてくれる。
庭に吹き下ろす風の冷たさに、
身体が細かく震えた。
気に入っている赤色の上着でも、
裾は短くて冷たい風を通してしまう。
「本を読みたいのなら、
書室で読んだほうがいいわね。
今日は風が出るわよ。」
上着を肩にして飾緒で繋ぎ留めて、
パイル生地の頭巾と宝飾巾で
風を防いでいる。
義腕の上にしたアームカバーも、
季節に合わせて厚手のものになっている。
「それで、なにが閃いたの?」
彼女はいつもの北側の椅子に座り、
冷たい銀の瞳でわたしを見つめる。
「エリクと話をして気付いたんだよ。
わたしはソーマの物語は読んでても、
島の歴史を知らないから。」
「自分の無知に気付くなんて。
会談をさせた成果ね。」
サンサの東部風の冗談に笑わず話を進める。
「大陸語の北部入植記録に、
管理者って出てくるよね?」
「えぇ。禁足地に居るわね。」
正統記の理解を深める為に、
サンサから勧められた原語の本にだけ、
管理者という人物が出てくる。
――禁足地でソーマ達の前に
現れたとされる管理者。
――本には民族や容姿も書かれず、
訳本には登場しないのよね。
――フルリーンの住んでいたオーブでは、
管理者とニースを混同して畏敬してる。
「この島に最初から牛や羊、
馬が棲んでたのは、
先住民が運び入れて
管理してたからだと思う。
入植者達は先住民、
氏族の住んでいるネルタの湖を
禁足地にした可能性があるよね。」
彼女は銀の瞳を細めて僅かに首を捻る。
「ニクスはネルタに居た頃、
誰から文字を教わったの?」
「え? 司書のひとだよ。」
「司書官? 名前は覚えてる? 家名は?」
「ゴレムって呼んでた。
家名までは知らないよ。」
テーブルに座ったアルが
サンサに向かって鳴く。
「ゴレム…。あぁ、ナルキック族の者ね。
顔を見たことがあるわ。」
サンサは母指でアルの額を撫でた。
「サンサってネルタに居たことあるんだ。」
「20年前に行ったことがある、
という程度で詳しくはないわよ。
彼はあなたをなんて呼んでたの?
お姫様? お嬢様? ご落胤?」
「そんな呼ばれ方はされないよ。
そのまま『ニクス』だよ。」
「友好的なのね。
話が逸れてたわ。
なんの話だったかしら?」
「この管理者って先住民だと思う。」
わたしは開いていた本の該当箇所を見せる。
「あぁ、その結論ありきの話ね。」
サンサはテーブルを指先で小突いて、
話を続ける。
彼女の膝の上に降りたアルが、
わたしの顔を覗いてきた。
「ゴレムは思想家ではないわよね。
科学の5段階法を述べなさい。」
「なに、突然…。
観察、推論、仮説…、検証、考察?」
2進法で中指と母指を立て、5個になる。
列挙した内容にサンサも頷く。
見て、予想して、仮定を置き、
証拠立て、その事実を示す。
これが科学の5段階法として、
いまも幅広い分野に残っている。
古代から標準を定めて区分けした
学問のことを、広くは科学という。
標準とは容量、重量、距離、角度などの
取り決めのことを示す。
科学とは5段階法を繰り返し、理論付け、
現象に物差しや天秤の錘といった、
標準を作ることにある。
標準を設けることで、
共通化されて利便性を向上させ、
公平性を持たせることができる。
物理、天体の運行、生き物、
農業や医療には標準がある。
魂などの思想は観測者の主観が強く、
客観性に欠けて、標準がないので、
科学とは呼ばれない。
「本が世の全てではないわよ。
推論として導くにしても欠点ばかりね。
検証も考察もされてないもの。
先住民という仮説を立てたのは、
あなたがネルタの出身だからかしら。
物語として書いた内容は
事実ではないわね。
根拠もなしに捏造された歴史は
願望の創作よ。
ニクスは今度、わたしの劇場の
戯曲でも書いてみる?」
――確かに、これは願望だわ…。
――管理者は大陸語の北部入植記録以外で
記述されてはいなかった。
――知ってたはずの5段階法も無視して、
曖昧な存在の管理者なんてものに
希望を抱いてしまったのね…。
指摘に恥ずかしくなって、
イオスを持ち上げて顔を埋めた。
「着眼点は評価に値するわね。」
慰めの言葉をかけたサンサが、
アルの前足を取るとミャオと鳴いた。
「次は法の歴史でも調べてみたら?
ソーマの訴訟記録と
照らし合わせる作業も愉しいわよ。」
「ソーマって実在するの?」
入植に纏わる本は誇張表現が多く、
現実離れした内容に実在感は薄れた。
「入植の記録は神話でもないし
ソーマは神でもないわよ。」
「法律の棚にある本は
難しそうで読んでなかった。」
「知らないものがあるのは良いわね。
なにも知らない状態で愉しめるのよ。
羨ましいわ。」
彼女はファウナと同じことを言う。
「わたしはこれから劇場に
舞台の準備で出掛けるから。
戯曲を書く気があるのなら
連れて行ってあげるわよ。
テーブルを片付けたらね。
スーのベッドみたいにしないでよね。」
「行ってらっしゃい。」
サンサの誘いを断ると
北の出口から館を出たはずの彼女が、
また出口から日陰の庭に戻ってきた。
「早かったね。」
「ねぇニクスっ。
ルービィってば酷いのよ。」
「今度はなにをやらかして叱られたの?」
憤った真似をした彼女は、
二人の少女を連れてきた。
「孤児院から預かってきたから、
館を案内しておいてなんて、
これから出掛けるわたしに言うのよ。」
「あぁ、選考会の…。」
一人は見覚えがあった。
孤児院の選考会で最後に選んだ、
刺々しい風采のある赤い髪の少女、
トリンが暗い目でわたしを見る。
もう一人の黒髪の子は、
ずっと笑顔を絶やさずサンサを見ている。
明るい褐色の瞳を輝かせているこの子は、
夜の館に憧れを抱く孤児院の孤児ではない。
黒色の質の良い上着とチュニック、
胸元には金糸の飾緒を渡らせて、
彼女の高貴な身分を示していた。
「ニクスに二人を任せてもいいかしら。」
「…拒否する権利は無いもの。」
「ふふっ。頼むわね。」
孤児院の選考会で
わたしがトリンを推したこともあり、
適任ではなくとも責任を感じて了承した。
サンサは二人を日陰の庭に残し、
改めて館を出ていった。
「わたしの名前はニクスよ。
こちらは部屋で飼ってるイオス。
ちなみにサンサが抱えてた
金色の目をした黒猫は
アルというわ。」
イオスを抱き上げると、ビャオォと
掠れた声で鳴いて自己紹介をする。
「みなさん、女神様のお名前ですわね。」
チュニックの少女が上品に発音する。
わたしは夜の女神、イオスは暁の女神。
遥遠代より昔、
古代の神話の知識がなければ気付けない。
ただし彼女は勘違いしている。
アルの名前は、
狩猟と貞潔の女神が由来ではない。
要塞の町を意味する古代語が由来と
サンサは言っていた。
古代語に関する資料は書室に無く、
少女の見解をわたしは否定できない。
「二人は互いを
知ってるでしょうけれど、
改めて名前を教えてくれる?」
「トリン。16歳。」
――もう成年なのね。
孤児院に居られるのは
成年になる16歳までで、
保護されてすぐ成年になった場合でも
恩情で1年間の猶予が与えられる。
彼女はなにか理由があって孤児院に入り、
その猶予期間にフランジに選ばれた。
オーナーのルービィが孤児の中から、
成年の彼女をドレイプにする為に
優先させた事情が想像できる。
「私の名前はムネモスです。
女神様と同じ名前ですが、
権能も持たないただの14歳です。」
「あなた、年下だったの?」
ムネモスは濃い黒眉に細長い唇で、
トリンに微笑してえくぼを見せる。
ムネモスはトリンに比べ、
肉付きも良くて背も高いので、
わたしよりも年上に見えた。
ムネモスも記憶を司る女神の名前で、
領主の娘であれば彼女はその名が似合う。
「私はまだ未熟で
気の利かない点があると思いますが、
ご指導のほどよろしくお願いします。
お願いしますね、ニクス姉様。」
「姉様?」
驚くわたしに、
ムネモスは瞬きをして、深く頷く。
トリンからも疑いの目を向けられる。
「わたしはあなたの姉ではないわ。」
「お互いに娼婦のお手伝いでしたのなら、
姉妹関係ではありませんか?
ルービィも言っていました。」
オーナーの名前を出されると諌め難い。
「年齢の近い子も多いと聞きましたから
心強いですね。」
「孤児ばかりなんだから、
姉妹でも家族でもないわよ。」
トリンは、ムネモスなど気にせず言い放つ。
トリンの意見に同意しかけ、
わたしは肯定に至らない説明をした。
「娼婦ではなくてドレイプと呼ぶべきね。
わたし達はそのドレイプの手伝いをする
ただのフランジよ。」
「犬の尻尾を踏んでしまったんですね…。」
ムネモスが奇妙な言い回しで、
わたしを犬に例えて失礼なことを呟く。
「フランジのあんたは
なにをしてるの? ここで。」
トリンはわたしの後ろにある、
テーブルに積んだ本を見ている。
「歴史の本で勉強をしていたのよ。
外は寒いからこれからの時期は
室内で読むべきね。」
「普段、この館でなにをしているの?
って聞いたつもりだけれど。」
彼女の疑問に首を縦に振る。
首肯したものの、
わたしは孤児院から来たフランジとは違い、
館に遅れて入って体力も知識もないので、
まともな仕事も与えられていない。
――なにもしていないとは言えないわよね。
「なにか、私にできる
お仕事はありますか?」
ムネモスは上着の袖を捲り、
労働意欲を見せる。
「え? …無いわよ。」
彼女が想像している下働きの労働は、
ドレイプを目指して働くフランジには
求められていない。
「メグ。」
トレイに杯と瓶を持って
日陰の庭にやってきた、
従業員のメグを呼んだ。
銀髪を真ん中で分けて額を出すメグは、
わたしに呼ばれると、嬉しそうに近付く。
「なぁに? あぁ、新しい子ね。
選考会の?」
メグの口元が隠せないほど緩んでいる。
「トリンとムネモスよ。
新しくフランジが入ることは、
もう知ってるのかしら。」
「オーナーから知らされてるわよ。
これから家具職人が来るから、
キーアとナディが片付けに
取り掛かってるわ。
仕事の部屋割りもサャーミ、スレマ、
カサドラの春の3人で決めてたわよ。
8人も来るなんて賑やかになるわね。
みんな楽しみにしてるのよ。」
わたしがなにかを言うまでもなく、
メグは頭を深く丁寧に下げて、
食堂に入っていった。
水の入った杯を二人に渡す。
「ニクス姉様は、
この館の偉いひとなのですか?」
「メグはオーナーが雇ってる
館に住む従業員よ。
わたしは二人と同じフランジ。」
「でしたら使用人なんですね。」
「使用人でも奴隷でもないわ。
ここの従業員は仕事が決まってるから、
命令してはいけないわよ。
それにここで働くひとは、
ドレイプ以外は飾緒を垂らさないの。
仕事の妨げになるものね。
フランジもしないわね。」
「それは?」
わたしの帯紐に結んだ
青銅の鍵を指示したトリン。
「これは飾緒ではなくて、ただの鍵の紐よ。
ドレイプの服をしまっておく衣装室を、
わたしが管理させられてるの。
言葉で説明するよりも
実際に見たほうが早いわよね。
ついでに軽く館を案内するわ。
まだ見てないでしょ?」
熾火代わりのイオスを持ち運び、
二人に館を見せることにした。
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