サンサに連れられて孤児院を抜け出し、
川沿いの街道に出た。
川向こうの北側は無産街と呼ばれる土地で、
遠目に見ても高い建物は少なく、
昼食時の為に炊煙が何本も昇る。
笛の高い音色が遠く、
対岸のこちらにまで聞こえる。
最近は降雨も少なく川の水量は減り、
岸に近い場所の水深は浅い。
流れるゴミを目で追っていると、
流れに沿って身体が倒れかける。
水流と共に移動していると脳が錯覚して、
乗り物酔いと同じような症状が出た。
水面に浮かぶ鴨や
繁殖相手を求めて羽根を広げる鷺。

わたしの腕の中で
イオスが身体を捩って抜け出そうとした。
春先に眺めた運河や、
塔から眺める湖に比べて、
見るものが多くて目が忙しい。
足元では亀が岸に掛かった板に乗り、
甲羅を干し、体を温めている。

積石状になった親子の亀。
僅かな足場に他の亀が上に乗り、
蹴落とされて水に濡れても這い上がってくる。
塔で暮らしていた時は湖に亀が泳ぐ姿を
見かけることはあっても、
こんなに近くで動く姿を見たことはない。
その様子をしばらく見ていると、
再び腕の中でイオスが暴れて鳴いた。
「もう満足したかしら?」
「な…待ってたなら呼んでよ。」
サンサが宝飾巾の奥で
口角を上げて見ていた。
恥ずかしさが込み上げてくる。
「レナと変わらないわね。
観察なんてしてたら日が暮れるから、
もう行くわよ。
長雨が終わったのに、
あそこでまだ浚渫をしてるでしょ。」
川の上流になる西側は、
その川の半分が板で仕切られて
川幅が細くなっている。
イオスがまた鳴いたけれど、
アルはサンサの腕の中で静かにしている。
「浚渫?
堤防の補強?」
「川底の堆積物を排除して、
水量と水質を保つ作業よ。」
「川の掃除を浚渫って言うんだ。」
「あの箇所の水を抜いて、
川底に溜まった澱を浚うのよ。
漂流物やゴミの除去は清浄屋の仕事ね。」
――澱。
川には虫、お魚などの小さな生物が棲み、
藻や水草に流れついた枝木が絡まり、
石が留まって底には汚泥が堆積する。
川を流れるのは湖からの水だけではない。
雨水、生活排水、落ち葉や枝に泥、
捨てられた布や羊皮紙などのゴミが混ざる。
そんな中でも白い羽根の大型の鳥、
鷺が川底の虫や貝を得ようと、
川岸に立って作業員達の様子を窺う。
「エルテルで不作が続けば、
分水街では食料が
得られなくなってしまうもの。
大水害の教訓。
民衆から税を集める口実の一つね。」
「あ、『課税』だね。」
四時の札遊びでも使われる言葉。
星札を市場に出せば、出された相手は
星札の枚数だけ土地から札を選んで、
手札に加えなければならない。
浚渫の作業場では
子供達が蔓草で編まれた籠で、
水を含んだ重たい泥を運んでいた。
泥で汚れたチュニックに身を包み、
奴隷か、無産街の子かもしれない。
かれらを監督する日に焼けた大人達は、
目立った汚れのない服で哄笑して
道端に立つ女の腕を引っ張って捓う。
乱暴にされると女の頭巾が取れて、
短く刈られた赤い髪が露わになる。
跪く女の姿を男達が嘲笑する。
「作業が進んでいないのも困ったものね。」
「オレ、やってたぞ。あれ。」
グルグスが主張した。
「レナが気に入って
ルービィがあなたを買ったのよね。」
「お嬢に感謝してる。」
彼は濃い肌に白い歯を見せて笑う。
グルグスという大陸語由来の名前は
ファウナが言うには、猫が寛ぐ時に
鳴らす喉の音から来ているらしい。
「グルグスくらい優秀な人材が、
1,000人も居たら往復ポンプが
使えたわね。」
「労力の無駄遣いだよ。」
サンサの提案には想像が追いつかない。
「馬なら僅か250頭で済むわよ。」
「まだ多いよ。」
街の中心に繋がる広い街道とはいえ、
数の多さが想像を超えてしまう。
「往復ポンプも油圧を使えば、
労力も減らせるよね?」
「技術や道具の有無だけではなく、
ここには権利の問題も含まれるわね。
川や橋は作ってお終いではないもの。
住み良い環境を維持するには、
整備は欠かせない仕事よね。
川に限らず、床石、道も同じ。
砂を払わなければ埋もれていくのよ。
街の象徴になっている鐘楼や
堅牢なあの防壁も、手入れしなければ
やがて風化していつの日か崩れるわね。
戦争が起きなくても、
自然の力には抗えないものよ。」
「戦争…。」
南のネルタと西のカヴァとの長い戦争は、
ネルタの滅亡という形で終わった。
分水街は緑と水が豊かで毎日賑わっていて、
戦争に関係のない穏やかな街に見えた。
そんな考えに耽っていると、
髪の短い娼婦を捓った労働者と
護衛とのあいだで喧嘩が始まった。
「ニクス。行くわよ。」
サンサの呼び掛けにイオスが鳴いた。
太陽はまだ高い位置にあり、
街を南北に分かつ川を右手前にして
ドレイプ姿のサンサの後ろを歩く。
大男のグルグスがついて歩くので
わたし達に視線が集まる。
分水街の東側と北側を挟んで流れる川は
無産街との境界。
住宅地の静寂と、街道を走る馬車の軋み、
労働者達の喧騒が入り交じる。
「わたしから逸れると、
真黒な服を着たひと達に
真黒な袋に入れられて
真暗な土地に連れていかれるわよ。」
黒色のキャシュクとスラックスを履いた、
オーブの黒装束姿の人間に顔を向ける。
頭巾や宝飾巾で顔を隠したひと達。
わたしはサンサの冗談を真に受けず
黙ったまま後ろを歩く。
彼女が人攫いに見立てたひと達は、
マルフの会社の清浄屋の従業員だった。
かれらは街道を歩き、馬の忘れ物を拾い、
公共の手洗い所で不要物を汲み取る。
落ち葉を拾い集めたり
植物の手入れを行うので、
かれらの仕事のおかげで
街の景観が保たれている。
「ニクスに怖いものって無いのかしらね。」
サンサやスーが好んで話すような
井戸からの侵入者や人攫い、創造の竜など
話の中の存在を怖がってみせたところで、
相手を喜ばせるだけでそこには学びがない。
夜の井戸水や果樹園での毒といった
虚構を混ぜた婉曲な訓話とその効果よりも、
わたしは考証に関心を抱く。
蝋燭で固めた翼で空を飛んだ、
ヴィカロスの話がその一つだった。
「レナなんて怖がって、
泣いて夜まで抱きついてたのよ。」
わたしもいまのレナタもそんな話に泣いて、
誰かに抱きつく年齢ではない。
「…それ、大昔の話だよね?」
「大昔ではないわよ。最近よ。
レナが4歳くらいね。」
「6年前は最近でもないよ。」
「井戸が怖いって泣いてた話、聞きたい?」
「またレナを騙して捓ったの?」
レナタは律儀な性格が災いして
サンサに騙されてしまう。
「わたしは騙して無いわよ。
そう言って騙したのはノーラよ。
あの子の純粋さに、
わたしは身を案じてるくらいよ。」
自称するサンサの言葉を信じず、
わたしは聞き流した。
◆
わたしの選んだ孤児達は、
どこかフランジやドレイプと
似通って見えた。
館に住んでいる彼女達は決まりがあり、
出自を問わず、多くを喋ったりはしない。
スーのように
貴族のお嬢様と称する子も居る。
館の決まりを破るのはスーか、
洞窟港の港長の娘と称したファウナになる。
「メノーが辞めるから集めるから、
フランジを増やすんだよね。」
「辞めて工場で働いたり
従業員を選ぶ子達も居るけれど、
孤児は年に2回だけ
選考会をして入れるのよ。
夏や冬では
食中毒や病気になったりするもの。
健康な子を選ぶのはむずかしいわね。」
彼女は老人病で死んでしまった
ウラのことを言っている。
「選考会は孤児をフランジにする目的で、
孤児院から買ってるんだね。」
「なにを勘違いしてるの。
買ってはいないわよ?
この街の法律では
孤児院は子供を売ってはいけないし、
子供を買ったりもできないのよ。」
「オーナーが
あの孤児院を経営しているわけ
でもないんだよね?」
「ルービィは孤児院の運営に
口出しはしていないし、
援助金を支払っているだけの
ただの支援者。
ドレイプになりたがる孤児達の、
後見人になっているのがナルキア家よ。」
孤児院で子供を買ってはおらず、
孤児院の支援の報酬で子供を得ている。
「それって…確認するけれど
中身は同じだよね。」
わたしに疑惑をかけられても、
彼女は素直に頷く。
「袋を変えただけね。
法の抜け道。
西の連中とは違って、
道を外れてはいないわよ。」
「それってユヴィルのこと?」
「ふふっ…。
それに孤児院に一番多くの
援助金を出してるのは、
銀行屋のオーネック・マイダスよ。」
「銀行が? お金を管理するのに?」
「彼は金の奴隷だなんて
嘲られているものね。
孤児院を援助する彼は貴族のあいだで
篤志家なんて呼ばれたりするのよ。」
「それ本で読んだわ。
慈善事業っていうの?」
わたしの疑問に彼女は肩を揺らして笑う。
「ふふふっ。
ないわね、そんなものは。
虚飾も使い方次第よね。
銀行屋も毎年、
子供を買い集めてるのよ。」
「銀行が?」
娼館と違い、孤児と銀行は結びつかない。
「何千と居る顧客の為替を出すのに、
数字が得意な子に何百万回もの
計算を同時にさせるの。
計算に過ちがあれば
それは銀行の損失になるし、
信用を損じるものね。」
「回数の数字だけで酔いそう。
それだけ多くの計算ができるのなら、
銀行なら四時の札の勝ち方も、
判断できたりするのかな?」
四時の札遊びは
相手の出せる札を予測して絞っていき、
最終的に相手より優位な札を並べる。
一人25枚の札でも、
札の組み合わせは6倍以上にもなった。

貝札の前後や紋標を入れ替えて数えれば、
組み合わせはさらに増える。
「25枚しかないのに
あれで10巡も札を並べれば、
10億以上も分岐ができるんだよ。」
札を2枚ずつ10回除いていくと、
分岐は10の9乗を軽く超える。
恐慌札を含めた時の0の商人札や、
宝飾巾した札の回収もあって、
計算が複雑になってしまった。
「最近ずっと書字板を重ねて
なにか計算していると思えば…。
次は天体物理の計算でも
始めるつもりかしら。
猫にでも相談したらどう?」
アルとイオスが順に鳴いた。
「分水街にはそんな言い回しがあるの?」
「ふふっ。
相談すれば
案外それで閃くかもしれないわよ。」
サンサがアルやイオスに
話し掛ける姿をよく見た。
捓う彼女のそんな話を、
わたしは真に受けるわけがない。
「孤児院への援助金を差し引いても、
銀行は優秀な子を集められるから
結果として儲かるのよ。」
「まだ実っていない畑を、
土地ごと買うんだね。」
「契約済みの畑よ。
買うのは苗ね。」
「それも言葉遊びだよね。
選ばれなかった子はどうなるの?」
「自明ね。
あなたは分かってるのに
答えから目を背けているのよ。」
サンサの意見は正しい。
無知なわたしの考えは、推論に過ぎない。
「成年になれば院を追い出されて、
娼婦になるんだね。」
「なにかしらの理由で保護されると、
恩情で1年間の猶予が与えられるわよ。
それでも行き先は限られるわね。」
女では知識や技術があっても
伝手がなければ、レナタのように
画工の生徒になるのも難しい。
「娼婦に必要なものはなにかしら?」
「…服?」
疑問が含まれるわたしの見解に、
サンサは鼻で笑って返す。
「身体を売るだけなら
服だけでも充分よね。
あそこに大衆浴場があるでしょ?」
顔を向けた川の向こう側。
北の無産街に、
高い煙突が建っている。
そこがサンサの示した大衆浴場だった。
「ひとは貴賤、職業に関わらず
食事と健康が必要になるわね。
パンとお酒で4ルース。
お風呂は8ルース。
これだけでは
生きていけないわね。」
「避難所で寝るとして、
お肉とお野菜?」
サンサはまた鼻で笑った。
「分水街で街娼として働くには
身分証が必要で、それを得るには
税を3,600ルースは納めなくてはいけない。
一日あたり10ルースが税ね。
客が街娼に支払う最低限の報酬は、
22ルース以上と街の法律で
定められてるのよ。」
娼婦の収入の半分近くは税金という。
「そんな法律に従えば、
最低限のお金しか支払わないよね。
夜の館は?」
「夜の館は公娼館とも違うわよ。
いまは最低でも
10,000ルースくらいかしら。
ここでの問題は館に属さず、
部屋を持たない下流の街娼よね。」
振り向いて娼婦達の喧嘩を見ても、
距離が離れてしまって様子は分からない。
「税金を支払う為に
みんな働いてるみたい。」
「元老院は公娼館から税収を得て
私腹を肥やしたくても、
街娼を過剰に増やして
風紀までは乱したくない。
均衡は保たなければいけない。」
「均衡って需要と供給とか、
税収と治安の天秤だよね?
この街の外で娼婦、街娼ををやるとか?」
「収入が保障されなくなるわね。
報酬が定められていなければ、
22ルースの半分も支払われないのよ。
街の西側なんて法の目が届かないもの。
無産街に立つ街娼相手には
客の質も悪いのだから、
5ルースさえも得られないでしょうね。
稼げないからという理由で、
複数人を同時に相手する街娼も居るわ。
それに護衛も雇えないから
報酬が支払われずに逃げられたり、
中には殺されてしまう子も居る。
治安、客層の問題もあって
妊娠すると働けないわね。」
――ドレイプと娼婦の違い。
「あ、だから娼婦ではなくて、
ドレイプって名乗ってるの?」
――中身は同じで袋を変える。
宝飾巾の奥でサンサが笑った。
「ドレイプなんて名乗ってるけれど、
娼婦の100倍は税を支払ってるわよ。」
理由が分からずわたしは首を捻る。
「公娼館の娼婦に限らず、
勝手にドレイプなんて
名乗られたら迷惑だもの
ドレイプは夜の館のみの、
価値ある存在であるべきなのよ。
ユヴィルの娼館でも
闇の館としか名乗れない。
それに孤児院の子供をフランジと呼んで、
娼婦の仕事を手伝わせてるのだもの。
議会に黙って貰うには、お金が一番よ。」
「それって…。」
「信用はお金で解決するのよ。
銀行屋もやっているもの。」
「行動で示すものではないの?
信用って。」
以前、サンサが言っていた言葉なのに、
今回は違う方法を示していた。
「みんなで悪さをすれば、
なにも問題にはならないのよ。」
「重罪人が共犯者を増やしてる…。」
――サンサはこんなひとだったわ。
わたしは一つ溜め息を吐いて、
また彼女の後ろを歩いた。
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