第7章 第1節 黄金の蜜(第3項)
わたしが厨房からガラス瓶を持ってくると、
ウントが倉庫の片付けから戻ってきた。
「お、終わった、ぞ。」
周囲に向けて尖らせていた銀の髪の毛は
汗に濡れて見る影も無く、
剥かれたナショーの皮のようだった。
サンサはウントを半眼で見た。
彼女はなにをするでもなく、
テーブルの上に座るアルを
長いあいだ黙って見つめていた。
来客の予定がなくても
天蓋の日陰に座るサンサは、
背筋を伸ばして美しい姿勢を保っている。
認証管理補佐のファウナは、
こんなサンサから仕事が与えられず
退屈に耐えられなかったという。
「疲れてそうね。
お昼は過ぎても宣言通り、
一人でできたのね。」
「言った、だろ…。」
強がっていても息を切らして、
両腕は疲れきって肩で呼吸をしている。
疲労の具合が一目で分かる。
「ほら。飲みなさい。」
「おう。」
サンサから銀の杯を受け取り、
彼はそれを踟いなく一気に飲み干す。
「プァッ! 水かぁ?」
「護衛であっても
館ではお酒を与えはしないわ。
手が痺れて動かないでしょ?
水を飲まないと死ぬわよ。
ニクスがあなたの為に作ったのよ。
感謝なさい。」
「んだよ。
ハーフガンなんて
ずっと酒を飲んでたんだろ。」
わたしが館に来た時のハーフガンは、
騎士とは思えない浮浪者の姿をしていた。
「なにを競ってるのかしら。
それであなたもメノーに蹴られて
レナに水を浴びせられたいの?
あなた達が似てると思ったら
共通の趣味があったのね。」
「似てねえだろっ!」
サンサはウントから杯を受け取り、
テーブルに置く。
それから彼女は
黄金色の玉粒を彼に手渡した。
「これも食べていいわよ。」
「なんだこれ?」
「蜂蜜の飴よ。
あなたは食べたことないでしょ?」
「かってぇ! 石だろっこれっ!」
彼は飴を歯で噛もうとする。
「噛んだら歯が欠けるわよ。
口の中で舐めて溶かすものよ。
食事をして充分に身体を休めなさい。」
「疲れてねえし。」
「歯も磨きなさいよっ。」
「うるせえ! 婆ぁっ!」
小言を並べるサンサに罵声を浴びせ、
彼は玄関の方へ去ってしまう。
わたしは彼の背中に、
書字板のスタイラスの先を向けて
サンサに訊ねた。
「サンサって怒らないよね。
ウントに期待してないから?」
「相手の挑発に応じても、
得られるものがないからよ。
感情を否定はしないわよ。
演劇は感情を見せないとできないものね。
それでお客さんの受けも良くなるわ。
感情論にも書かれてたわよね。
感情を発露させることで、
人生が豊かになると考えるひともいる。
けれど、その感情に
見返りを求めるのは危険だもの。」
――感情に見返り?
「根拠があるの?」
「そんな大層なものないわよ。
これはあくまで経験則ね。
対価に見合うだけの報酬が無ければ、
原因を探ってしまいかねない。
ニクスは体調を崩した時の原因を、
祈りを欠いたせいにはしないでしょ?
それと同じように、
感情豊かなひとを真似しても
同じだけ満たされるはずはないのよ。」
わたしは首を縦に振り、自信なく肯定する。
この館でスーやミュパみたいに、
感情豊かに楽しく過ごすことは
わたしには難しい。
「感情に流されて、
自制心を失うひとも居る。
祭りの興やお酒の勢いで、
荒ぶるひととかね。
憎い過去に怒ってみても、
過去は変わらないものよね。
復讐心を抱いても、
復讐に怒りという感情は
必要ではないわね。」
「それもサンサの経験則?」
「ふふっ。
ニクスにも該当することよ?」
サンサはテーブルに指を立てると、
声を低くして続けた。
「…目の前に復讐したい相手が居たら、
あなたならどうする?」
「仮定の話でなにかを言えば、
サンサを喜ばせることになるでしょ。
挑発に応じてはいけないって
言ってたばかりだよ。」
サンサは顔を背けて肩で笑う。
アルが大きく口を開けて欠伸をした。
「ふふふっ。
あなたの経験則ね。
書字板の手がずっと止まってるわよ。
あなたの期待に応えて、
日が暮れる前に書室の様子を
見てきましょうか。」
「本があるんだよね?」
「書室だもの当然よ。」
彼女は座ったまま、
まだアルを見ている。
わたしは彼女を急かすように、
計算途中の書字板を音を立てて閉じた。
太腿の上で眠りかけていたイオスが驚く。
「孤児院から来る子の教養に、
色々と買っておいたのよ。
貴族を相手にしても
恥じのない娼婦にする、
ってルービィを騙してね。」
「…あの、サンサ。」
彼女はわたしの次の言葉を待った。
「わたし、娼婦…
ドレイプにはなりたくない。」
それを聞いても彼女は怒らない。
彼女はわたしに期待していないので、
レナタのように泣いて失望もしない。
サンサは予想した通りに口角を上げる。
「この館を脱走した時から、
そんなことみんな知ってるわよ。
理由があるんでしょ?」
――理由。
「…これは、身分から来る
嫌悪でもないと思う。
メノーやボナ達には敬意を持っている。
…ファウナにも持ってるよ。
でもわたしはドレイプに対して、
レナタくらい高潔な憧れは持ってない。」
レナタみたいな目標もなければ、
望んでフランジをになったわけでも、
ドレイプに理想も抱いていない。
「それは良いわね。」
「ドレイプになりたくないんだよ?」
微笑するサンサに説得は通じず、
彼女はわたしを館から追い出しもしない。
「ふふっ。
同じである必要はないわよ。
あなたはメノーでもボナでも、
レナでもないことを理解したのよ。
自分と他人を比較した立派な差別ね。」
「…差別?」
「これは単純に概念の話ね。
物質と生物の違い。または自分と他人ね。
生物は成長と繁殖の為の設計図を持ち、
これを分けるための学問があるわね。
このくらいは知ってるわよね?」
「設計図は、医学書で読んだことがある。」
生物の身体には、目に見えないほど
小さな設計図が存在するとされている。
設計図に従い身体が作られて細胞を増やし、
成長して古くなったものは、
新しい細胞に換えて修復する。
そして繁殖時には、設計図の一部を
子や孫に引き継ぐ機能がある。
「男女の差、髪や目の色、顔や体格。
分類としての差別、それ以外にも、
形容を加えた場合の差別もあるわね。
そのひとの出自、能力、
わたしのような欠損も該当するわ。
思想で語られる標準のない差別よね。
これはどうかしら。
アル、イオス、ここに並んで。」
サンサがテーブルの天板を指先で小突く。
それを耳にした2匹は、
サンサに言われた通りに動いて
テーブルの上に並んで腰を下ろす。
「この二つは猫という動物。獣。
毛の黒い方がアル、白毛はイオスという
個別の名前を持ってるわね。
わたしが連れてきたのがアル、
あなたが連れてきたのはイオス。」
わたしは黙って顎を引く。
「資源は限られていて、
このうちのどちらか一方にだけ
食事を与えられるとするなら、
あなたはどちらを選ぶ?」
「序列の話?」
サンサはアルの頭を撫でてから、
同じ手でイオスの背中を撫でると
腰を上げてさらに催促をしていた。
「ふふっ。
この時の差別は、優遇の口実になる。
だから大陸では差別を他の言葉に変えて、
侵攻と略奪を正当化してるわね。」
彼女はイオスの尻尾の付け根を指で叩くと、
アルがイオスを羨んで見ている。
「ニクスは娼婦にならないという
自分に一つの条件を設けたに過ぎないの。
お酒を飲まない、とかね。
賢しらに言えば、
理念と呼んだりもするわね。
次は目標を見つけに行きましょうか。」
サンサは目を細めてから立ち上がった。
◆
書室に入っていたとは思えない量の
ガラクタが玉石の庭に広がる。
「広大なる残滓だね。」
わたしの思いつきの言葉に、
サンサが冷めた目で無言の抗議をする。
「これでは洗濯の妨げになるわね。
果樹園に移動させるように、
後で言っておかないと。
どうせ春までは食べられない
果実ばかりなのだから。」
ランタンを握ったサンサは溜め息を吐く。
わたしが扉を開けると、
彼女が書室に入っていく。
窓のない書室の中央にはテーブルと椅子。
壁際には太い柱と厚い板で作られた棚が、
天井にまで段を築き、壁面を隠すほど
何冊もの本が置かれていた。
「本当に書室だったんだね。」
「棚ごとに分野を作って
メノーは生物学を読んでたわね。
解剖学の本なんて図解もついてるのに、
フランジは怖がって近付かないのよ?」
「サンサが怖がらせたからでしょ。」
「レナに読ませただけなのよ?」
「絶対それが原因だよ。」
「で、こちら側は幾何学、統計、語学…、
兵学、それから法律はもう古いわね。
訴訟記録の写しもあるわ。」
彼女はテーブルにランタンを置いて、
棚の本を探って懐かしむ。
「サンサ。口布はしないの?
病は口からでしょ。」
わたしは埃の舞う室内に入らず、
口布を当てて棚に置かれていた本を見た。
「あったわ。
これが原語の北部入植記録ね。」
「あれは?」
目的の本を発掘して喜んでいるサンサに、
わたしは棚の上の方に置かれた
箱を見つけて視線を向けた。
サンサは棚に足を掛けると、
身軽に跳んで薄い箱を取った。
彼女が片手で持ち上げられるくらい軽い。
「これね…。」
傾けると中から軽妙な音がする。
「楽器?」
「あぁ、懐かしいわね。」
手にした途端に中身を理解して、
サンサは書室から出てきて
長椅子にそれを置いた。
パイル生地の布が貼られた箱の中には、
硬貨が何枚も入っていた。
サンサは硬貨を手にして
箱の中に並べていく。
青銅、銅、銀と金。
表面にエンボスの加工がされた
男の肖像が並ぶ。
「こんな感じかしら。
金貨は1枚足りないわね。」
「どうしたの? このお金。」
「あなたが生まれる前まで
島で使われてた大陸の通貨よ。」
大きさの異なる青銅貨と銅貨が8枚ずつ、
銀貨は6枚で、金貨は11枚。
「下から青銅、銅貨、銀貨、金貨。
右側ほど価値が高くなるわ。
青銅貨と銅貨は8等分、6等分は銀貨。
金貨は本当は12種類で、
ほとんどは重さが価値に繋がるわよ。」
似通った顔をしたエンボスの肖像画は、
並べないと単体で見分けがつかない。
「硬貨ってこんなに数があるんだ。」
「大陸の通貨は統治者が変わる度に、
新しい価値の硬貨が作られるのよ。
民衆に王の偉大さを喧伝する道具ね。」
硬貨の材料を知っていても、
本で読んだだけでは
種類の数までは把握できない。
「王は決まって自分を神やその化身、
または神の代弁者と主張するの。
でも金貨なんてものは、
貴族が自分達だけで使うものだったのよ。
地方の民衆に金貨は必要ないから
流通量も限られてたわ。
カヴァや分水街では、
昔から大陸とは別のオル銅貨っていう
代用通貨が広まっていたものね。
こんなに種類があっても
使うひとが居かったのよね。」
「これ、数字もないの?」
顔と名前らしき記号があっても、
数字を示すものはどこにもない。
「王の価値を決めてしまうから、
数字を入れない決まりになってるのよ。
安価な肖像の王なんて誰でも嫌でしょ?
メーニェ島海戦で、
敗北した当時の王が肖像になった金貨は、
価値が無くなったとまで詩に歌われたわ。
それに大陸の肖像って、
どの王も顔が理想化されて似るのよね。」
豊かな髪、薄い唇に顎髭を蓄え、
長い鼻筋に細い目をした男の顔では、
並べても差は不明確で見分けがつかない。
「もう古くて使えない硬貨だから、
こんな棚に残ってたんだ。」
「いまでも銀行に持っていけば、
50万ルースくらいにはなるわよ。」
「価値はあるんだよね?」
数字は大きく聞こえても、
それがどれほどの価値があるのか、
硬貨を使った経験のない
わたしには分からない。
「金貨に使う黄金そのものが、
大陸では希少で価値のあるもの
とされるわね。
でも大陸からの輸入頼りで、
通貨としては数が足りなかったのよ。
様々な要因が重なって、
オーブで新しく作ったの。
おじい、先々代の領主、グレイ老と一緒に
エルテルから正式な認可を受けてね。
フルリーンの曽祖父って
言った方が分かるかしら。」
箱の中の並べた金貨の、
欠けた部分に指を立てるサンサ。
「フルリーンの父が、
いまのオーブの領主なんだよね。」
「おじいの孫のメテオラね。
それといま分水街にある銀行は、
オーブ領主の分家がやってるの。
オーネック・マイダスという男ね。
銀行が無ければ為替も動かせず、
島の経済は成立しないのよ。」
「為替…?」
聞き慣れない用語に首を捻る。
「お金の受け渡しをする証書のことね。
数の限られる金貨を、
エルテルから分水街まで
輸送する必要はなくなるでしょ?
盗賊が輸送車を襲っても
金貨ではないから、証書は
かれらに意味の無い紙になるの。」
「カヴァのオル銅貨は使わなかったんだ。」
わたしの言葉にサンサが鼻で笑う。
「島の歴史が浅いのと、
貴族が権利を独占する為ね。
いまでも島の唯一の港、洞窟港から
何人もの奴隷が運ばれてくるわね。
島の人間が島の外、
大陸へ行けないのは知ってるでしょ。」
わたしが頷いてみせると、
彼女は口角を上げてこんなことを言った。
「海には船を襲う
恐ろしい竜が居るからよ。」
「スーが言ってた民間伝承の話?
大陸との法律で決められてるんだよね。」
わたしがサンサの企み通りに
怖がらないので、彼女は唇を尖らせる。
「島の自由な貿易を禁止した、
海禁法というわね。
島を秘匿する門番がいるのよ。」
「メーニェがその門番?」
ゼズ島の洞窟港から西に位置する島。
『なにもない島』という意味で、
『ゼズ島冒険記』に書かれている古い国。
「ラッガの繍旗といえばあそこね。
鼠を駆除して奴隷を運び、
島の産物を得ることができる。
大陸では海賊島や傭兵国家という
呼び方もされるわね。
洞窟港と東部3領からは、いまでも
メーニェを『本国』なんて呼んでるわ。
『なにもない』という島の名前、
かれらは土地に根付かない氏族ね。
古くから海で産まれて海で死ぬ、と
詩には海の民なんて書かれ方もしてる。」
「土地に根付かない?
海の上で暮らしてるんだ。」
話を聞いても想像を超えていて、
事実であっても受け入れ難い。
「陸にも上がるわよ。
誇張してるだけで。
海の上では真水が得られないもの。
大陸中央の半島…
エンカーはかれらの寄港地。」
北方のソーンと南方のクレワに挟まれた
中央の緩衝地帯はラギリ領と呼ばれ、
何度も土地の奪い合いが行われていた。
中央のラギリ領にある半島と、
その街の名前をエンカーと呼ぶ。
『ゼズ島冒険記』の
出発地点で登場する。
「大陸語の中でエンカーンの本が多く
この島に輸入される理由はそれね。
大陸の統治者が変わる度に
お金の種類や価値が変わって、
お金の為にお金を支払うなんて
相反するわよね。」
「入植から300年以上も続けてたのに、
貢ぎ物を得られなくなったメーニェは
なにも言ってこないのかな?」
エルテル、メルセ、オーブの東部3領と
洞窟港は、メーニェが分け与えた領地。
「カヴァとネルタの長い戦争と、
東で広まったエルテル風邪を警戒して、
なにもしてこなかったのよね。
歴史書にはまだ記されていないわね。
大陸でも疫病が広まっていたし、
資源を巡って南北で戦争も起きていた。
島内と大陸の監視の目が緩くなったから、
わたしも機運に乗じることができたわ。
今年はメーニェもこちらの様子を
気にかけてはいるみたいね。」
サンサは金貨を手にして笑みを浮かべる。
「ここの金貨、12種類って言ってたのに、
1枚足りないのはどうして?
ずっと倉庫に置いてたのに。」
「昔、館に来たへッペに渡したのよ。
早く帰って貰いたいでしょ。」
「ドレイプがお金を払って帰らせるなんて、
主客転倒だよ。」
「渡す相手に丁度いいでしょ。
ユイガス金貨という
この中で罪の重い硬貨をね。」
「罪の重い?
その金貨って館を売るくらいの
価値があるの?」
フルリーンが図書館で言っていた
価値のある金貨。
「そんな話もあったわね。
大陸から入ってこなくなったから、
収集家に値段を吹っかけたのよ。
あの金貨が1枚あっても
有輪犂が買える程度の価値で、
館までとは言えないわね。」
「それを渡したんだ。」
「黄金なんてものは
虚栄の装飾が主な用途だもの。
マルフの格好を見ての通り。
金貨は価値を測る為の
天秤の錘に過ぎないわ。
資金を持つなら金貨よりも
金地金の方が良いわね。
これは模造品だから
本物ほど価値は無いわね。」
「えっ?」聞き間違いかと思った。
「悪く言えば偽貨。偽造ね。
白金と銅の合金に
鍍金をしているのよ。
重さを本物に近付ける為にね。
これは持ってるだけで犯罪になるし、
作ればもちろん重罪よ。」
「そんな危ないもの、
どうして書室に置いてあるの?」
「わたしがおじいと一緒に作ったからよ。」
「重罪人だ…。」
聞き間違いではなかった。
「大陸で作られた古い金貨よ?
同じものを作るなんて容易なのだから、
本物同等の金貨を大量に作って
精巧な偽物を少量混ぜたのよ。」
金貨を箱にしまうと、
彼女は笑ってわたしに押し付けた。
「欲しければあげるわよ。」
「またわたしを共犯者にしないでよっ。」
箱を書室の棚の上に戻さなくてはいけない。
わたしは棚に足を掛けて跳び上がると、
身体が棚に接触して胸を痛めた。
この粗暴な行為の結果、
痛がるわたしにサンサは呆れる。
彼女の真似をするべきではなかった。
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