第1章 第4節 交渉の味(第1項)
わたしは眠る。
眠っている。
甘い香りと、柔らかな腕に抱かれて。
――夢だった。…夢だと思う。
暗く寒い地下の檻で過ごす夢。
花の香りと豊かな緑、清潔な水の館を。
罵倒と暴力を浴びる夢を見た。
猫の鳴き声がした。
銀色に冷たく光る瞳が、わたしを見つめる。
伏せた視線の先に、真黒な血が流れた。
暖かい光が瞼に当たって、
長い夢から目を覚ました。
わたしの身体は牢檻の土塊ではなく、
滑らかな肌触りの毛布と
コットンのクッションに挟まれていた。
「あら、起きたわね。」
「あっ、おはよう、ニクス。」
開け放たれたカーテンの、
正六角形模様のガラス板が光素を拡散する。
光に反射して輝く金色の髪のスー。
光を吸い込む黒髪のサンサ。
「よく寝てたわね。
身体に痛むところはない?」
黒猫のアルが、お腹の上に跳び乗った。
猫の細い身体でも、
重さと衝撃が背中を突き刺すようで
まずそれが痛い。
痛みと夢の続きの現実に、
わたしは眉間に力を込めた。
目を擦っても現実は変わらない。
男に握られた右腕に目を落とす。
改めて見るとその箇所は、
濃い紫色の痣になっている。
触ると痛く、夢ではなかった。
わたしの考えを無視してお腹が鳴った。
二人の耳にまで届くと
彼女達は静か笑いを滲ませるので、
なにも言えずに恥ずかしくて顔を伏せた。
「ふふっ。それが返事?」サンサは呆れる。
部屋に充満する甘く香ばしい匂いは、
鼻を刺激して唾液が湧き出る。
明るく、広く、質素な部屋。
天井には採光用の透明なガラス窓があり、
室内でも蝋燭が要らないほど明るい。
壁に蜥蜴の姿があった。
それは近くの壁に飾られた、
緑青に覆われた正六角形の銅のレリーフ。
――あれは銅鏡かしら。
扉の前のベッドの上で、
スーが素足を組んで座っていた。
ベッドの上に、乱雑に置かれていた
羊皮紙が床に落ちる。
「お菓子、持ってきて正解だったね。」
「ニクス。
それ、食べて良いわよ。
もうお昼前だけれどね。」
椅子に座っているサンサ。
質素な正方形のテーブルには
丸椅子が二つ。
起き上がったわたしのお腹から
跳び降りたアルが、サンサの膝を占領して
自分の席だと主張した。
わたしはベッドを降り
身体の痛みを堪えながら、
椅子までの僅かな距離でも
足を床に擦って歩いた。
素足で走って負傷した足底だけでなく、
脹脛や太腿も、身体中が痛い。
殴られ、蹴られた時と違って、
記憶にない痛み。
テーブルの上の木製のお皿には、
焦げた色をした歪な物体。
――これもニースだわ…。
表面が白く、黴が見えて、
まともな食べ物とは思えない見た目。
わたしは二人の顔を交互に見た。
「なにその顔。」
「ネージって、食べたことない?
潰したネイプをパン生地と混ぜて、
丸めて揚げたお菓子だよ。」
スーの説明にサンサが頷く。
「上に掛かってるのはただの粉砂糖よ。」
「おいしいからって食べ過ぎないでね。」
「ふふっ。それって経験談ね。」
この土塊状の物体が、
甘く、香ばしい匂いの正体だった。
わたしは踟って端を囓る。
お菓子の表面が音を立てて割れ、
程良い硬さと甘味が口に広がった。
噛むほど口の中に唾液が溢れ出る。
一口、二口と食べると、
サンサからさらに一つ、押し付けられる。
表面は硬いのに中は柔らかで、
二つのネージを食べ終えた。
それから咽た。
「生地が唾液を奪うから、
適度に水を飲むべきね。」
「サンサが渡して急かすからだよ。」
「飲み水を持ってきて、スー。
一先ず、これで喉を流しなさい。」
銀の杯に浮かび上がる、果実の装飾。
中には見慣れない泥水のような液体。
鼻腔を突き刺す香りが気になったけれど、
喉に絡みついたお菓子を急いで流す。
飲んですぐに、
喉から胸まで焼けたみたいに熱を発して
また咽た。
「これ、さ、酒…?」
「ただのスパイスティーよ。
潰した香辛料と山羊の乳だもの、
飲みやすくはなってるはずよ。
バターを入れた方が良かったかしら。」
わたしは呼吸を繰り返して、
焼ける喉を冷やそうと左手であおぐ。
サンサはわたしの顔に母指を伸ばし、
頬を撫でてくると粉砂糖を拭って舐めた。
「ふふっ。
それを飲みながら
食べるのも良いかもしれないわ。
あぁ、その前に、
自己紹介がまだだったわね。
わたしの名前は――。」
――サンサ。
わたしが頭の中で名前を呼んでも、
しばらくの間があった。
彼女は下唇を噛み、
声を震わせながら名乗った。
「エルテル・セポ・サンサ。
セポは養子を意味するわ。
エルテル領の領主の養女、サンサよ。
10年前にエルテルを離れて、いまは
夜の館のオーナーに雇われてるのよ。」
わたしは理解を示して首を縦に振る。
彼女の話は昨日、スーが説明してくれた。
「夜の館は娼館ね。
スーから説明されたわよね。
あなたはドレイプを手伝う
フランジになれば、ここに
住むことが許されるわ。」
「フランジ…。」
「仕事内容はスーが…、
スーは頼りないわね。
見兼ねてレナが指導してくれるわ。
お客さんの相手はわたしがするもの。
あなたにフランジの仕事なんて、
期待してないから安心しなさい。」
「ここ住む代わりに娼婦の下女になって、
スーと働けばいいんだね。」
具体的な仕事の説明がないので
解釈が適当になる。
「ここでは娼婦と呼ばずに、
ドレイプと呼ぶようにすること。
金糸の飾緒を垂らしてるから、
見てすぐに分かると思うわ。
あなたも下女ではなくフランジね。
道端に立つただの街娼ではないわよ。
上流階級向けの高級娼婦ね。」
「…あなたがその娼婦、ドレイプ?」
サンサの着ているチュニックの上には
銀の紐、飾緒を胸に渡らせている。
「領主の養女とは言えここでは、
わたしもドレイプの扱いになるわ。
館に来るお客さんの相手をしながら、
フランジを養うのがドレイプの役割。
ご主人様というのは適切なのかしら。」
苦笑するサンサの説明に、
わたしは不思議に思って頭を捻った。
彼女の目つきは鋭くても、
薄い口元には未熟さがある。
細い顎に頭は小型で、
まだ成年の顔つきではない。
チュニックの上からは分かり難いけれど、
腰回り以外は控えめで胸も豊かではない。
――サンサが、わたしのご主人様…?
主従関係であっても、一部の貴族と
その使用人のあいだでしか使われない敬称。
わたしが使用人になるのは理解できても、
サンサが主人というのは
彼女の外見からして似合わない気がした。
子供を相手にご主人様とは呼ばない。
――せめて『お嬢様』、よね。
「でもほら。ふふっ。
見ての通りわたしには右腕が無いから、
まともなお客さんが居ないのよ。」
自嘲する彼女に、
わたしは反応に困って開きかけた口を結ぶ。
「傷物という理由もあるのだけれど…。
エルテル家の名前を借りているから、
誰にも買うことのできないくらい
高い値段が付いてる。
最高級の娼婦ね。」
わたしは理解に苦しんだ。
――エルテル領主の養女が、
どうして娼婦なんてしてるのかしら?
「外界から隔離された、赤土の丘。
昼の暗闇。
それが夜の館よ。」
サンサがカーテンに触れて光を遮る。
――誰の目にも触れない場所。
彼女の銀の瞳が、そう語ったように見えた。
「ネルタ・ハス・ニクス。」
わたしの名前が全て、呼ばれた。
声を低くした彼女の口調が明瞭になる。
「ネルタの王、
ケイロウの胤子。」
サンサは、革製の帯紐に佩いた短剣を
鞘から抜く。
テーブルの上に置いてその刃先を摘み、
わたしに剣の柄を向けて差し出した。
彼女の行為の意味が理解できない。
わたしはスパイスティーの入った銀杯を、
右手で握り締めた。
杯の中の水面が揺れ、
わたしの手が震えているのが分かる。
「昨夜わたしが言ったことを、
あなたは覚えているのかしら。
もし、あなたがいますぐにでも
ここを出ていきたいのであれば、
引き止めたりはしないわ。
外で好きなだけ
その家名で名乗りなさい。」
わたしは彼女の言う通り、
ネルタの王の子であっても、
その身分に値する人間ではない。
彼女はわたしの出自を知った上で、
名乗るべきではないと忠告する。
サンサはわたしを獣の男から買った。
――やっぱりニースだわ…。
――どうしてわたしを買ったのに、
手放すことを惜しまないのかしら。
彼女の考えは、わたしとは真逆だった。
――彼女がわたしを買った理由は?
――わたしを保護することで、彼女に
なんの利益があるのかしら。
「想像しなさい、ニクス。
ここを出ていって、
あなたはどうなるのかしら。
あなたには身分証もなければ、
出自を保証する地位の後見人も居ない。
あなたの生存を知ったことで、
あなたの名前を利用するひとが
今後出てくるかもしれないわね。
それは捨て置いてもいいでしょう。
この街がどんなに豊かでも、
子供は独りでは生きられない。
孤児院で養親を探すか、
道端で子供が仕事を求めれば、
昨夜よりも酷い目に遭うでしょうね。」
彼女の澱みのない忠告は身に染みる。
昨夜みたいな騒ぎはわたしも避けたい。
サンサはまた、
テーブルを指先で小突く。
庭園で見た時と同じ動き。
「わたしの下で働く限り、
あなたの生命の安全を
最低限の保障はしてあげる。
館を抜け出したことで、
不審に思う子も居るでしょう。
失った信用は行動で示しなさい。」
また、彼女は目を細め、
わたしを試すように口元が笑う。
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