図書館を出る頃になると街道の往来は増え、
帰りの馬車には空きがなかった為に、
わたし達は乗ることができなかった。
東の空高くに雲が積み重なり、
雨雲が近く、暖かく湿った風が吹く。
サンダルが砂埃を踏み鳴らす。
「西側は忘れ物が多いね。」
スーが車道を見てそんなことを呟いた。
道には馬糞がいくつも落ちて
放置されている。
東西を結ぶ広い街道に出て、
わたし達は馬車の手配をする
中継所まで歩くことにした。
「東側は綺麗だったよなぁ。」
「あった。これ見て。」
前を歩いて下を見ていたスーが、
なにかを見つけて屈む。
道に使われる石材の一つに、
不自然なレリーフが浮かんで見える。
太くて丸みを帯びて不格好に彫られた矢。

「ちんちんだな。」
選んだ言葉に踟いのないフルリーン。
「スーは本当に、
こういうのが好きなんだね。」
「違うよっ。
これはあっちの方角に
娼館があるよって意味の案内だよ。」
「こんな所にあったら躓くよ。
これ、方角は夜の館ではないよね?」
鏃は街の南側を示す。
「この街の西側には
こんなのが多いんだよ。
子供を娼館で働かせるだけでもなくて、
お客さんを脅して金品を奪って、
それが問題になれば散り散りに逃げる。
捕まるのは逃げ遅れた娼婦だけ。」
「酷いもんだな。」
「街の許可もなく彫って、
継続的な商売にしないのが
闇の館の悪い手口だよね。」
近くには馬蹄のレリーフもあった。
蹄の向きは南になっている。
「中継所の方角は向こう?」
「方角的には競馬場だね。」
納得して首を縦に振る。
テーブルの地図を思い出せば、
二つの競馬場は同じ南側に位置する。
「なぁ。スー。
あいつの名前なんだっけ?」
フルリーンが後方で本を持たされた大男、
護衛のグルグスを顎で示す。
「グルグスだよ。」
「おい、グーグス。」
「グルグスっ!」
スーに名前を正しく呼ばれて彼は気付く。
炊煙が立ち上る街の中を歩かされ、
匂いに誘惑された彼は空腹で元気がない。
「グーグス。
あんた、前を歩きな。
そんでどっか細い道に入って。」
「グルグスだって。」
「大陸の名前はなぁ、
発音し難いんだよ。」
グルグスの名前は大陸の言葉が由来で、
南部の人間が正しく発音するのは難しい。
彼はスーに促されて、
疑問を浮かべながら前を歩く。
「グルグス、そこ曲がって。」
「そっちになにかあるの? あっ。」
フルリーンに急かされてレリーフに躓き、
地面に顎を打つ前にスーに抱き支えられた。
正六角形のレリーフは蜂の巣を示し、
ペタの蜂蜜屋を横切る。
蜂蜜以外にも果物のナショー、
蝋燭や蜜蝋も売っていて、
甘美な香りに振り向いた。
「ニクスも奥に、早く行きな。
これ、あんた達のお客さん?」
大通りから狭い路地に向かって、
フルリーンに力強く背中を押された。
彼女の銀の目は鋭くなり、
表情は見るからに険しい。
すると数人の男達に路地口を塞がれた。
褐色の髪に濃い髭の、
毛深い男が前に出てきた。

「ニクス、これ持って。」
「えっ? ぶぇっ!」
フルリーンが軽々と投げた旅行鞄に
わたしは潰される。
「お前がサンサか?」
顔、口周りだけでなく、腕にも足にも
黒い毛を繁茂させた獣のような男。
佩いた長剣を脅しの目的で鞘から抜いた。
「女の尻を追い回す
下賤な男の相手をする気はないぞ。」
脅されてもフルリーンは相手を捓う。
「呆けてんじゃねえ! サンサ!
春に護衛を二人殺しただろ!
あいつらぁクズだが、オレの弟達だ。
そんでオレぁ、賠償金を貰ってねえ。
今日は直接、
その請求に来てやったんだぜ。
さっさと有り金全部出しな。
無けりゃ身体だ。」
男が毛深い手で催促を続けても、
彼女は脅しに応じることはない。
「記憶に残らない男の話か?
女相手に殺されたくらいで、
お仲間引き連れて盛大にお出迎えたぁ。
あんたら、つまんない男だなぁ。」
あの日に傭兵を殺したのは
フルリーンではなくサンサなのに、
髭の男は勘違いをしている。
黒い服に身を包むサンサは、
外出時には風紀を乱さないように
頭巾や宝飾巾に義腕まで着ける。
彼らがサンサの顔を知らないのは、
彼女が傭兵を殺してしまったせいでもある。
女で服が黒色以外に共通点は無く、
オーブ特有のスラックスの服装や
豊かな体格の彼女は輪郭からして違う。
それでもフルリーンは
人違いである点を否定しない。
「さっさとそこから出てきなっ。」
「子猫達はこれから
オレらが教育してやるぜぇ。」
「ぎゃははは。」
「あたしに相手にされないからって、
顔以外は醜いんだねぇ、あんたら。」
――顔も、ではなくて?
「立てる?」
スーが重たい鞄を持ってくれて、
わたしはようやく立ち上がれた。
「売れ残りの傷物だって聞いたが
外れだったぜ。
こんな愚かな女とは――。」
髭の男が黒変した歯を見せて笑った時に、
フルリーンの拳が彼の鼻を潰した。
男は殴られた勢いで
大通りの歩道に押し倒される。
仰向けで倒れた男のお腹の上に、
フルリーンは跳び掛かって跨った。
背中しか見えないけれど、
フルリーンによって男は左右の頬を
何度も殴られているのが、
彼女の動作と男の悲鳴で分かる。
「あははははは!
女みたいな声を放って
孅いなぁ、おいっ。」
フルリーンは立ち上がり、
戦意を失った髭の男の股間を蹴りつけた。
「うっ、わぁ…。」
絶叫の後で痙攣する男に混ざって、
グルグスが痛みに共感していた。
男らしさを証明する腰に下がった陰嚢は、
どんなに屈強な男でも鍛えられないので、
男を証明する『証人』とまで呼ばれる。
フルリーンは革紐で佩いた
護身用の短剣を使わずに、
拳一つで男に勝ってしまう。
路地口に立つ彼女は
警戒を緩めずに後退りした。
「あたしは娼婦でもないから
こんなに相手はできないぞ。」
「ドレイプでも
こんな連中は相手しないよ。
だって来るものは選ぶもんね。」
「どいつも品が無さそうだもんな。
チッ、あいつか。」
舌打ちをしたフルリーンは、
髭の男が落とした剣を
大通りに向けて豪快に投げつけた。
投げた剣が落ちた先は、
丸い頭の初老の男の足先。
「おい! 危ねぇだろうがっ!」
色濃い顔に深い傷をいくつも持つ、
険のある男の濁った声が大通りに響く。

総督のマルフと同等に長い飾緒だけでなく、
真白なキャシュクには金糸の刺繍がある。
筋肉質の両腕は黄金の腕輪に、
宝石の指輪をいくつもつける。
さらに水晶骸骨と
金の装飾がされた杖を持ち、
群衆の中でも目立っていた。
「あれがユヴィルだよ。
知ってたの? フルリーン。」
「知らん。が、
気に食わん顔だったから投げた。
足を狙ったがあいつ避けやがったな。」
「飛んできたら当然避けるよね。」
「ねぇ、どうするの?」
わたし達は傭兵に囲まれて、
路地口から街道には戻れない。
「ユヴィルが来てるってことは、
路地の向こうも先回りしてるかもね。」
スーはこんな時でも冷静に
状況の悪化を予想して発言する。
打開策があるわけではなかった。
「なんか面倒だから
あの頭目を殺してから考えるかぁ。」
「ダメだよ、そんなことしたら。」
わたしはフルリーンの考えに
つい口を挟んだ。
「グーグスを突っ込ませれば
囮くらいにはなるだろ。」
「グルグスは目立つからね。」
提案されたグルグスは
囮の意味を理解していない。
理解できたところで彼が承諾して
成功するとも思えない無謀な作戦なので、
二人とも本気にしてはいない。
「ニクスはなにか考えがあるの?」
スーに促されて首を横に振った。
「…これは打開策でもないけれど。
無法者達の集団は
指導者が居ないと統率を失うよ。
フルリーンの狙いとは逆の結果になる。」
――それでネルタがどうなったかなんて…。
頭の中が灰色の靄に支配される。
彼女を説得するにしても、
わたしの出自は説明できない。
「フルリーン?」スーが訊ねる。
「分かってるよ。
あいつらが娼館から逃げ遅れた
憐れな娼婦になっちまうんだろ。
ふふっ。」
笑うフルリーンは
納得いかない様子で腕を組むと、
足で地面を叩いて鳴らす。
「…ちょっと待て。
あいつを巧く使えば良いってことだろ?」
西日がなにかに反射して、
路地の足元に落ちた光が動き回っている。
「オレの街に勝手に入って来やがって。
ゴミ屋の溝女如きがっ。」
遠くから唾を飛ばして、
わたし達を威嚇するユヴィルは
突然言葉を呑んだ。
刈り取った赤色の頭をした若い男が、
ユヴィルの後ろに立って彼の喉元に
短剣の刃を押し付けていた。

「ラッガっ!
そのまま待てっ。
先の短い年寄りでも
まだ利用価値はあるぞ。」
フルリーンが腕を上げて街道に出て、
乱入してきたラッガと呼んだ男を制止した。
彼女はユヴィルの前に向かって歩く。
傭兵達は頭目が拘束されると、
無防備な彼女に手出しができずに困惑する。
「あたし達オーブの人間に
喧嘩を吹っかけるとはねぇ。
いままで運良く生き長らえてきたのに、
これから下っ端同然に
道端で死にたかぁないだろ。」
女相手に数人が取り囲んでいても、
首に刃物を受けている頭目のユヴィルは
傭兵達なにも命令できずにいた。
街道は喧嘩の見物で溢れ、
東西を行き交う馬車の通行も妨げられた。
ユヴィルが左右の配下に目配りした。
しかしフルリーンはそれを見逃さず、
両手を強く叩き鳴らす。
その音に彼は肩を驚かせる。
「あんたはこの都市で
名の知れた偉いやつなんだろ。
驕ったあんたは目の老いにも気付かず
喧嘩相手を見誤った。
犬が愚かなのは、飼い主が親から
まともな躾けを受けなかったからだ。
こんなに大勢の観衆を前にして、
最期にひと花咲かせるのも一興か。
目を閉じて、想像してみな。
ここで自分の頭が落ちるんだぜ。
カミーリャの花首みたいに。
それも一興だろうな。
あたしは歓迎するぜ。」

「…いや、オレが悪かった。」
彼は丸い頭を小さく下げると、
フルリーンが肩に触れてから
その頭を引っ叩いた。
ユヴィルの頭から軽い破裂音が広がり、
その滑稽さに観衆達から笑いが起きた。
「許す。
誰かっ!
東に行く馬車に空きはないか?」
フルリーンが大声を放ち、
乗合馬車の馭者達に呼び掛けた。
ユヴィルと傭兵を拳一つで懲らしめた
彼女に興奮した誰かが『女傑』と呼ぶと、
周囲も感化されてそれを真似する。
傭兵達は路地口に倒れた
髭の男を引き摺り出す。
わたし達が馬車に乗り込んだのを見て、
フルリーンがユヴィルを呼ぶ。
「おい、爺っ。
自己紹介が遅れたな。
あたしはオーブ領の
領主メテオラの娘、フルリーンだ。
お目当ての娼婦ではなくて
残念だったな。」
「おぉん! なんだとぉ?」
頭目がそれで人違いと理解して
騒ぎを起こした傭兵達を睨みつける。
フルリーンに股間を蹴られて
ようやく意識を戻した髭の男。
怒りの治まらないユヴィルによって、
今度は杖が折れるまで激しく叩かれ続けた。
動き出す馬車の上で、
わたしは群衆の中から
ラッガと呼ばれた男を探した。
赤い髪の彼の姿はもうどこにもなかった。
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