第6章 第1節 館の落実(第1項)
足音に気をつけて部屋に入ったのに、
入り口近くで寝ているニクスが気付いて
ベッドから上体を起こした。
「ん…? あぁ、レナタぁ? ごはん?」
「…先程までメノーと一緒に、
お夜食を口にしてましたよね。」
わたしは声を抑えて言った。
「んー。食べたかもぉ。」
ニクスは食堂で夕食を終えた後も
厨房の片付けをしていたデーンに頼んで、
彼女の仕込んだナショーとクァンの
蜂蜜漬けを食べていた。
デーンの父で厨房長のヤゴウは、
渋顔でその様子を見ていた。
ヤゴウの隣に立つデーンの表情が硬いのは、
父の真似ではなくて館のドレイプや、
出入りの従業員を見習ってのことらしい。
厨房長の娘という出自に甘えて
浮ついた仕事をしない為と、
自分を戒めているデーンを
わたしも見習っている。
デーンは作った夜食を、
ニクス達がおいしそうに
食べている様子を見つめていた。
お腹を空かせたフランジを見ると、
構ってしまう性格は親子で似ている。
今夜はニクスの隣で、
メノーが珍しくクァンを食べる姿があった。
彼女は過去に騙されて
酸っぱい冬のクァンを食べて以来、
ずっとクァンを好んでいなかった。
メノーの影響でわたしも、
果樹園でクァンを採ることもなかった。
それが最近ではニクスと一緒になって、
クァンに蜂蜜を掛けて食べている。
――サンサがクァンが美容に良いって
言い続けてたからかな。
わたしは日々の中で変化を探す。
――メノーは最近また太ってきた気もする。
彼女の部屋にある成年になった頃の
モザイク画に描かれた姿に比べると、
豊かな肉体が成熟した大人へと変わった。
毎日壁画と彼女を見ていると、
目が慣れて変化を見つけるのは難しかった。
二人の過剰と思える夜食も、
日常の一部になるのかもしれない。
「ごちそうさまぁ。」
寝惚けているニクスは、
また静かな寝息を立てた。
唾液を噛みしめている音が耳を撫でる。
――おかしな子だよね。
わたしはそのまま部屋の奥まで行き、
サンサのベッドに入った。
天窓から月光は差し込まない。
今日のような新月の日に、
わたしは体調を崩しやすくなる。
そんな日は、サンサのベッドに入るのが
決まり事になっていた。
サンサは今日もヤゴウに指示して
お菓子を作っていたから
仄かに甘い匂いがして頭の痛みが和らぐ。
温かな彼女の腰に手を回すと、
寝ていたはずの彼女は
寝返りを打ってわたしを見た。
薄く開いた銀の目がわたしに気付き、
頭を抱いて髪をいつも乱暴に揉む。
――もう、サンサってば。
声も出せずに耐えていると、
次第に身体の不快感が消えていく。
新月の夜でも館の中なら、
ランタン無しでも寝室棟からドレイプ棟まで
移動できるくらいになっていた。
音を立てずに入ったのに、
ニクスは暗闇の中でわたしに気付いた。
――ニクスはおかしな子だ。
わたしは頭の中で繰り返した。
ニクスは『夜の女神』に由来して、
夜の館に調和する名前を持っている。
赤い髪の彼女は、
春の途中にウラと入れ替わりで
この館にやってきた。
孤児院に住んでいたウラは、
春からメノーのフランジになって
わたしと一緒に働くはずの子だった。
館に来て間もなく彼女は病気になり、
病院に送られてしまう。
ニクスが館に来たのはウラを病院に送り、
メノーと帰ってきた日のお昼頃。
ニクスに絡む酔っ払いを見つけて、
怒ったメノーは彼を蹴飛ばした。
わたしも彼に酔い覚ましの水を浴びせた。
『あれが彼の、償いなのよ。』
サンサが言った。
言葉が難しくて、
わたしには意味が理解できなかった。
『排水溝に落ちた野猫みたいでしょ。』
サンサは館に来たばかりの
ニクスのことを酷評もしていた。
風に吹かれて飛ばされてきた
枯れ葉、枯れ枝のような子だった。
わたしと同じくらい小柄で痩せていたのに、
ウラと同じで5歳も年上なので驚いた。
いつも食堂で見かけるニクスは
常になにかを食べていたので、
薄白かった肌に赤みも出てきて
最近は肉付きも良くなってきた。
『よく見て、変化を見つけて。』
絵を描いていたわたしにサンサが言った。
この館に来るフランジはみんな、
それぞれの事情を抱いている。
家族を病気で亡くした子もいれば、
産まれてすぐに孤児院に預けられた子は、
親の顔も名前も知らない。
髪の色が原因で石を投げられた子や、
親が盗賊として裁かれたひとも居た。
出自の異なる子でも、
親が居ない寂しさを覚えて
同じように涙する日もあった。
様々な事情を抱える中で、
フランジやドレイプが困っていれば
サンサはいつでも相談に乗った。
――サンサが居なくなると
この館はどうなるんだろう。
体調を崩した日には
そんな不安を抱いてしまう。
サンサの居る日陰の庭は
雪化粧をした夜の景色があって、
ニクスは風が吹けば消えそうな
頼りない火だった。
メノーも昔はそんな頼りない火に見えた。
彼女はサンサに相談するくらい
ドレイプになるのを不安がっていたのに、
ドレイプになれば誰よりも
館の仕事を楽しんでいる。
――蛹が蝶に生まれ変わったみたい。
ニクスが館に来てからは、
昔にサンサの言っていたことを
よく思い出す。
わたしは『生まれ変わり』を意味する
『レナタ』という名前が付けられた。
ニクスは他のフランジとは違う扱いで、
スーと同じくサンサの部屋に入っている。
――たしか、スーも冬だったよね。
4年前の、珍しく降った雪の日に
サンサに連れられて館に来た
月の色をした髪の子。
昔のことは、多くは覚えていない。
でも、彼女が館に来たことで、
嫌だったという感情だけは覚えている。
フランジは成年になる16歳前後の、
冬を前に孤児院からこの館に入る。
まだ12歳だったスーは特別で、
冬に遅れて館にやってきた。
――昔はスーではなくて、
テレスだったね。
――成年になって名前を変えれば
生まれ変わったりするのかな?
スーはわたしと年齢が近い
とサンサは言っていたのに、
その時わたしはまだ6歳で、
彼女との年齢は倍も違っていた。
長く生きてきたサンサと
未熟なわたしの感覚の違い。
スーも他のフランジと違う扱いがされ、
彼女は特別扱いを受けた。
館にやってきたスーの世話好きは
いまよりもずっと独り善がりで、
嫌がらせでもないから対応が難しい。
比較されるわたしは彼女が気に入らず、
抗議のつもりで、サンサのベッドへの侵入を
密かに行うようになった。
孤児院から来た彼女の噂も絶えないせいで、
ドレイプも関わり方に困っていた。
――『サンサの隠し子』って言われてたね。
小鳥も彼女の噂を囀る。
――出自は訊ねない。
流言は好まず、だよね。
囀りを気にしないスーは、
年下のわたしを妹のつもりで扱ってくる。
妹に生まれると大変だって、
レデを姉に持つジールもよく言っていた。
館に長く居る分、わたしの方が
館について多くを知っていたのに、
体力や知識量では彼女には敵わない。
わたしの知っている館のことなんて、
日が経てば彼女も自然と知ってしまう。
比べてしまうわたしは、
彼女とは距離を置くようになった。
『生物は死ぬまで差を求め、
競い合いを続けるものよ。』
サンサが言った。
年齢が違えば経験も違う。
体格が違えば動きも違う。
生まれが違えば好みも違う。
身体が成長するように、
その差が縮まるものもあれば、
勉強でしか縮められない差もある。
名前を同じものに変えられても、
目や髪色は成長しても変えられない。
同じになるのは死んだ時だけ。
これがサンサの言っている差だった。
サンサの言葉に続いてアルが鳴く。
わたしはスーを、
館に居着いた猫だと思うようにした。
他人は、わたしの思い通りにはならないことに
納得ができた。
冬を過ぎると彼女のベッドは、
集めた羊皮紙で埋まっていた。
わたしが掃除も注意しなくなると、
スーはゴミの中でも寝られる子へと
変化した。
サンサはスーに
他のフランジと同じような仕事を与えず、
従業員の手伝いもさせない。
サンサが厨房に入ることを
禁じられたように、
スーには仕事を与えなかった。
スーに仕事を与えると、
また適当な理由を付けて
彼女は鶏を絞めてしまう。
この前は彼女が原因で
ファウナを泣かせていたと、
認証管理のボナから
メノーを経由して話を耳にした。
ファウナはスーのことを
危ない子だって吹聴したから、
春にドレイプになったセセラから
また叱られていた。
ニクスはそんなスーを相手に、
上手に付き合えていると思う。
わたしなら泣いて
部屋を逃げ出していたに違いない。
――もしかしてニクスも、
同じだったのかな?
彼女は来た日の夕刻に館を脱走して、
フランジが大騒ぎしていた。
騒ぎ立てるのはいつも、
洞窟港から来たファウナだった。
館に来る前のファウナは、
闘技場で大陸奴隷の通訳をしていた。
そこで目を付けたルービィに買われた。
ファウナはもう成年になるのに、
ドレイプになりたがらない。
猫を拾ってきたり、
ニクスに自分の仕事を任せるなど、
館におかしな刺激を与える。
ここに来るフランジは、
決まってこの館に憧れを抱いている。
孤児院に居る頃から
夜の館に選ばれようと勉強もして、
言葉遣いや発音、姿勢にも気を使う。
フランジになってからも
仕事をしながらドレイプの起居を見て倣い、
彼女達は学んでいく。
この館での生活は食事に困らないし、
お風呂にも入れて明日が約束されている。
恵まれた環境なのに、
ニクスはそれらを全て捨てて逃げた。
ニクスを見たフランジは、
彼女はどこかのお姫様だと言い始めた。
お風呂や果物も拒んで逃げれば、
娼館の暮らしそのものが、
屈辱なのかもしれない。
フランジに妄想を吹聴するのも、
認証管理の補佐をするファウナだった。
背を曲げて本を読むファウナは、
誰より賢くて物語に詳しい。
流言や怖い話を寝室棟で言い広めては、
フランジに夢を見させる。
館に戻ってきたニクスを改めて近くで見て、
フランジの噂はすぐに消えた。
――流言は好まず。
サンサとスーの二人を相手にして、
ニクスは男の子に近い喋り方をするのに、
わたしに対してはサンサみたいな
喋り方に変わるのが奇妙でおかしかった。
館に来たばかりのニクスは、
食事前のお祈りに疑問を持っていた。
でも基本的な作法や、他人との関わり方、
メノーの逸れた話でも内容を分かって、
みんなに説明できる理解力を持っている。
賢いファウナは『まだ無理だな。』
なんて言うから、他の子達は
ファウナの言葉を疑わずに同調してしまう。
それでもわたしははニクスに、
ドレイプにも無い特別な魅力を感じていた。
――ランタンの中の火みたいな子。
赤い髪や瞳の色はルービィやドロシア、
メノーに近いのに宝石の輝きとは異なって、
ニクスの赤い瞳の色の中には熾火のような
力強い光を内包している。
彼女は孤児院から来る子と違い、
無理に背伸びをせずに仕事に精励して、
わたしにも謙虚で年上で賢いのに驕らず、
高い自信を見せたりもしない。
考え方がわたしとは違っても、
わたしの視線に合わせて考えてくれる。
ニクスが休んだメノーの勉強会で、
彼女の代わりに隣に立ったわたしは、
視線を合わせることの難しさを実感した。
光の裏側には濃い影が生じるけれど、
穏やかな差だけを感じさせる彼女の傍に
居るだけで、わたしは毎日が楽しい。
『ニクスは思慮深く、聡明なのよ。』
サンサは言って捓っていたし、
ニクスも嫌がっていたけれど――。
――ニクスがわたしの姉なら良いのに。
その考えから、
全く別のことも思いついてしまった。
――スーが二人に増えなくてよかった。
寝る前にそんなことを考えていたら、
わたしはスーにクァンの皮の汁を
両目に浴びせられる夢を見て泣いた。
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