
庭の椅子で転寝をしているあいだに、
わたしはスーに毛布を被されていた。
彼女はわたしの手足の
伸びた爪を切り整えて研磨し、
ブラシで爪のあいだを綺麗にしている。
揉まれる指先がとても温かかった。
お腹に落とした歯木は捨てられ、
目を覚ました頃には
もう日は落ちかけていた。
まだ眠り足りずに欠伸を堪えると、
わたしの思考に灰色の靄が漂う。
浴場の近くから、嗅ぎ慣れない
香ばしい匂いが鼻孔を擽った。
「あ、起きた?
お腹空いてる?
夕食までまだ少し時間があるから、
これ食べてていいよ。
お客さんからの頂戴物。」
彼女の言うお客さんが誰を示しているのか、
わたしには分からない。
円形のテーブルの上の蔓草で編んだ籠には、
溢れるくらいに果物が積まれている。
天板は色のついた石が埋められ、
これにも甲虫の背中らしき図柄が
描かれていた。
――邸宅の繍旗に似てる。
青色の石で中央から少し外れた位置に
横断する列と、その途中から直角に
線が引かれるように石が並べられる。
甲虫を描く青色の石を境界にして、
赤と淡い赤と褐色の石が散りばめられ、
石の隙間をモルタルが埋めている。
スーはテーブルの上のナイフで黒色の果物、
マリセスの皮を剥き、薄黄色の果肉は
細かくされて、歪な形に盛り付けられた。

塔で暮らしていた頃の乳母達ほどではなく、
皮には食べられる果肉が多く残っていた。
足元の濃い影を見て、
地下の暗闇を思い出した。
それと同時にお腹が鳴った。
「あはっ。お腹が返事したね。
館の決まりも
覚えて貰わないといけないね。」
自分の置かれた状況に、
わたしは開きかけた口を固く結んだ。
わたしの考えを知らないスーは、
皮を剥いて果肉を自分の口に運ぶ。
瑞々しい果汁を啜る音がわたしの耳を撫で、
彼女は細い顎を小刻みに動かして噛み砕く。
彼女の盛り付けの見た目が悪くても、
果実の味は損なわれはしない。
欲を抑えられなかったわたしも
果実に手を伸ばして、
薄黄色の果肉を一つ口にした。
マリセスの切れの良い歯応えと、
口の中で唾液と果汁が混ざり合い、
後から甘味と仄かな酸味が広がった。
「決まりを破ったところで、
別室に送られて折檻を受けたりも
しないから安心してね。
たぶん。」
――折檻…?
耳を疑い、目を細める。
「ここには色々なひとが出入りするの。
お客さんを饗す場所であり、
共同生活の場所だからね。
サンサも『自分だけのお城ではない。』
って言ってたもんね。
自分の言動の結果はニクスだけではなく、
他の子に影響を与えることになるし、
他人からの評価、信用や信頼に繋がる。」
スーは思い出し笑いを浮かべる。
「でも難しくないから安心して。
ゲップやおならは絶対にダメ。
特にお客さんの前では。
されたら気分を害するでしょ?
したくなったら離席して、
御不浄に行ってね。」
言葉の意味は理解できたので首を縦に振る。
御不浄とは、およそ手洗い所を意味する。
ただの手洗い所を、
『御不浄』と呼ぶ習慣はない。
――なにを目的に訪れる客なのかしら…。
重大な疑問が湧いても、わたしは
眠気で考えが鈍っていた。
「『下品は禁止』って覚えておいて。
あ、それと欠伸もダメだってさ。」
わたしが欠伸を堪えた為に、
忠告をしてきた彼女も欠伸をする。
「ふぁ…。
欠伸ってひとに伝播するから。
お客さんが話をしてるのに
欠伸なんてされたら、
退屈と思われるもんね。」
「ごめん…。」
「長旅で眠たかったんだよね。
分かりきった話って、
演説みたいで退屈だもんね。
レナタからはこのお喋りで
耳が疲れるって言われるけど、
気になるようなら言ってね。
眠たかったら寝ててもいいよ。」
指摘されてまた眠るのは気が引けた。
「昔は欠伸のことを
『ひとを操る呪いだ。』
って禁じてたんだって。
迷信にもほどがあるよね。
かれらは分からないことを
調べようとはしなかったんだね。」
彼女は口元を緩ませ、
綺麗な碧色をした目を見開いて、
わたしに欠伸をされても喜んだ。
「ちなみに欠伸をする理由は、
空気を取り込む行動だったり
緊張を和げる為だとか。
サンサが言うには、
欠伸を真似するのは
言語の一つなんだって。
この説、どう思う?」
わたしはサンサの仮説には
興味がないので、率直に訊ねた。
「その、ここはなんの邸宅なの?」
垢を削ぎ落として風呂で丁寧に洗われ、
なにもせずに服や食べ物を与えられている。
つい数日前まで、地下の牢檻に
閉じ込められていた身分だった。
それが牢檻から出されたと思えば、
連れ出した獣の男はわたしを置いて、
サンサから金貨を受け取って去った。
この館には他にも沢山の子供がいる。
わたしと同じ裾の短いキャシュクに、
股布を履いて足を露出している。
――スーも買われた子なのよね。
庭から見える外廊下には、
常に数人の子供が掃除道具や布を運び、
いまは浴場の隣の大部屋に入っていく。
「あれ? ここが『夜の館』って…
誰からも言われなかった?
レナタからも?」
スーはマリセスを
もう一口食べて、嚥下する。
「夜の館っていう名前の娼館だよ。
娼館っていうのは、お客さん、
ほとんど男のひとを相手にする場所。
貴族や大農場主がドレイプに会う為に、
稼いだお金を積む館ね。
わたしは両の唇を軽く噛んで目を逸らした。
――あぁ…。思った通りね。
美貌と叡智を持つドレイプは、
私はそう呼ぶんだけど――、
気に入ったお客さんを部屋に招いて、
上品に言えば『肌を重ねる』のが仕事。
娼婦って言葉は聞いたりしない?」
――ニースだわ…。
背筋が冷たくなって、
わたしは椅子から立ち上がった。
「どうしたの?」
強烈な不快感が全身に触れ、
眠気はどこかに吹き飛んだ。
「あのっ…手洗い所…。」
「御不浄なら、階段上って
浴場のお隣の奥ね。
大丈夫?」
テーブルが揺れ動いて、
椅子の背に手をついた。
介助と案内をされて手洗い所に入り、
自分の置かれた状況を考えた。
水が豊富にあって清潔にされていても、
暗く、悪臭のする場所が牢檻に似ていた。
――こんな館に居てはいけないわ…。
あの地下に帰ろう…。
わたしはすぐに、
この館からの脱出を決意した。
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