第5章 第1節 遮光の場(第1項)
「入ってぇ。」
扉に備わった叩き金を打つと、
奥から部屋の主の声がする。
「そこに座っていいわよ。」
サンサの部屋の、
下の階に住むボナの声がした。
ボナはドレイプであっても、
同じドレイプのメノーの部屋とは違って、
個室風呂は用意されていない。
北の端に位置する1階の部屋は、
2階にあるサンサの部屋とも異なって、
採光用の天窓もない。
窓から入る日の光より、天井に吊るされた
六角柱のランタンが主な光源になる。
いくつものランタンは
ガラスの風防に模様が刻まれ、
光の強弱が生み出されて、
部屋は充分なほど明るい。
部屋の壁は棚に囲まれて、
中には本や手紙が収められている。
「待たせたわね。お姫様。」
部屋の奥から現れた黒髪に褐色肌のボナ。
「おはよう、ボナ。
わたしはお姫様ではなくて
サンサの部屋のフランジ、
ナルシャのニクスよ。」
「ふふっ。
ナルシャのボナよ。
ファウナと違って私に家名は無いわ。
あなたと同じ…かどうかは
分からないけれどね。
あぁ、出自を問わず、ね。
ファウナみたいに私を姉と思って、
慕ってくれてもいいわよ。」
「姉…。」
ボナはこの館に5年も住み、
メノーやレデとジールの姉妹と同じ年齢で、
長く務めているドレイプの一人。
認証管理という仕事を、
ファウナと二人で行っている。
――食堂でもあまり見かけないのよね。
ボナは立派な大人に見える。
彼女はサンサより16歳も年下という事実に、
わたしは頭の中で驚かされる。
「今日はファウナの代わりが、
務まるか分からないけれど――。」
「あぁ。それなら平気よ。
閨秀なファウナの代わりなんて
誰にも務まらないから、
あなたは気を楽にしてね。」
――ファウナが閨秀?
言葉の正しい意味が、
わたしにはよく理解できない。
わたしはファウナと交代して、
今日から手紙を仕分ける仕事を
行うことになった。
「…なにをすればいいの?
テーブルの片付け?」
テーブルの上には、
スーのベッドみたいに羊皮紙が、
山のように積まれていた。
「今日が初日のニクスの仕事は、
その手紙を読むことよ。」
彼女は長い指で示してわたしに言った。
夜の館には客からの手紙が、
毎日大量に届く。
封蝋はすでに開かれていて、
紙の折り目や巻き癖の影響で、
この山は崩れかけて見える。
「他のドレイプに届けるのよね?」
「それはわたしがやる仕事よ。
認証管理の責任者だもの。
ニクスが読んで内容に問題がなければ、
こっちの籠に分けて。
後で私も確認するから。
他はゴミよ。」
浅い籠が棚に置かれ、
足元には深いゴミ用の籠があった。
「手紙を、捨てるの?」
わたしの仕事は、
手紙と見間違えるはずのないゴミの選別。
「えぇ、構わないわよ。
認証管理の補佐というのはね、
まず手紙とゴミを分別することなの。
これからやってもらうのは、
そんな重大な仕事。」
ボナは頬にえくぼを作って、
貴族と錯覚させるほど柔和で上品に
わたしに指示する。
「テーブルの手紙だけ読んで。
肉体労働ではないけど、
目にある筋肉が疲れるから
休憩は自由にして良いわ。
慣れないうちは
声に出して読むと良いわよ。
文字を目で追うだけではなく、
口を動かして耳で聞けば、
身体で覚えられるでしょ?」
手紙を読む姿勢、彼女の考えは、
塔で独りで本を読んでいた時と同じで、
わたしは首を縦に振った。
「偏屈なファウナのように
深読みしないでね。
棚の本は資料になっているから、
元の場所に戻すのなら
読んでも構わないわ。
ファウナの趣味の本も混ざってるけど、
それは仕事以外の時に読んでいいわ。
棚にある手紙には触れないこと。
あれは整理前のものだから。」
「分かったわ。
一つ訊ねるけれど、
ボナは他のドレイプと違って、
認証管理の仕事だけなの?」
ドレイプの彼女はキャシュクの胸元に、
金糸の飾緒を垂らしている。
「なぁに?
ニクスはドレイプの仕事に興味あるの?
まだ15歳だと、法に触れるわね。
それとも私に興味があるかしら?
ふふっ。」
目を細めて捓う彼女から目を逸らして、
わたしは一番上の手紙を手にしし、
小さく息を吐いて仕事に取り組んだ。
手紙の内容はわたしでも読めた。
――よかった。島の言葉だわ。
――ドレイプ相手でも、
大陸語で手紙を送るはずが無いわ。
――手紙とゴミを選別するにしても、
標準が必要になるわよね。
手紙にはインクの他に、
香料が染み込ませてあった。
――なにか、食べ物の匂いがする…。
鼻先を近付けると、
手紙が甘く張り付く香りを放つ。
――ドレイプに送った大切な内容なのよね。
――これ、サンサ宛の手紙だわ。
わたしは急に興味が湧き、
手紙の内容に声を抑えて読唱する。
『ミュームの花の咲き乱れる頃、
薄明の布に抱かれる、貴女の背中を
ひと目見た時、雷霆が我が幹に落ちた。
その見事な曲線を描いたお尻は――。』
「え、なに、なんなの、これ?」
思いがけない内容に紙を裏返した。
裏返した先にも同様の記述があった。
端正な筆致、列記は上下に整っていて、
上品な言葉遣いで、臀部に纏わる
下品な内容しか書かれていない。
せっかくの甘い匂いの香料も、
臭気と臀部が関連付けられて、
頭の中で誤った認識をしてしまう。
この手紙をこれ以上読むべきか、
判断できずに悩むと、棚に隠れたボナが
わたしの様子を見て笑っていた。
わたしに気付かれると、
彼女は満足して部屋の奥に引っ込んだ。
――ボナはわたしを試す為に置いたのね。
手紙を読む直前まで浮かれていたわたしは、
自分に落胆して溜め息を吐く。
――これはゴミよ。
最初の手紙はゴミの籠に入れる。
――これは文字が汚くて読めないわ。
乱れた書体は目を細めても、
紙を裏返しても、読めないものは読めない。
最初の綺麗な字をしたゴミに比べると、
文字として成立してるのかも怪しい。
手にしてしばらくは読解を試み、
次の手紙も同じくゴミ籠に入れた。
『まだ見ぬ君の、
花の蕾が、とても恋しい。』
――これは詩的だから良いのかしら?
――詩って思想に近いから、
わたしにはよく分からないわ。
――臀部に比べればこれは手紙よね。
字も読めるもの。
この手紙は棚の籠に収める。
何枚か読むうちに、
わたしの中にいくつかの標準ができた。
多くの手紙は下品な内容が占めていて、
最初は驚かされたけれど、表現が乏しく、
繰り返される内容にすぐに慣れた。
――これを書いたひと達は、
相手の反応を想像して書いたのかしら?
籠に溢れるゴミを見下ろす。
厨房でもこんな量のゴミは出ない。
「ニクス…。ニクス。」
「え? はい。」
残り少なくなった手紙を読んでいると、
ボナに呼び掛けられた。
「もうランタンの灯火が消えるから、
一度、休憩にしましょう。
あなたまだお昼ごはんも
食べてないでしょ?」
ボナが隣に立っていた。
「お昼?」疑問と同時にお腹が鳴った。
「ふふっ?」ボナがえくぼを作る。
突然、部屋の扉が激しく開いた。
「もう嫌だぁ!」
肌着姿のファウナが大声を放ち、
濡れた髪で入って来た。
「まぁ、そんな格好で。
どうしたのよ?
浅ましいって言われるわよ。
サンサに。」
「ボナ! お願い!
私を認証管理の補佐に戻して。
いますぐ。」
彼女は涙目で膝を突いてボナに懇願する。
「またなにか、やらかしたの?」
「違うっ!」
「あー、ファウナ。
ちゃんと髪を乾かさないと風邪引くよ。」
スーがタオルと扇を両手に、
ボナの部屋にやってきた。
「ねえ。なんなのこの子。」
スーに怯えた様子のファウナは、
わたしを盾にして後ろに隠れる。
わたしはスーからタオルを預かった。
背の曲がったファウナの頭に載せ、
水の滴る黒髪を絞っていく。
ファウナの髪は長くはないけれど
真直で太くて艶があり、
いまは石鹸の香りが濃く残る。
「垢擦りしてたら突然、
浴場を抜け出したんだよ。」
「痛いんだよ!
加減って知らないのか?」
「あー…。」
一度経験したわたしもファウナに共感する。
スーの肌掻き器の扱いは荒々しくて痛い。
「スーだけでもないんだって!
サンサなんて決まった仕事も無いんだ。
朝からずっと本を読んでるだけだし、
あんなの退屈で耐えられない。」
「それで逃げ出してきたのね。」とボナ。
「逃げてないっ。
これは広い視野と冷静な判断力、
それから経験で身に付けた感覚で、
総合的且つ戦略的な撤退よっ。」
「それって、なにが違うの?」
「…心構え?」
スーの疑問にわたしも言って首を捻った。
「…で、新入りは仕事、できてるか?」
「見てファウナ。
もうこんなに見てくれたのよ。
半日も掛からなかったわ。」
ボナはわたしが手紙と判断した籠と、
ゴミと認識した籠を両手に見せた。
ゴミに比べて、残った手紙は多くはない。
「私が昨日テーブルに用意したやつだろ?
でもこれ全部ゴミだって。」
「えっ?」
選んだ手紙は全てゴミだったことで、
わたしの標準がその一言で否定された。
タオルで頭を拭きながら、
手紙を見てもいないファウナが言い放った。
「ボナ。
これは全部ダメな手紙だって、
先に教えないと。」
「そんなこと、言ってたかしら。
ニクスは精励してたのよ?」
ボナはわたしの顔を見て、
えくぼを作ってまた怪し気に笑う。
「精励してもゴミなんだから、
渡したらダメって教えたのはボナだろ。」
「これって、どこがいけなかったの?」
「私にも見せて。」
わたしが手紙と判断したものを
スーが手にする。
「へぇ、あー。分かった。
これ全部、猥言の比喩だもん。
詩にある蕾や花の蜜は、
性器なんかの隠語だよ。
『俺のネイプ』なんて書き方は、
決まって金玉、ふぐりだったりね。」
「ふぐり…。」
――ふぐり…ネイプが?
根菜と男性器の陰嚢では、
形も大きさも異なるので想像が直結しない。
スーがふぐりと言ったから
ボナが奥の部屋に駆け込み、
クッションに顔を埋めて笑い声を抑える。
自分の標準が拙く歪んでいたことに、
わたしは酷く落胆した。
「他にも、自慢の鉄の剣とか、
聳える雄大な天蓋山とか、
花の蜜湧く噴水とかあるだろ。
…なるほどなぁ。
新入りは、こういうのを見聞きして
育ってこなかったのか。
まさにお姫様だな。」
ファウナが言って頷く。
「ニクスは醇厚でちょっと心配ねぇ。
ふふっ。」
ボナにも言われてわたしは首を捻った。
「克明なボナが言うのなら確実だね。」
「ボナは克明に見せてるだけだぞ?
こうやって捓ってくるんだ。」
「自分以外を捓われて妬いてるの?」
「嫉妬なんてするわけないだろっ!
子供扱いするなって言ってるんだよっ!
話が通じないなぁ! ここの連中は!」
「苦労人だねぇ。」
苦労を掛けたスーの言葉にボナが頷く。
「新入りはもう帰っていいぞ。
そしてこれで私は自由の身だからな。」
ファウナに背中を軽く叩かれる。
「えっ? 仕事は?」
「新入りの仕事は、
スーの面倒を見て躾けることだ。」
「ファウナ、お風呂の続きは?」
「スー。
ニクスはお昼ごはんがまだだから、
なにか食べさせてあげて。」
「はぁい。」
「また忙しくない時に呼ぶから、
ちゃんと勉強しておくんだぞ。」
認証管理の仕事の結果、
わたしは知識不足が原因で
二人から不要と判断された。
石鹸の香りを漂わせたスーに手を引かれ、
ボナの部屋から追い出される。
――難しいわね。
わたしが気力を失っていると、
食堂に向かう途中にお腹が鳴り、
前を歩くスーは肩で笑った。
▶




