「そのチュニックは大切なもの?
館のキャシュクを用意するから、
いらなかったらその籠に入れてね。」
着替えをする為の準備室に立つスーは、
隅に置かれた籠を指示した。

牢檻では古いチュニック1枚と、
布切れのみしか持たされなかった。
地下の牢檻を出てから、
獣の男がわたしを売る為に買い与えた服。
――姿見だわ。
姿見と呼ばれる、壁に備え付けられた
背の高いガラス製の鏡に、
歪なわたしの姿が映る。

「あとなにか持ってたら、
その棚の好きな所に置いていいよ。」
正六角形に組まれた箱が、
横倒しで蜂の巣状に納められ、
棚となって壁に並んでいる。
スーは手早く帯紐と帯布を外し、
淡黄色のキャシュクを脱いだ。
肌着の肩紐を外して足元に落とすと、
わたしの前でも平然と豊かな乳房を見せる。
彼女と年齢は大して離れていないのに、
背も高くて発育が良い。
――いまのわたしはなにも持っていない。
黒髪の少女、サンサの質問に
わたしはなにも答えられなかった。
大陸語の読み書きもできなければ、
教育を受ける機会もなかった。
同じ年頃の子ができる刺繍や、
下働きもできない。
肌着を脱ぐのを踟うわたしを気遣って、
服を脱ぐのを待っていたスーは先に浴室に入った。
逃げ出したい気持ちはあったけれど、
わたしは自分の体臭が気になり
肌着も全て脱いだ。
脱いだチュニックを籠に入れ、
浮いた肋骨に手足の弛んだ皮膚が露出する。
西側の、テーブルの置かれた庭園から、
隣にある建物に入ってすぐの広い浴場。
お湯は清潔で透明感があり、
白い大理石の巨大な浴槽には
赤い花びらが多く浮かぶ。
天井近くの壁にはガラス窓が備わっていて、
差し込む光がお湯と湯気で光素が拡散する。
「はい、ニクスは
ここに座ってくださいな。」
喋り方を変えたスーが笑った。
誰も居ない浴場で、スーの声が響く。
言われるまま、わたしは
彼女に背中を向けて椅子に座る。
自分の貧弱な身体を
笑われたように思えて、恥ずかしくなる。
ここは大衆浴場でもないらしく、
他のひとの姿はない。
「こんな時刻にお湯に浸かれることは、
珍しいから不思議だね。
どっちが好き?
香りで選んで。」
両手に渡した光沢を持つ白い石、
石鹸を見たのは久しぶりだった。
わたしの黒く汚れた手の上で輝き、
両手に溢れ出るほどの大きさ。
鼻を近付けても自分の体臭が頭から離れず、
どちらも選べずにいた。
「私はこっちが好きかな。
身体に纏わりつく甘い香りより、
鼻腔を通るような爽やかな香りがするよ。
この石鹸は香り付けに、
クァンの皮を使ってるんだよ。
もう一つは、あとで試してみよっか。」
――よく喋る子なのね。
クァンがなにかを知らないわたしは、
喋り続ける彼女に黙って耳を傾ける。
足先から少しずつにお湯を浴びせ、
お腹、背中、そして髪の埃を洗い流す。
まだ浴槽に入っていないのに、
大量に浴びるお湯の勢いに溺れかけて、
息を吸って空気を求めた。
「ちょっとだけ堪えてね。
みんなで使うお風呂だから、
浴槽のお湯はできるだけ
綺麗に保ちたいから。」
泡立てた石鹸で髪についた脂や
頭に溜まった皮脂を揉み落とし、
繰り返し洗い流す。
汚れた皮脂は溶け難く、
泡はすぐに消えていく。
「まだでございますよ。」
スーは洗いながら下働きを楽しんでいる。
『ちょっとだけ堪えて』と
彼女は言っていたけれど、
わたしは長く耐え続けた。
荒々しい洗髪によって、
石鹸水が目に入って痛む。
目を閉じると乳母達の姿が思い浮かんだ。
次はスポンジに石鹸を擦りつけて、
身体を首の後ろ、背中から順に
激しく洗われていく。

地下での暮らしが長く、
皮膚が爛れていたので、
痛みが全身を突き刺す。
手足の爪を荒くブラシ掛けされ、
わたしはお湯に浸けられた。
「もう熱い?
細いとお湯の熱が身体に
巡りやすいんだよ。
人肌くらい温かいお湯が、
肌も傷つけないし良い温度
なんだってね。」
スーもお湯を浴びて
身体の埃を落としてから、
この巨大な浴槽に浸かる。
ただのお湯でも浮いている花びらから、
仄かに甘くておいしそうな匂いがする。
「喉が乾いても、
お湯を飲むのはダメだよ。
食中毒になっちゃうからね。」
「分かってるよ…。」
年齢に差もない彼女に子供扱いを受けて、
サンサだけではなく彼女にも
強く言い返してしまう。
目の前にある大量の清潔なお湯には、
不思議な誘惑があった。
わたしは顔をお湯に近付け、
窄めた口で、花びらに息を吹きかける。
遠くに流そうと吹いてみても、
花びらは風を受けて回転する。
「それと、手はお湯の中に
沈めたらダメだよ。」
「…どうして?」
考えても決まりの理由が
分からなくてスーに訊ねると、
彼女は踟ってから口を開く。
「簡単に説明はできないけど、
みんなで使うお風呂のお湯は
遊びの道具ではないってことかな。」
共同浴場を使うのは初めてだった。
集団生活の中に決まりがあるのは
理解できたので、自分を納得させた。
「こうして腕を伸ばして浮かべるか、
肩を揉むとかが良いよね。
長旅で筋肉が凝り固まってない?」
わたしはスーに心配されるほど、
身体に肉が付いていない。
「夜空の蕾、花咲く日。
いくら待っても朝は来ず、
燦然の星が流れ、大地に降りる。
わたしは海に漂うばかり。
わたしは海に漂うばかり。」
金色の髪を頭の上に束ねたスーが
突然、歌いだした。
顔を耳まで染めて照れ笑いをして、
心地の良い歌声を浴場に響かせた。
彼女は、フレヤとレイヤと同じで、
逆三角形の耳をしている。
――彼女も売られた奴隷なのかしら…。
飾緒もしてなかったし。
「いい歌でしょ? 流れ星の歌。」
流れ星は彼女の名前の由来になっている。
スーが歌い終えると、
わたしは浴槽から引き摺り出され、
また椅子に座らせられた。
「これ、やってみたかったんだよね。」

持ってきたのは長い青銅の肌掻きの棒で、
わたしの首や背中に肋骨が浮き出た身体、
腕や指のあいだの垢まで削り取られた。
大量の垢が掬い取れ、
その成果をスーは喜んだ。
痛いやら恥ずかしいやら、
自然と緩くなる唇を結び、
足の指を動かして悶えながら耐えた。
わたしはなにもしてないのに
疲れてしまう。
垢を削ぎ落としてから、
次は違う石鹸で身体を洗って、
浴槽に入れられるとスーはまた歌った。
心地良さに気を抜くと、
深いお湯の中に落ちかける。
わたしは囲んだ腕の中に浮かぶ花びらに
息を吹いて、響く歌声に耳を澄ました。
◆

スーが白磁の小瓶を上下に振る。
蓋を開けて小瓶を傾けると、
中から白色の液体が細い糸状に伸び、
わたしの右手に降りてくる。
それをスーが手で伸ばして笑って言った。
「これは肌のお手入れですわよ。
お風呂上がりの肌は傷ついたり、
脂を失って服の擦れに弱くなるから、
乳液を塗って肌を守ってあげますの。」
彼女はまた、おかしな喋り方をしている。
――この子は下女なのかしら?
長湯で茹で上がったわたしは、
タオルで水気を拭き取られた後、
準備室内の寝椅子の上に倒された。
乳液は顔と首、お腹、腕と足の指、
身体を裏返されて背中と臀部に至るまで、
全身に塗られていった。
疲れて抵抗する力を失い、
爛れた皮膚には
バターのような凝乳物が塗られた。
腕に塗られた凝乳物に鼻を近付けると、
仄かに甘く爽やかな香りがする。
「蜂蜜と蜜蝋を混ぜた特製品ですわよ。
簡単に作れるのに美肌効果があるから、
不老不死の薬なんて言われて
高値で売られてるんだよ。」
彼女はそんな説明をして口調を戻す。
わたしの住んでいた所では、
蜂蜜どころか蜜蝋さえも
簡単には手に入らない。
彼女に塗られた凝乳物のおかげか、
皮膚にあった刺すような痛みは
次第に和らいでいった。
準備室の棚には新しい服が用意されていた。
「これ肌着ね。
あと股布を履いて。」
肌着は輪にした布に肩紐がついたもの。
「これって、コットン…?」
「うん。
服はだいたいエルテル産だね。
木羊草は南部では生え難いもんね。
早く着ないと湯冷めするよ。」
コットンの生地は肌理が細かく、
薄手で柔らかな肌触りで、
胸に触れても過ごしやすい。
島の北部で育つ植物の、
種子を包む繊維が原料になる。

その繊維の白い毛になった塊が、
羊を模しているので木羊草と呼ばれる。
わたしのよく知る南部草に比べると、
北部でしか採れないコットンは珍しかった。
それに股布というものを初めて見た。
肌着と同じ服の一種で、
男のひとが履く長い布に、
紐が付いたものとは異なる履き物。
「足を通して、骨盤の上で紐を結ぶの。」
肌着の半分程度の長さの黒色の布は、
下側が厚手の布で縫い付けられている。
履き口は広く、裾は極端に短いスラックス。
腰部分に赤い紐が通してあり、
紐を絞ることで腰から下がらなくなる。
スーが紐を結んでくれたけれど、
結び目が紐の塊になっていた。

「オーブで履かれてるスラックスを、
サンサが改良した股布って言うんだよ。
変わった肌着だよね。
この街でも履いてるのは
この館の子くらいだけど、
月経の時にはこの中に
コットンを敷いておくんだよ。」
わたしはまだ初経が来ていない。
本で読んだ知識だけはあったので、
彼女の説明は理解できて首を縦に振る。
肌着の肩紐を掛け、股布を履けば、
次は淡黄色のキャシュクを着る。
布を袋状に縫っただけの
チュニックとは違い、キャシュクは
身体の型に合わせて布を切る。
生地を贅沢に使ったキャシュクは、
貴族にのみ着ることが許されていた。
背中側になる後身頃に、
左右2枚の前身頃を縫い合わせる。
短い袖に腕を通して、右身頃をお腹に当て、
左身頃を上に被せて紐を結んで固定する。
紐で絞った腰には括れと、
美しい皺が生まれる。

――ニースだわ…。
以前着ていたキャシュクに比べ、
渡されたこの服は裾がとても短い。
キャシュクは、踝を隠すくらいの
裾の長さが適切なのに対して、この服は
膝どころか太腿まで露出してしまう。
服の大きさからして幼子用でもない。
――どうしてこんなに短いのかしら。
同じキャシュクを着たスーも、
膝や太腿を出して平然としている。
彼女は胸がある分、
前身頃の裾が上に引っ張られていた。
足を露出するのは、気品を感じない。
「一人でちゃんと着られるね。
帯紐、結んであげようか?」
スーの申し出を断ると、
彼女は残念がって自分の帯布を巻く。
わたしもキャシュクの腹部に帯布を巻いた。
帯布は、お腹から腰に巻き付ける
幅広い厚手の布を、ボタンで止めて、
その上を帯紐で結ぶ。
昔は、キャシュクの前身頃が
開かないように、腰に紐を巻いて
結ぶしかなかったらしい。
腰の紐のせいでキャシュクが擦れ、
生地が傷むので、猟師は腰に革の|帯を巻き、
革の紐をして鉈を佩いた。
民衆が猟師を真似すると、貴族は
服に染色された帯と紐で着飾ることで、
富を誇示していった。
肩に掛ける飾り布は、
さらに多くの布を使う為に
貴族のあいだで流行した。
キャシュクの内と外に紐が付くと、
前身頃が崩れずに利便性は向上し、
帯布や帯紐の必要が無くなるはずだった。
キャシュクの新奇性が受け入れられても、
帯布の需要は無くならずに増え続けた。
身体に巻きつけていた帯布や帯紐は、
ただの装飾品へと用途が変わっていく。
帯紐に、帯飾りと呼ばれる金銀の細工を
付けた奢侈なひとも、この都市で見た。
帯布は腰を細く見せる為に巻き、
色や太さの違うものが壁に飾られていた。
わたしはキャシュクと同じ
淡黄色の帯布を背中にあててから、
褐色の帯紐を手にして背中へ半回転させる。
服を着るのが多少は楽になっても、
服の型そのものは変化しない。
「それなら私の帯紐をあげる。」
スーは、自分の帯布にしていた
金赤色の帯紐を外し、
わたしの帯布に結び付けた。
上質な金赤色の紐が光沢を放つ。
――やっぱりニースになったわ…。
彼女の作った帯紐の結び目は、
兎の耳を無理に縛ったような
歪な形になっていた。
外はまだ明るいけれど、
風呂上がりであっても肌寒い。
庭にある円形のテーブル席に場所を移すと、
足元には熾火が用意されていた。
燃やされた木炭の奥が赤く、
力強い光と熱を内包する。
テーブルの下に敷かれた、
黒色の玉石が光を受けて暗く輝く。
わたしは、サンサの座っていた
北側の椅子に座らせられた。
スーに髪を梳かれ、櫛の歯に虱が挟まる。
傷んだ髪はよく絡まり、よく切れた。
やることもないわたしは、
帯紐にある不格好な兎の耳を
指先で辿ると指が迷子になった。
熾火が足を温め、股布でお腹が温められ、
全身が心地の良い熱に包まれる。
髪に櫛が入る度に頭が後ろに倒れる。
眠気が勝って頭が回らない。
そんなわたしの口に、鼻腔を突く、
鋭い香りの木の枝が突っ込まれた。
歯磨きに使う歯木だった。

「荒波に揺られてたよ。
終わるまでそれで歯を磨いてて。
あとで確認するからね。」
歯木は枝の先を奥歯で噛み潰して、
筋に沿って割いてから歯間を掻いて
掃除する。
抜けた奥歯が気になった。
歯磨きをしても眠気に耐えきれず、
口に入れたままの歯木がお腹に落ちて、
重たい頭が前後左右に揺れる。
天蓋山の麓、ネルタの湖に浮かぶ船。
わたしはその船に乗っている夢を見た。
わたしが息を吹くと船の帆が膨らみ、
気持ち良く川を下っていく、
お湯に浮かぶ花びらの夢。
船が進んだ川の先に、なにがあるのか、
夢でその先を見ることは叶わなかった。
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