第4章 第2節 放言の子(第1項)
わたしは遅い朝食を済ませ、
食堂で食器を洗って片付けた。
厨房の片隅で歯磨きをしていると、
厨房長のヤゴウがわたしを警戒している。
――スーみたいに貯蔵室に入って、
食べものを持っていくと
思われてるのかしら…。
特にやることもないわたしは、
館のどこにも居場所がない。
部屋に戻って、サンサに押し付けられた
ネルタの本を眺めた。
表紙に打刻された名前も読めない本は、
大陸語で書かれていて内容も読めない。
いくつか平易な文字は見つけても、
文章で読めるはずもない。
本から赤い紐が伸びている。
――なにかしらこれ。
漠然とページを捲っていると、
本の末尾の三辺が赤い糸で閉じられて、
中身の見えない部分があった。
開けたとしても、
その中身が大陸語で書かれていれば、
読めないことに変わりはない。
スーの棚にある本を見ても、
難解な本が占めていて手が伸びない。
やることもなく途方に暮れたわたしは、
読めもしない本を閉じて部屋を出た。
――書室になら大陸語の、
読める本があるのかしら。
外廊下を歩き、
誰も居ない日陰の庭に降りると
上が騒がしい。
食堂と浴場の上の階は舞踏室で、
わたしはその部屋には入ったことがない。
スーが言うには、今日はドレイプが
酒宴を開いて騒いでいるという。
踊りながら廊下に跳び出すドレイプもいた。
わたしは彼女達から隠れて、
再び食堂に逃げた。
ヤゴウが渋顔で窯の火を見たり、
水を加えた粉を練っていると、
力強く台に叩きつけた。
彼は表情の変化が乏しいだけで、
食事の支度も愉しんでいるように見える。
仕事は豪快でいて、素早く、繊細で、
遠目に見ているだけで疲れてしまう。
その隣では黒髪黒目のフランジが、
下働きの少女、デーンと共に、
厨房の中で料理らしい作業をしている。
彼女達は、労働体験でも勉強会でも
紹介されていない。
「もう腹減ったのか?」
と、粉塗れのヤゴウが低い声で
わたしに声を掛けてきた。
急に話し掛けられたわたしは、
驚いて首を横に振ってまた食堂を出た。
わたしはサンサの倉庫、
と呼ばれる書室の扉を開けた。
――ここには本がある。
――本があるのよね…。
わたしは口布を手にしたけれど、
まだ巧くは結べない。
書室の入り口は巨大な扇風機に阻まれて、
本の存在すら確かめられず、
諦めて扉を閉めた。
御不浄から酔ったドレイプの声がし、
フランジ棟の扉の一つも開かれた。
焦ったわたしは隠れるみたいに、
禁止されている果樹園に入った。
逃げた先に果樹園を選んだのは、
身を隠す以外の理由があった。
以前、スーに館を案内して貰った時に、
鶏小屋近くの木立の間に、
猫の鳴き声を聞いた。
北側の列に植えられたクァンの木には、
金赤色に熟した果実が残っている。
小粒な白い花も疎ら咲いている。
冬を迎える前に実る
クァンの果実は、酸味が強く、
春になると適度に甘くなるという。
ドレイプやフランジだけでなく、
従業員も自由に食べられる果物で、
食堂に行けば常に置いてある。
メノーは果肉を絞ってジュースにしたり、
スーは何度か部屋に持ってくる。
鷹が鳴いている。
空を見上げると、円を描いて飛んでいた。
クァンの列以外の木は全て、
オレームの木になっている。
果実から油を絞るオレームの木も、
いまは小粒な白い花が房状に咲く。
花だけではなく、葉の形、色、幹の太さ、
樹皮などは見比べると違いが分かりやすい。
オレームは特に花が甘い香りを放つ。
オレームの果実には、
毒があると伝えられていた。
果実は塩や油漬けにして食用に供されるし、
絞った油は料理以外にも乳液に使われる。
果肉の搾り滓も、
乾燥させれば家畜の餌、飼料になる。
毒があればこれほど用途は広がらない。
オレームの実や油に限らず、無害な水でも
口にできるものは大量に摂取してしまうと、
胃腸で吸収や消化の均衡が崩れて
食中毒を起こす。
オレームは小粒だからこそ、
お腹が満たされるまで、大量に食べる
間違いが起きる可能性もある。
それでオレームは毒と呼び、
フランジへの警鐘を目的に
伝えているのかもしれない。
考えを巡らせながら
オレームの木立に入ると、
ビャオと掠れたあの鳴き声が聞こえた。
足元には白い毛玉。
子猫が、わたしの足に
身体を擦りつけてきた。
「わっ…。」
対処に困って後退りすると、
背後にキャシュク姿の少女が立っていた。
「危ないだろ。」
以前もここで白猫を抱いていた少女。
「サンサの部屋の新入りだろ。」
「…こんにちは。」
沈んだ目に怪しい笑みを湛える少女。
慎ましくも、好奇心旺盛な
他のフランジとは異なる風采。
目つきや喋り方には落ち着きがあり、
端々に懐かしい敵意が感じ取れた。
前髪を眉よりも上に、水平に切り揃え、
わたしよりも背がは高い。
けれどフランジの中では線が細いせいか、
強い口調に反して怯えているように見える。
両手に二つの小皿を持っていて、
山羊のお乳と食べ物が刻んで盛られていた。
木製のお皿の上に千切られたパンと、
茹でた鶏肉も刻まれて爪先程度に小さい。
細切れの野菜も混ぜられている。
「新入りも食べたいのか?
子猫の餌だぞ。」
餌を見ていたわたしは顔を上げ、
目を見開いて首を横に振った。
彼女は先程まで厨房で、下働きの少女の
デーンと一緒に猫の餌を作っていた。
餌の匂いに気付いて、
子猫の声量が増す。
「はいはい。待たせたな。」
差し出された小皿に、
子猫は勢いよく噛り付く。
なにか唸り声を漏らし、
お皿に顔を押し付け、
耳を動かしながら懸命に食べている。
「ファウナが飼ってるの?」
「こいつの家族が
近くの馬車の事故で死んで、
この館に連れられて来たんだ。
仕方がなく私が育ててんだよ。」
「…それは飼うって定義されないの?」
「命を管理してるだけだな。
苗木みたいに。」
わたしはファウナの理屈を楽しんで、
次の言葉を待って首を捻る。
レナタの丁寧な喋り方とは対照に、
ファウナの言葉遣いはドレイプの手伝い役、
フランジとも思えないほど粗野だった。
それでもファウナの発音は明瞭で、
聞き取りやすい。
スーの発話に近いのに、
音節が弾んでいて癖がある。
濁った声質もわたしの低い声に近いので、
勝手に親しみを感じてしまう。
「寝室棟で飼ってるわけでもないし、
名前も付けてない。
館で動物を飼うなんて、
まずオーナーが許可しない。
『娼婦を見せる為の館であって、
動物を養う為の場所ではない。』
ってのは真当な理由だよな。
ドレイプの中でも動物を飼ってるのは、
元々アルを連れてたサンサだけだろ。
飼いたいのなら館を出ていくべきだな。
去るものは追わず、ってな。」
わたしはファウナを責めて、
館を追い出すつもりはない。
――でもこの果樹園は、
フランジが入ってはいけないのよね?
ここで会った時に、
ファウナ自身がそう言っていた。
「ファウナはそれが許されているのね。」
「敷地内で飢え死んで、
肥料にした方が良いって言うのか?
無慈悲な女だな。」
「そんなこと言ってないわ。
ファウナは優しいから、
隠れて世話をしてるんだわ。」
「違う!
こうやって見つからなければ、
追い出せとも言われないだろ。」
ファウナは独自の理屈を次々と展開する。
演説する彼女の後ろの木の根元には、
子猫用の箱が置かれている。
屈んで天板を開けると、
箱の中にはクッションまで敷かれていた。
館で飼育している動物は鶏だけ。
サンサの他に、ドレイプが動物を飼っている
という話も聞いたことがない。
共同生活を行うドレイプが
自由に動物を飼い始めたらいずれ、
珍しい動物目当ての客が増え、この館は
本当に見世物小屋へと変わってしまう。
「新入りはサンサの飼ってる動物か?」
ファウナの見解に妙に納得がいってしまう。
サンサもわたしのことを、
見世物呼ばわりしたせいで否定できない。
「その子に名前は無いのね。ファウナ。」
「なぁ、さっきから…。
自己紹介はまだだったろ?」
「下の部屋で認証管理をしてるのよね。
名前くらいは知ってるわ。」
わたしはこの館に連れて来られてから、
彼女の名前を頻繁に耳にしている。
「私は認証管理の補佐だよ。
ヴィット・ハス・ファウナ。
新入りは?」
「あ…、わたしは…ニクス。」
「それは知ってる。どこのニクスだ?
出身は? 親は? 家名は?」
彼女は口早にわたしを問い詰める。
「え、とサンサの部屋で、
ナルシャの――。」
「私相手に家名を言いたくないわけだ。
港長の娘と知って怖気付いたか?」
「港長って洞窟港の?」
この島の北端に位置する島の入り口、
洞窟港しかわたしは港の存在を知らない。
「なんだ?
ヴィット家の家名で気付かないのか?
あの暗殺事件から、
4年しか経ってないのに?」
「ごめんね。
わたしは『お姫様』みたいなの。」
歴史以上に政治に疎いわたしは、
サンサのように自嘲して言った。
わたしは生まれてからほとんどを、
ネルタの塔に独りで暮らしていた。
分水街から北のゼズ山脈を越え、
ネルタと交流の無い洞窟港の港長の家名は、
乳母達の噂でも耳にした覚えはない。
「なんだなんだ。
賢いお姫様だっていうから、
どんなものかと思ったら…。
ここはもっと驚くべきだぞ。
入植から300年続いた
由緒ある家柄なんだからな。」
「立派な家名なのね。
いままで知らなかったけれど、
フランジ同士でも階級って
異なるのかしら。
フランジには敬意を持ってるつもりよ。
わたしは館の仕事が出来ないもの。
レナタは年下でも実直で、
わたしは彼女を尊敬してるわ。
わたしが礼を失していたのなら
詫びるし、許して貰えるのなら
今後は改善もするわよ。」
言い終わらないうちに溜め息を吐かれた。
――ファウナはどうして
この館にいるのかしら。
――でも、出自は訊ねないのが
館の決まりなのよね。
――自分から言う分には良いのかしら。
「なんでこんな新入りが、
サンサの部屋に選ばれたんだ?」
サンサの考えはわたしも分からないので
首を捻ってみせる。
「今年スーがドレイプになったら、
私がサンサの部屋に、
行く予定だったんだぞ。」
「スーってドレイプになるの?」
ファウナは力強く頷く。
「いいや、これはただの願望だな。
こんな街で、娼婦になりたがる
やつの方がおかしいんだ。
新入りは当然、
文字の読み書きは出来るよな?」
「え、うん。大陸語でなければ…。」
押し付けられた大陸語の本は読めないまま、
部屋から抜け出してきたので自信がない。
「客の手紙を読んでみる気はないか?」
「客って、認証管理の仕事?」
「読んでみると楽しいぞ。」
「それ、ドレイプに送られたものでしょ?
他のフランジが読んでも
許されものなの?」
わたしの投げかけた疑問が、
ファウナの狙い通りらしく、
彼女は口角を上げてまた怪しく笑った。
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