第4章 第1節 教養の鍵(第3項)
蜜蝋の張られた二つ折りの書字板。
粘土で埋めた使いまわしの代用品ではなく、
髪や砂などの異物も無いので
滑らかに字を刻める。
スタイラスで字が綺麗に書けるだけでなく、
誤字を削った蜜蝋さえも美しく思える。
勉強会が解散して、夕食が終わると
スーとわたしは部屋に戻った。
わたしは彼女から借りた書字板で、
今日会ったフランジや従業員、
覚えたドレイプの名前や特徴を刻む。
スーはベッドの上で、
勉強会からずっと彫刻刀を握り、
手のひら程度の板に1枚1枚
なにかを彫っている。
足音が近付いて部屋の扉が蹴られた。
足音と蹴る音からして扉の前に立つのは、
サンダルで蹴ったサンサ以外に居ない。
「開けてー。」
近いわたしが扉を引き寄せると、
まずアルが部屋に入ってきた。
アルはほとんど足音を立てない。
サンサの左手はランタンと、
腋にはマルフから預かった本を抱えている。
片手が塞がっていれば、
隻腕の彼女は扉も開けられない。
彼女が扉を蹴って手助けを求めるのは、
いつものことになる。
スーが彼女と同じことをすれば、
品のない行為と思いはするけれど、
サンサであれば気にならない。
片腕の無いサンサに、
十全を求めては相反する。
サンサに品性を期待していないから、
という理由も少しはあるかもしれない。
彼女の指先にまで至る優美な起居は、
他のドレイプや、館を訪れる客以上に
気品を感じ、見倣うる部分もある。
この館では、できないひとに対して、
できるひとが手伝えば済む話なので、
できないことを強制や叱責はしない。
高級娼館の娼婦であっても、
等しく完璧を求められてはいない。
料理も清掃も、勉強も仕事も全て、
共同生活の場所では強制はなく、
協力を前提にしている。
それから自分でするべきことであれば、
他人を頼ってはいけない。
自分にできないことを指図する場合でも、
達成可能な相手を選んで意図を伝達し、
進捗は確認し、責任は自分に返ってくる。
そうしてフランジはドレイプを目指して、
できるひとを見倣おうと心掛ける子が多い。
年少のレナタの存在は館の規範になり、
他のフランジの模範にもなっている。
サンサは夕食を終えてからも、
セセラの相談を受けながら、
食堂で厚い本を読んでいた。
「ありがと、ニクス。
まだ起きてたのね。」
「もう寝るとこだよ。」とスー。
「彫刻刀を握ったまま寝ないでよ。
ベッドが血だらけになってしまうわよ。」
「床を掃除しないと…。」
わたしはアルを見て言った。
アルは踏んで足に付いた木屑を、
不快感から足を振って取り払った。
その行動によって木屑は余計に散らかる。
「もう遅いもの、いいわよ。
どうせルービィに知られても、
わたしが叱られるだけよ。」
「責任者だもんね。
ニクスももう寝よう。」
スーはベッドの木屑を床に落とし、
彫刻刀を近くの棚の上に転がして、
片付けたつもりで身体を毛布に入れる。
彼女のベッドは羊皮紙に埋もれ、
毛布の中から紙が擦れ落ちる音がする。
サンサがスーに衣装室の鍵を預けない理由。
「ニクスも。
いまのうちにちゃんと寝ないと、
ヤゴウくらい大きくなれないわよ。」
「そんなに大きくなりたくはないよ。」
大人に見えない彼女から、
子供を寝かしつけるような
言葉を使われても、説得力を感じない。
勉強会で、肉付きの良いメノーを
間近に見ていた後だからか、
小柄なサンサと比べてしまう。
わたしも書字板をベッドの脇に片付けて、
綺麗な毛布を首元まで被った。
夜はまだ少し寒く、毛布からは
新しい石鹸の香りが仄かにする。
サンサはランタンをテーブルに置くと、
椅子に座っているアルが鳴いた。
「ふふっ。これね。
ニクス。はいっ。」
「えっ? ぶぇっ!」
寝ていたわたしのお腹の上に、
サンサが抱えていた本が投げ落とされた。
分厚くて、硬いその本の重さに、
わたしのものとは思えない声が出た。
「なにするのっ!」
「あなたに貸してあげるわ。
読み終えたらルービィに渡しなさい。
汚したり、誰かに貸したり、
売ったりはしてはダメよ。」
「…この館のオーナーだよね。」
「わたしの雇い主でもあるわね。
ニクスはまだ会ってないわよね。
いまはエルテル領で遊んでいるから、
帰って来た時にでも紹介するわね。」
「分かった。
それで、この本は?」
「ネルタの本よ。
読みたがっていたでしょ。
マルフが持って来た時から
ずっと覗いていたものね。」
「そんな浅ましいことしてないよ。」
否定したけれど、自覚と自信はなかった。
ネルタでも、塔に住んでいた時に
本は何冊も読んでいた。
背表紙には、
鎖が取り付けられていた形跡の穴がある。
城の書庫から持ち出しの出来ない本は、
この穴に鎖を通して繋ぐ。
こうした本は、司書官のゴレムが密かに
塔へと持ち込みに来ることもあった。
退化の科学論も、
彼が持ち込んだ本の一つだった。
「どんな本?」スーが訊ねる。
革の表紙に打刻された文字や、
中の文字も大陸語で、書体の癖も激しくて
これはわたしには読めない。
「ニクスが読んで、
本の内容をスーに教えてあげて。」
「やったー! 楽しみっ。」
「えっ! 待って!
大陸語は読めないのに。」
わたしは本を手放して、
首を横に振って放棄した。
「その本がいつの日か読める本でも、
手放すとずっと読めなくなる。
って、サンサが言ってたよ。」
「言ったかしら?
そんなに良いこと。」
「倉庫の本が埃を被ってるよね。
あれも片付けないと、
オーナーに叱られるかもだよ。」
「あぁー…。うん。
彼女が帰って来るまではいいわ。
もう寝なさい。
二人とも、歯は磨いた?」
「磨いたよ、ね。
ニクスの奥歯も生えてきたんだよ?
サンサも見る?」
「見せないって言ったよね。」
「虫歯でもなければ診ないわよ。
これからは、もっと丁寧に
噛んで食べることね。」
「焦って食べなくてもいいんだよ。
孤児院でもないんだから、
誰も横取りしないよ。
急いで食べても消化に悪くて、
貴族病になっちゃうし、
ヤゴウくらい大きくなれないからね。」
「…分かってるよ。」
返事をしてみても、これも自覚がなかった。
「おやすみ、サンサ、アル、ニクス。」
「おやすみなさい…。アルも。」
アルは短く鳴いて返事をする。
燭台の火が消された暗闇の中、
天窓の明かりに反射したアルの目が
光って見えた。
ランタンを持って部屋の奥へと歩く
サンサの、暗くなった背中を見てから、
本をクッションの下に挟んだ。
彼女に抱えられていたからか、
本は仄かに甘くて爽やかな香料が鼻を通る。
――ネルタの本。
――どんな内容の本なのかしら。
でも、わたしには読めないわ。
――この本を読むには、
大陸語を学ばなければいけないし。
――勉強ってどうすれば良いのかしら。
サンサに教わるのは――。
本のことばかり考えて眠りについた。
その夜、わたしは夢をみた。
朝食はスーの切った厚いパンに
バターと蜂蜜を塗って、
鶏の肉と卵の入った
金色のスープを口にする。
光輝くスープを口に入れるその直前に、
暗い泥に変わって、視界は黒く染まり、
大量の煤が降ってきて息苦しくなる。
サンサの手で遮光カーテンが閉められると、
周囲は急に夜へと変わった。
薄暗闇の視界の中で、
掠れた声の咳が聞こえた。
わたしは噴水も眠る夜の庭園を走る。
――ここから出ないと…。
この館を抜け出すことを考えた。
夜暗の中、足が重たく、走れない。
――これは夢…?
夢と分かっていても、
夢から目覚められない。
玄関の重い扉を持ち上げ、
体重を掛けて開ける。
切り揃えた黒髪の少女が、
白い猫を抱えたままわたしを見つめた。
扉の隙間に身体を押し込んで外へ出る。
夢の中の自分は思い通りには動かない。
玄関の先は外のはずなのに、
目前で細い柱がわたしを阻む。
柱は檻の鉄格子だった。
向かいの檻には、弱々しい火の光。
咳によってその火は揺れる。
傭兵のランタンが地面に落ちて割れると、
火は消えて冷たい暗闇が覆い尽くす。
球体が泥に汚れた雪の上に落ちて転がり、
道端に捨てられた布袋が遠ざかる。
『ニースのせいよ!』
わたしは底知れない恐怖に怯え、
牢檻の隅で布切れを被り耳目を塞いだ。
◆
「…ス…ニクスッ!」
耳元で聞き覚えのある澄んだ声に気付き、
わたしは悪夢からようやく目を覚ました。
スーがわたしを見ている。
「苦しんでたよ?
寒い? 身体が熱い?
吐き気は? 喉は痛くない?」
わたしは瞼を一度閉じて、
再び彼女の顔を見た。
「なんでもないよ?」
部屋はもう、ランタンも手燭も
要らないほど明るくなっていて、
わたしはこちらが夢だと疑ってしまった。
「もう朝食の時間は終わったよ?」
「…えっ!」
わたしはベッドから跳ね起きた。
スーはトレイを持ってきて、
テーブルに置いていた。
トレイの上にはバターの塗られたパンと、
卵と根菜のスープに、塩漬け肉を
刻んだものが入っている。
それに蜂蜜の小瓶まである。
「…夢かな?」
「どんな夢見てたの?
夢なら朝食は片付けるよ。」
「スー、出掛けるの?」
金の髪を三つ編みにして、
後頭部で円を描くように束ねていた。
キャシュクの上には、黄赤色に染められた
薄手の上着を身に着けている。
それに彼女が手にしているのは、
昨日から彫刻刀で彫っていた
板を入れた箱。
それを鞄に入れて、肩紐に腕を通す。
「今日は初夏の農休みだからね。
お休みを利用して、
近くの画工の工房を借りてくる予定。
あ、お客さんは居ないけど、
ドレイプは集会で舞踏室にいるよ。
みんなお酒が入ってるから、
近付かない方が良いよ。」
「分かった…。」
スーの警告にわたしは首を縦に振る。
酔ったドレイプに捕まれば、
質問攻めに遭うのは想像できる。
「今日は私は居ないけど、
夜には帰ってくるから、
寂しがらないでね。」
「平気だよ。」
「私は寂しいよぉ。」
と、力強く抱きついて、
わたしの頭を撫でて前髪を整える。
「スー。上着にバターが付くよ。」
「危ない、危ない。」
「行ってらっしゃい…。気をつけてね。」
「護衛も連れて行くから大丈夫。
行ってきまーす。」
見送って部屋で独り、遅れた朝食を摂る。
「アルも居ないのかしら…。」
部屋の奥に向かって声を出し、
名前を呼んでみても返事はない。
急に、塔に住んでいた頃を思い出した。
塔での食事は常に独りだった。
近くに食事を用意する乳母達は居たけれど、
共に食事ができる身分ではない。
スープを啜る僅かな音が、
部屋に響いて聞こえる。
部屋の静けさにスーの言った通り、
わたしは独り、寂しさを覚える。
それは、塔に居た頃には
無かった感情だった。
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