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金貨の娘  作者: 美穂
第3章 花弁の湯

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第3章 第4節 湯の中の夢

花(はな)汲(く)みを終(お)えたフランジは

館(やかた)から出(だ)されて、北(きた)側(がわ)の運(うん)河(が)に繋(つな)がる

排(はい)水(すい)溝(こう)近(ちか)くに移(い)動(どう)させられる。



井(い)戸(ど)から汲(く)み上(あ)げた無(む)色(しょく)透(とう)明(めい)な水(みず)で、

手(て)足(あし)についた汚(よご)れを洗(あら)い落(お)とした。



外(そと)で洗(あら)うのは地(ち)中(ちゅう)深(ふか)くにある井(い)戸(ど)の水(みず)を、

不(ふ)要(よう)物(ぶつ)での汚(お)染(せん)から避(さ)ける理(り)由(ゆう)がある。



厩(きゅう)舎(しゃ)の馬(うま)達(たち)がフランジの様(よう)子(す)を見(み)て、

頭(あたま)を上(じょう)下(げ)左(さ)右(ゆう)に揺(ゆ)すって興(こう)奮(ふん)している。



挿絵(By みてみん)



ドレイプが遠(とお)出(で)に馬(ば)車(しゃ)を使(つか)うので、

この施(し)設(せつ)が館(やかた)に備(そな)わっていた。



下(した)働(ばたら)きの若(わか)い男(おとこ)は嘶(いなな)く馬(うま)に、

ブラシを掛(か)けながら静(しず)めていた。



館(やかた)に戻(もど)って流(なが)し台(だい)の無(む)臭(しゅう)の水(みず)で

鼻(はな)の中(なか)をいくら濯(すす)いでも、

花(はな)汲(く)みで付(つ)いた臭(しゅう)気(き)は取(と)れない。



鼻(はな)に水(みず)が入(はい)ると鼻(はな)の奥(おく)が痛(いた)くなる。



「鼻(はな)の中(なか)の粘(ねん)膜(まく)が傷(きず)つくから、

 そこまでにしとこうね。」



スーに言(い)われ、

渡(わた)された銅(どう)のタライを取(と)り上(あ)げられた。



挿絵(By みてみん)



鼻(はな)は痛(いた)いし、腕(うで)も痛(いた)い。



おまけに鼻(はな)から別(べつ)の液(えき)体(たい)が出(で)てきた。



「あぁー…。スー、出(で)たぁ…。」



鼻(はな)の下(した)に触(ふ)れた右(みぎ)手(て)に、

自(じ)分(ぶん)の鼻(はな)血(ぢ)が重(じゅう)力(りょく)に従(したが)って線(せん)を描(えが)く。



鼻(び)孔(こう)を上(うえ)から摘(つま)んで

溢(あふ)れる血(ち)が肘(ひじ)から滴(したた)り落(お)ちると、

キャシュクまで汚(よご)れてしまった。



スーが取(と)り出(だ)した口(くち)布(ぬの)で、

わたしの鼻(はな)を摘(つま)んで出(しゅっ)血(けつ)を抑(おさ)える。



「しばらく口(くち)で呼(こ)吸(きゅう)だね。


 そのうち血(ち)も止(と)まるから安(あん)心(しん)して。


 臭(しゅう)気(き)っていうのはね、空(くう)気(き)に混(ま)ざって

 鼻(はな)に入(はい)った小(ちい)さな物(ぶっ)質(しつ)なんだよ。


 鼻(はな)の中(なか)は複(ふく)雑(ざつ)で鼻(はな)を洗(あら)っても、

 これがなかなか落(お)ちないんだよね。


 ところで料(りょう)理(り)や香(こう)料(りょう)の匂(にお)いって、

 あとから思(おも)い出(だ)せたりするよね?


 花(はな)汲(く)みの直(ちょく)後(ご)だと想(そう)像(ぞう)も難(むずか)しいかな。


 鼻(はな)の中(なか)から臭(しゅう)気(き)の物(ぶっ)質(しつ)がなくなっても、

 記(き)憶(おく)には残(のこ)るんだよ。


 記(き)憶(おく)が薄(うす)れた頃(ころ)になって、

 ようやく臭(しゅう)気(き)も薄(うす)れるんだよね。


 逆(ぎゃく)に、臭(しゅう)気(き)が原(げん)因(いん)で、

 記(き)憶(おく)が呼(よ)び起(お)こされたりもするよ。


 他(ほか)にも温(おん)感(かん)や冷(れい)感(かん)、痛(つう)覚(かく)なんかも、

 記(き)憶(おく)に結(むす)びついたりするよね。」



――話(はなし)が逸(そ)れてるわ…。



「それれ、ろーすれは、いいの?」



「急(いそ)いでも仕(し)方(かた)がないよ。


 血(ち)が止(と)まったら顔(かお)だけ軽(かる)く洗(あら)ってね。」



「はぁー。」



鼻(はな)を摘(つま)めば返(へん)事(じ)の声(こえ)もおかしくなる。



玉(たま)石(いし)の上(うえ)に座(すわ)って退(たい)屈(くつ)に過(す)ごすしかない。



庭(にわ)に入(はい)る穏(おだ)やかな風(かぜ)が洗(せん)濯(たく)物(もの)を揺(ゆ)らし、

わたしの頬(ほお)や濡(ぬ)れた前(まえ)髪(がみ)を撫(な)でる。



垂(た)れた血(ち)が口(くち)に入(はい)ると銅(どう)貨(か)の味(あじ)が広(ひろ)がり、

言(い)い表(あらわ)せない不(ふ)安(あん)に苛(さいな)まれて

気(き)分(ぶん)は良(よ)くない。



頭(あたま)の中(なか)に灰(はい)色(いろ)の靄(もや)が漂(ただよ)う。



なにもしないのは退(たい)屈(くつ)で、

疲(つか)れと陽(よう)気(き)で眠(ねむ)気(け)に誘(さそ)われ、

荒(あら)波(なみ)に揺(ゆ)られ、瞼(まぶた)が落(お)ちる。



「ニクス、お疲(つか)れ様(さま)でした。」



レナタが呼(よ)び掛(か)けてきた。



「おわっ…、おあぁーあぁ…。」



鼻(はな)を摘(つま)んだまま喋(しゃべ)っていると、

自(じ)分(ぶん)でもなにを言(い)っているのか

分(わ)からなくなってくる。



右(みぎ)手(て)で鼻(はな)を摘(つま)んだ状(じょう)態(たい)で

立(た)とうとして倒(たお)れかけた。



片(かた)手(て)が不(ふ)自(じ)由(ゆう)なだけで、

動(うご)き難(にく)くなることに自(じ)分(ぶん)でも驚(おどろ)く。



玉(たま)石(いし)の上(うえ)に座(すわ)っていると臀(でん)部(ぶ)も痛(いた)い。



「慌(あわ)てなくてもいいですよ。


 今日(きょう)の仕(し)事(ごと)はもう終(お)わりですから。


 この後(あと)は準(じゅん)備(び)室(しつ)で服(ふく)を捨(す)てて、

 お風(ふ)呂(ろ)で身体(からだ)を綺(き)麗(れい)にしてください。」



こんな不(ぶ)格(かっ)好(こう)な姿(すがた)を見(み)せても、

レナタは嘲(ちょう)笑(しょう)もせず罵(ば)倒(とう)もしない。



――レナタの手(て)助(だす)けになったのかしら。



わたしは自(じ)分(ぶん)に落(らく)胆(たん)して

深(ふか)い溜(た)め息(いき)が出(で)た。



「今(こん)度(ど)の休(きゅう)養(よう)日(び)は仕(し)事(ごと)ではなくて、

 ちゃんとした勉(べん)強(きょう)会(かい)がありますよ。」



「えんきょーあい。」



「サンサがフランジに教(おし)えてるんです。


 ニクスはここに来(く)る以(い)前(ぜん)から

 色(いろ)々(いろ)な本(ほん)を読(よ)んでるんですよね。


 それなら勉(べん)強(きょう)もすぐに追(お)いつきますよ。」



「ゔぇっ…うん…。」



鼻(はな)を摘(つま)んだまま首(くび)を縦(たて)に振(ふ)ると、

鼻(び)腔(くう)に溜(た)まった血(ち)が喉(のど)を通(とお)って、

不(ふ)快(かい)感(かん)を味(あじ)わう。




学(がっ)校(こう)に通(かよ)ったことも、家(か)庭(てい)教(きょう)師(し)も居(い)ない、

わたしは勉(べん)強(きょう)には自(じ)信(しん)がない。



数(すう)学(がく)も得(とく)意(い)になるほどではないし、

歴(れき)史(し)も狭(せま)く、倫(りん)理(り)も怪(あや)しい。



体(たい)力(りょく)もなければ、地(ち)位(い)もない。



「えんきょー…勉(べん)強(きょう)会(かい)って…

 ここは学(がっ)校(こう)もやってるの?」



「学(がっ)校(こう)というのはわたしも知(し)りません。


 でもスーなら 知(し)ってるかもしれません。


 さぁ行(い)きましょう。」



鼻(はな)血(ぢ)の止(と)まったわたしは、

レナタに手(て)を引(ひ)かれて浴(よく)場(じょう)に向(む)かった。



ボイラー室(しつ)の煙(えん)突(とつ)の掃(そう)除(じ)が済(す)み、

従(じゅう)業(ぎょう)員(いん)達(たち)がお湯(ゆ)を用(よう)意(い)してくれていた。



これがサンサの言(い)っていた仕(し)事(ごと)の褒(ほう)美(び)で、

フランジは昼(ひる)からの入(にゅう)浴(よく)を喜(よろこ)ぶ。



庭(にわ)には食(しょく)堂(どう)のテーブルが置(お)かれ、

その上(うえ)にはジュースや果物(くだもの)が並(なら)べられて、

昼(ちゅう)食(しょく)の支(し)度(たく)で香(こう)ばしい匂(にお)いが広(ひろ)がる。



――仕(し)事(ごと)によって報(ほう)酬(しゅう)が得(え)られる。



疲(つか)れ切(き)っていたはずのフランジは、

疲(ひ)労(ろう)も忘(わす)れて喜(よろこ)び、燥(はしゃ)いでいる。



館(やかた)の仕(し)事(ごと)は想(そう)像(ぞう)以(い)上(じょう)に大(たい)変(へん)だった。



洗(せん)濯(たく)は力(ちから)のいる肉(にく)体(たい)労(ろう)働(どう)で、

煤(すす)染(ぞ)めは涙(なみだ)が出(で)るほど身体(からだ)に悪(わる)い。



そして花(はな)汲(く)みは心(しん)身(しん)共(とも)につらかった。



労(ろう)働(どう)体(たい)験(けん)に参(さん)加(か)したフランジは、

館(やかた)で働(はたら)く従(じゅう)業(ぎょう)員(いん)の仕(し)事(ごと)の恩(おん)恵(けい)が

身(み)に沁(し)みた日(ひ)になった。



彼(かの)女(じょ)達(たち)の苦(く)労(ろう)と喜(よろこ)びが、

噴(ふん)水(すい)のように庭(にわ)に溢(あふ)れる。



――これがサンサの言(い)っていた正(ただ)しさ、

  館(やかた)の物(もの)差(さ)しなのね…。




 ◆




着(き)替(が)えを行(おこな)う為(ため)の準(じゅん)備(び)室(しつ)の前(まえ)で、

鼻(はな)血(ぢ)と煤(すす)と不(ふ)要(よう)物(ぶつ)で汚(よご)れた全(すべ)てを、

ゴミ入(い)れとして用(よう)意(い)された籠(かご)に捨(す)てる。



挿絵(By みてみん)




溢(あふ)れた籠(かご)は、従(じゅう)業(ぎょう)員(いん)が抱(かか)えて出(で)ていく。



――あれは洗(せん)濯(たく)して使(つか)わないのかしら。



踟(ためら)いなく服(ふく)が捨(す)てられる。



この館(やかた)の贅(ぜい)沢(たく)な生(せい)活(かつ)について、

わたしは考(かんが)えさせられた。



服(ふく)は身体(からだ)に異(い)臭(しゅう)を残(のこ)し、

湿(しめ)った鼻(はな)がまだ気(き)になった。



「学(がっ)校(こう)? …どうだろ。

 家(か)庭(てい)教(きょう)師(し)ならレナタも知(し)ってるよね。


 サンサが昔(むかし)やってたから。」



レナタに訊(たず)ねられ、

肌(はだ)着(ぎ)姿(すがた)のスーが言(い)う。



「あぁ…。やっていましたね…。」



レナタがスーを見(み)て、表(ひょう)情(じょう)を曇(くも)らせる。



信(しん)用(よう)ならないサンサの評(ひょう)判(ばん)を推(お)し量(はか)った。



「学(がっ)校(こう)に行(い)ってたひとは

 たぶん居(い)ないよ。


 学(がっ)校(こう)は貴(き)族(ぞく)や上(じょう)流(りゅう)階(かい)級(きゅう)の男(おとこ)が、

 兵(へい)学(がく)とか馬(ば)術(じゅつ)を身(み)に付(つ)ける為(ため)に、

 通(かよ)う場(ば)所(しょ)だもんね。」



「ニクスは行(い)ったことありますか?」



スーの説(せつ)明(めい)を受(う)け、

レナタが続(つづ)けて訊(たず)ねてきた。



「ううん。

 家(か)庭(てい)教(きょう)師(し)も知(し)らないよ。


 いまから学(まな)んで、

 みんなに追(お)いつくか不(ふ)安(あん)だわ。」



「勉(べん)強(きょう)は個(こ)人(じん)の精(せい)励(れい)次(し)第(だい)だもんね。

 ねぇ、レナタ。」



レナタはチュニックを脱(ぬ)ぐと、

しばらく間(ま)を空(あ)けてから気(き)付(づ)いて、

不(ふ)満(まん)を顕(あら)わに頬(ほお)を膨(ふく)らませた。



「勉(べん)強(きょう)って、わたしは苦(にが)手(て)です。」



「勉(べん)強(きょう)会(かい)は私(わたし)達(たち)の年(ねん)齢(れい)に合(あ)わせてるから、

 レナタにとっては難(むずか)しい内(ない)容(よう)だよね。


 レナタはレナタの思(おも)うままに

 学(まな)べばいいと思(おも)うよ。


 ニクスは思(し)想(そう)を学(まな)んでたりする?」



「勉(べん)強(きょう)会(かい)では思(し)想(そう)を教(おし)えるの?」



思(し)想(そう)は、物(もの)差(さ)しや天(てん)秤(びん)の錘(おもり)のような

標(ひょう)準(じゅん)を持(も)たないのでわたしも理(り)解(かい)に躓(つまづ)く。



「逆(ぎゃく)だよ。


 サンサって思(し)想(そう)については

 教(おし)えたりしないからね。


 普(ふ)段(だん)は担(たん)当(とう)してる部屋(へや)のドレイプや

 年(ねん)長(ちょう)のフランジが教(おし)えているから、

 勉(べん)強(きょう)の機(き)会(かい)は無(な)いと思うよ。」



「サンサの教(おし)え方(かた)って、

 学(まな)ぶ機(き)会(かい)を与(あた)えるだけですね。


 ニクスに教(おし)えて貰(もら)った時(とき)は、

 分(わ)かりやすかったですよ。


 話(はなし)に王(おう)様(さま)の服(ふく)を着(き)せるとか、

 説(せつ)明(めい)に物(もの)語(がたり)がありますから。」



最(さい)年(ねん)少(しょう)のレナタには

魂(たましい)の概(がい)念(ねん)を理(り)解(かい)するのはまだ難(むずか)しい。



「なるほどね。


 レナタは仕(し)組(く)みを学(まな)ぶより、

 仕(し)組(く)みの過(か)程(てい)を学(まな)べば

 身(み)に付(つ)く感(かん)じがするね。


 ニクスがレナタに教(おし)えてあげたら?」



レナタが期(き)待(たい)の表(ひょう)情(じょう)を見(み)せたけれど、

わたしはスーのように教(おし)えられるほどの

知(ち)識(しき)を持(も)ってはいない。



「計(けい)算(さん)関(かん)係(けい)はわたしもちょっと…。


 本(ほん)に書(か)かれている法(ほう)則(そく)や定(てい)理(り)って、

 意(い)味(み)が省(はぶ)かれて覚(おぼ)えることばかりで、

 使(つか)いどころを先(さき)に考(かんが)える必(ひつ)要(よう)があるから。


 連(れん)続(ぞく)体(たい)力(りき)学(がく)は難(むずか)しくて――。」



「えぇ…?」



「そんな勉(べん)強(きょう)してたの?」



レナタだけではなくスーまで驚(おどろ)いたので、

わたしは首(くび)を横(よこ)に振(ふ)った。



同(おな)じ年(ねん)齢(れい)の子(こ)が勉(べん)強(きょう)する内(ない)容(よう)を知(し)らず、

誰(だれ)とも比(ひ)較(かく)できずに困(こん)惑(わく)した。



準(じゅん)備(び)室(しつ)で、二人(ふたり)を前(まえ)にして

肌(はだ)着(ぎ)も股(また)布(ぬの)も脱(ぬ)いで裸(はだか)になる。



自(じ)分(ぶん)の痩(や)せた身体(からだ)を恥(は)じるのも、

なんだかいまさらに思(おも)えた。



西(にし)の傭(よう)兵(へい)に掴(つか)まれて、

濃(こ)い紫(むらさき)色(いろ)になっていた右(みぎ)腕(うで)の痣(あざ)は、

薄(うす)くなって黄(き)色(いろ)に変(か)わっている。



大(おお)きな浴(よく)槽(そう)に大(おお)勢(ぜい)で入(はい)るのは

初(はじ)めての経(けい)験(けん)だった。



浴(よく)場(じょう)内(ない)に入(はい)って体(たい)温(おん)が上(あ)がると、

体(たい)内(ない)の熱(ねつ)を外(そと)に排(はい)出(しゅつ)する為(ため)に

血(けっ)管(かん)が拡(かく)張(ちょう)される。



わたしはまた鼻(はな)血(ぢ)を出(だ)し、

お湯(ゆ)を汚(よご)してしまわないか心(しん)配(ぱい)した。



花(はな)びら以(い)外(がい)で、浴(よく)槽(そう)のお湯(ゆ)が

赤(あか)く染(そ)まる光(こう)景(けい)を想(そう)像(ぞう)してみる。



首(くび)や太(ふと)腿(もも)などの太(ふと)い血(けっ)管(かん)が切(き)れない限(かぎ)り、

鼻(はな)血(ぢ)や経(けい)血(けつ)程(てい)度(ど)で大(たい)量(りょう)のお湯(ゆ)が

染(そ)まるはずはない。



初(しょ)経(けい)が来(き)ても水(すい)圧(あつ)で多(た)少(しょう)は抑(おさ)えられるし、

鼻(はな)血(ぢ)ならば顔(かお)を浴(よく)槽(そう)の外(そと)に出(だ)せば良(よ)い。



浴(よく)槽(そう)に入(はい)る前(まえ)に、

考(かん)えを整(せい)理(り)しながら身体(からだ)の汚(よご)れを落(お)とす。



花(はな)汲(く)みをやったフランジはみんな、

石(せっ)鹸(けん)とスポンジで肌(はだ)を赤(あか)くして

傷(いた)めるほど擦(こす)っていた。



挿絵(By みてみん)



互(たが)いに体(たい)臭(しゅう)を確(かく)認(にん)しあっても、

標(ひょう)準(じゅん)になる嗅(きゅう)覚(かく)が歪(ゆが)んでいるので首(くび)を捻(ひね)る。



「ニクスはお風(ふ)呂(ろ)が嫌(きら)いなんですか?」



「ううん?

 身体(からだ)は洗(あら)うよ?」



こうして自(じ)由(ゆう)に身体(からだ)を洗(あら)える状(じょう)況(きょう)は、

乳(う)母(ば)達(たち)に手(て)荒(あら)く洗(あら)われるより良(い)い。



「えっと、嬉(うれ)しくないんですか?」



「この館(やかた)に来(き)た日(ひ)に入(はい)ったから

 もう慣(な)れてるんだよ。」



「他(ほか)の子(こ)はみんな、

 お風(ふ)呂(ろ)が一(いち)番(ばん)好(す)き

 って言(い)うんですよ。


 美(び)人(じん)に近(ちか)付(づ)けるからって。」



「お風(ふ)呂(ろ)が嫌(きら)いな子(こ)は居(い)ないよね。


 身体(からだ)を綺(き)麗(れい)にすればドレイプになれる、

 なんて思(おも)ってる子(こ)も多(おお)いと思(おも)う。


 なによりオーナーは汚(きたな)い姿(すがた)を嫌(きら)うからね。


 ニクス、また垢(あか)擦(す)りしてあげようか?」



スーがあの肌(はだ)掻(か)きの棒(ぼう)を持(も)ってきた。



挿絵(By みてみん)



「えっ?

 また痛(いた)くするの?」



「あれ? 痛(いた)かった?」



拒(きょ)絶(ぜつ)の意(い)味(み)で、力(ちから)を込(こ)めて頷(うなず)いた。



「肌(はだ)掻(か)き器(き)は大人(おとな)が使(つか)うものですからね。


 あぁ、きっとスーのせいでニクスは、

 お風(ふ)呂(ろ)が嬉(うれ)しくないんですね。」



「なんだかそれって

 私(わたし)が悪(わる)いことをしたみたいだね。


 いや、したのかもしれないね。」



垢(あか)擦(す)りは痛(いた)いし、擽(くすぐ)ったい。



身体(からだ)の動(うご)きを抑(おさ)えようとしても、

刺(し)激(げき)に身体(からだ)が反(はん)応(のう)してしまう。



「今日(きょう)もまた、サンサの倉(そう)庫(こ)に

 ガラクタが増(ふ)えてしまいましたね。」



「オーナーが見(み)たら、

 なんて言(い)うのか楽(たの)しみだね。」



レナタとスーが言(い)って笑(わら)う。



グルグスの力(ちから)任(まか)せの往(おう)復(ふく)ポンプは、

壊(こわ)れて穴(あな)の中(なか)に落(お)ちてしまった。



不(ふ)要(よう)物(ぶつ)の穴(あな)に沈(しず)んだポンプの管(くだ)を、

フランジがディッパーで挟(はさ)んで

掬(すく)い上(あ)げる無(む)駄(だ)な仕(し)事(ごと)が増(ふ)えた。



わたしはもうディッパーも握(にぎ)っていられず、

近(ちか)くで座(すわ)って休(やす)んでいるあいだに、

花(はな)汲(く)みの仕(し)事(ごと)が終(お)わった。



「ねぇ、レナタ。

 花(はな)汲(く)みのバケツはどうするの?


 下(した)働(ばたら)き…従(じゅう)業(ぎょう)員(いん)がどこかに運(はこ)ぶの?」



バケツに集(あつ)めた不(ふ)要(よう)物(ぶつ)は蓋(ふた)をして、

汚(よご)れた道(どう)具(ぐ)と共(とも)に放(ほう)置(ち)されていた。



「あとで清(せい)浄(じょう)屋(や)が回(かい)収(しゅう)に来(き)ますよ。」



「マルフ総(そう)督(とく)の会(かい)社(しゃ)だよ。」



「えっ? 総(そう)督(とく)が?

 下(か)流(りゅう)階(かい)級(きゅう)の仕(し)事(ごと)を?」



「マルフ総(そう)督(とく)は下(か)流(りゅう)の無(む)産(さん)街(がい)の出(しゅっ)身(しん)で、

 エルテルに売(う)る堆(たい)肥(ひ)を作(つく)ってるんだよ。


 貴(き)族(ぞく)化(か)商(しょう)人(にん)だね。


 総(そう)督(とく)になったのはもう3年(ねん)も前(まえ)だけど、

 サンサがこの街(まち)に来(く)る以(い)前(ぜん)から、

 いまもずっとやってる会(かい)社(しゃ)だね。」



「そんなひとでも、

 分(ぶん)水(すい)街(がい)の総(そう)督(とく)になれるんだ…。」



人(ひと)肌(はだ)程(てい)度(ど)の心地(ここち)の良(よ)い温(おん)度(ど)のお湯(ゆ)に

包(つつ)まれながら、驚(おどろ)きが湧(わ)く。



ネルタを離(はな)れ、

防(ぼう)壁(へき)と山(さん)脈(みゃく)に囲(かこ)まれた要(よう)塞(さい)都(と)市(し)。



丘(おか)の上(うえ)に建(た)つこの館(やかた)には、

孤(こ)児(じ)の為(ため)の勉(べん)強(きょう)会(かい)が開(ひら)かれる。



――勉(べん)強(きょう)会(かい)があるなんて学(がっ)校(こう)みたいだわ…。



それを思(おも)うと期(き)待(たい)に胸(むね)が高(たか)鳴(な)った。



わたしは物(もの)心(ごころ)がつく以(い)前(ぜん)から、

ネルタの塔(とう)に独(ひと)りで暮(く)らしていた。



学(がっ)校(こう)に行(い)った経(けい)験(けん)は一(いち)度(ど)もなく、

乳(う)母(ば)達(たち)は居(い)ても家(か)庭(てい)教(きょう)師(し)は居(い)ない。



塔(とう)の中(なか)には書(しょ)庫(こ)があっても

塔(とう)で働(はたら)く乳(う)母(ば)達(たち)は文(も)字(じ)も読(よ)めず、

彼(かの)女(じょ)達(たち)が本(ほん)に触(ふ)れることは

許(ゆる)されなかった。



彼(かの)女(じょ)達(たち)の働(はたら)きもあって、

わたしは毎(まい)日(にち)のように風(ふ)呂(ろ)に入(はい)った。



彼(かの)女(じょ)達(たち)が近(ちか)くの小(お)川(がわ)から汲(く)んできた水(みず)で、

わたしだけがタライの風(ふ)呂(ろ)に入(い)れられる。



夏(なつ)には湧(わ)く汗(あせ)を服(ふく)に染(し)み込(こ)ませ、

冬(ふゆ)には雪(ゆき)の降(ふ)る中(なか)で凍(こご)えながら

わたしの為(ため)だけにお湯(ゆ)を沸(わ)かす。



乳(う)母(ば)達(たち)の赤(あか)く腫(は)れた手(て)を見(み)る度(たび)に

居(い)心地(ごこち)の悪(わる)さがあった。



彼(かの)女(じょ)達(たち)は粉(こな)挽(ひ)きを行(おこな)っていたけれど、

川(かわ)には石(いし)臼(うす)を回(まわ)す為(ため)の水(すい)車(しゃ)が無(な)かった。



わたしは塔(とう)で長(なが)く退(たい)屈(くつ)な時(じ)間(かん)を過(す)ごして

色(いろ)々(いろ)な本(ほん)を読(よ)んだ。



大人(おとな)の使(つか)う言(こと)葉(ば)があって、

それに相(そう)当(とう)する文(も)字(じ)を書(か)けば、

なんとなく読(よ)めるようになっていた。



乳(う)母(ば)達(たち)の会(かい)話(わ)は、言(こと)葉(ば)の教(きょう)材(ざい)になった。



ただ、幼(おさな)かったわたしには、

良(よ)し悪(あ)しの分(ふん)別(べつ)がつかなかった。



真似(まね)をして良(よ)い意(い)味(み)の単(たん)語(ご)で喋(しゃべ)っても、

言(い)い回(まわ)しから意(い)味(み)を理(り)解(かい)していないので、

発(はつ)言(げん)を叱(しか)られ、叩(たた)かれる時(とき)もあった。



理(り)由(ゆう)のわからない暴(ぼう)力(りょく)を避(さ)け、

乳(う)母(ば)達(たち)と会(かい)話(わ)を試(こころ)みることは諦(あきら)めた。



わたしが暮(く)らしていた塔(とう)には、

なぜだか本(ほん)がいくつもあった。



いつの頃(ころ)からか、本(ほん)は日(ひ)毎(ごと)に増(ふ)えて、

本(ほん)の量(りょう)が増(ふ)えれば本(ほん)棚(だな)も組(く)み立(た)てられた。



本(ほん)を持(も)ち込(こ)むひとは

ゴレムという名(な)の司(し)書(しょ)官(かん)で、

地(ち)位(い)の高(たか)い初(しょ)老(ろう)の男(おとこ)だった。



挿絵(By みてみん)



司(し)書(しょ)官(かん)の仕(し)事(ごと)は、

城(しろ)にある本(ほん)を読(よ)み、写(うつ)し、管(かん)理(り)する。



水(みず)辺(べ)草(そう)と杯(さかづき)でサイフォンの実(じっ)験(けん)を行(おこな)い、

床(ゆか)に水(みず)を零(こぼ)したわたしは乳(う)母(ば)達(たち)に叱(しっ)責(せき)され、

彼(かの)女(じょ)達(たち)を止(と)めたのがゴレムだった。



彼(かれ)は塔(とう)に暮(く)らすわたしの理(り)解(かい)者(しゃ)になった。



塔(とう)に来(く)る度(たび)にわたしに会(あ)い、

何(なん)冊(さつ)かの本(ほん)を空(あ)き部屋(べや)に持(も)ち込(こ)んで、

そこが書(しょ)室(しつ)へと変(か)わった。



わたしの住(す)んでいた塔(とう)は風(かぜ)通(とお)しが良(よ)くて、

本(ほん)の隠(かく)し場(ば)所(しょ)に適(てき)していた。



持(も)ち込(こ)まれる本(ほん)は誰(だれ)も読(よ)まなくなった本(ほん)で、

それはつまりわたししか読(よ)まない本(ほん)になる。



ゴレムにはわたしの年(ねん)齢(れい)に近(ちか)い

孫(まご)が居(い)るらしく、乳(う)母(ば)達(たち)とは違(ちが)って

よく話(はな)し相(あい)手(て)になってくれた。



わたしは彼(かれ)から難(むずか)しい書(しょ)体(たい)や、

古(こ)代(だい)の神(しん)話(わ)、ネルタの定(てい)型(けい)表(ひょう)現(げん)を習(なら)った。



いつしかゴレムはなにも教(おし)えてくれず、

やがて彼(かれ)も姿(すがた)を見(み)せなくなった。



わたしはまた、塔(とう)で独(ひと)りになった。



去(きょ)年(ねん)の冬(ふゆ)を前(まえ)にして

追(お)い出(だ)される形(かたち)で塔(とう)を出(で)た時(とき)、

同(どう)時(じ)に本(ほん)も本(ほん)棚(だな)も全(すべ)て燃(も)やされてしまった。



カヴァの軍(ぐん)が攻(せ)めてきたせいで、

わたしはベッド代(が)わりの寝(ね)椅(い)子(す)と一(いっ)緒(しょ)に

艀(はしけ)に乗(の)せられ、湖(みずうみ)を渡(わた)った。



塔(とう)を追(お)い出(だ)されて、城(しろ)の北(きた)にある

下(げ)女(じょ)達(たち)が住(す)む月(つき)の館(やかた)という別(べっ)館(かん)の、

地(ち)下(か)の食(しょく)料(りょう)貯(ちょ)蔵(ぞう)室(しつ)へと移(い)住(じゅう)を強(し)いられた。



食(しょく)料(りょう)貯(ちょ)蔵(ぞう)室(しつ)には誰(だれ)も本(ほん)を持(も)ち込(こ)まず、

食(しょく)材(ざい)ではない本(ほん)も当(とう)然(ぜん)、存(そん)在(ざい)し無(な)い。



乳(う)母(ば)達(たち)から風(ふ)呂(ろ)に入(い)れられることも、

話(はな)し相(あい)手(て)さえも居(い)ない。



ネルタとカヴァの戦(せん)争(そう)が終(お)わり、

わたし達(たち)は地(ち)下(か)から連(つ)れ出(だ)された。



――それから、あの…、地(ち)下(か)の檻(おり)に…。



「ニクス!」スーが叫(さけ)び、呼(よ)び掛(か)けた。



「わっ! っぷ!」



気(き)付(づ)けばわたしはお風(ふ)呂(ろ)で溺(おぼ)れかけていた。



飲(の)んだお湯(ゆ)を浴(よく)槽(そう)の外(そと)に吐(は)き、

それと共(とも)に鼻(はな)水(みず)が流(なが)れ出(で)る。



鼻(はな)血(ぢ)の塊(かたまり)も混(ま)ざって出(で)てきた。



「お風(ふ)呂(ろ)で寝(ね)たら危(あぶ)ないよ。」



「寝(ね)てしまうほど疲(つか)れてたんですね。」



「うぅ…。ごめん…。ふぅ…。」



花(はな)びらの浮(う)かぶ大(おお)きな風(ふ)呂(ろ)で

昔(むかし)の夢(ゆめ)を見(み)た。



独(ひと)りだけの塔(とう)の中(なか)、

子(こ)供(ども)用(よう)の浴(よく)槽(そう)だったタライ、

わたしだけの本(ほん)棚(だな)はもう無(な)い。



こんな館(やかた)に居(い)ることが、

わたしにとっては夢(ゆめ)に思(おも)える。



――匂(にお)いの記(き)憶(おく)。



お湯(ゆ)に浮(う)かぶ仄(ほの)かな花(はな)の香(かお)りが、

わたしの記(き)憶(おく)を混(こん)濁(だく)させた。




 ◆ 第(だい)3章(しょう) 『花(か)弁(べん)の湯(ゆ)』 おわり

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