この館は外界から隔離された場所。
赤土の丘に建つ、白亜の館。
館を囲う塀の先は、鉄の棘に覆われている。
館の中に用意された娼婦の部屋には、
金の飾り紐の付いた分厚い遮光カーテンが、
明るい昼であっても夜の闇で覆い隠す。

男女が肌を重ねる為の娼館。
それが『夜の館』の姿だった。
わたしの手には精液の入った山羊の膀胱が、
縫い付けられた紐で吊り下がっている。
精液がどんな物質の液体か、
わたしは見た経験がない。
精液は尿と同じく、
男の尿道から排出される。
鳥類学でいう総排泄腔と同様に、
汚いものという所感があった。
それでも見たいと思う欲が湧き、
放棄したくてもすぐに手放せない。
――拾い集める仕事を任されたのだから、
中身の確認も必要かもしれない。
心の中で自分を説得すると、
山羊の膀胱に縫われた赤い紐を、
わたしは両手で掴んでいた。
するとブラシを持って浴槽に入ったスーが
わたしに声を掛けてきた。
「中身は確認する必要ないよ。
でも、零さないように
紐を持って縛ってね。」
――これもニースだわ。
理性が欲に負けたわたしを、
スーは愚かに思ったに違いない。
「春に入ったウラって子が、
風邪を拗らせちゃったから。」
「そのお手伝いでしょ。」
説明されなくても、
わたしも事情を聞いている。
わたしが不満を見せていたせいで、
スーに同じことを言わせてしまった。
「メノーもレナタも大変だからね。」
二人は病院から知らせを受けて、
急いで病院へと向かった。
サンサから後の仕事を押し付けられた
スーとわたしは、こうして
メノーの部屋の掃除にやってきた。
娼館には当然、娼婦が居る。
娼婦が居なければ、その館は娼館ではない。
――ドレイプを娼婦とは呼ばないのに、
仕事内容は娼館と同じなのよね。
夜の館では娼婦をドレイプと呼び、
その手伝い役をフランジと呼ぶ。
ドレイプとフランジは、
カーテンの組み合わせ。
ドレイプはカーテンの布が作る皺で、
フランジはその飾り紐を意味している。
布の皺と飾り紐。
どちらかが欠けてしまっては、
カーテンは機能と品格を失い、
ただの張られた布になってしまう。
陽の光を拒む『夜の館』独自の役職名で、
この街では広く知られているらしい。
――分水街は国でなければ
どこかの領地でもないなんて。
――この街こそ、ニースだわ…。
わたしは自分の知識にある、
『おかしなこと』を確認して頷いた。
メノーは1番部屋に居る人気の娼婦、
ドレイプで、彼女はサンサと仲が良くて、
新入りのわたしも気にかけて貰った。
この部屋の主であり、モザイク画の人物。
彼女の手伝い役、フランジのレナタは
この館で最年少なのに実直で、
館の仕事を知り尽くしている。
館での日々の仕事は同室のスーよりも、
彼女に教わったことの方が多い。
豊かな銀髪が羊毛にも見える10歳の少女。
わたしより年下で、こんな館に居る
彼女の手助けができるのであれば、
可能な限り手伝いたいとは思っている。
でも、わたしにできることは少ない。
床やベッドに落ちている袋を拾った。
床に散った花びらを避け、
目的の袋を探していると、
聞き覚えのある歌が耳を撫でる。
浴槽を擦るブラシの音で、
掻き消される鼻歌。
スーの姿は浴槽の中に収まって隠れている。
「ねぇスー。
それってなんて歌?」
ベッドの上に膝立ててわたしは訊ねると、
クッションの脇にも袋が落ちている。
「んー。流れ星の歌だよ。」
初めて会った日も、彼女はこの詩を
気持ちよく歌っていた。
それが鼻歌だったので気付かなかった。
この街は歌に満ちている。
「歌いましょうか? お姫様。」
「うん。歌って。聴きたい。」
スーが呼んで微笑を浮かべるけれど、
わたしは気にはしない。
「期待されると照れるなぁ。」
この袋を一人で拾うだけの仕事は、
退屈に近いものがある。
浴槽の中でブラシを手にしたまま、
スーは僅かに顎を上げ、喉を開く。
「夜空の蕾、花咲く日。
いくら待っても朝は来ず、
燦然の星が流れ、大地に降りる。
わたしは海に漂うばかり。
わたしは海に漂うばかり。」
夜空に浮かぶ星々の中に、
軌跡を描く流れ星。
一瞬の光跡を作るその姿をスーは歌い、
ガラス窓から光の差し込むこの部屋で、
わたしは夜空の光景を思い浮かべた。
◆
拾い集めて手にした内臓の袋、膀胱。
「ねぇ、これ。集めてどうするの?」
仕事に夢中のスーの代わりに、
部屋に入ってきた黒猫のアルが、
わたしを見てミャオと鳴いた。

銀糸の飾緒の首輪に、
月の色をした目がわたしを見上げる。
黒色の体毛に覆われた細い身体。
わたしの足元に近寄った
かと思えば長い尻尾を撓らせ、
足を叩いて部屋の入り口を振り返る。
「ニクス、仕事は順調?」
アルが喋ったわけではない。
猫は喋ったりしない。
わたしは口布を外して首元に落とし、
声の主を見た。
扉の外から真黒な髪のサンサが、
左半身を見せて部屋を覗き見る。

光を吸い込む黒髪は頭を傾けただけで、
顔の半分が髪に隠れてしまう。
黒のチュニックを着た少女の外見。
フリルの首元の奥には、
雪のように白い肌が見える。
胸元に銀糸の飾緒を渡らせて、
彼女は年若く見えてもこの館の娼婦――。
――ドレイプ。
「サンサ。なにしに来たの?」
「二人を手伝いに来たのよ。」
「また?」
わたしが不満を顕わにしたにも関わらず、
彼女は切れ長の目を細めて笑う。
わたしの経験上、良い予感はしない。
「重かったでしょう、グルグス。」
彼女の呼び掛けに応じて扉の近くに寄ると、
彼女の後ろには濃い肌の大男が立っていた。

着ているキャシュクが張り裂けかけるほど
盛り上がった筋肉をしていて、
剣や槍も防げそうな重圧感がある。
グルグスと呼ばれた男は、
両脇に抱えていた機材と布袋を
外廊下の床に置いた。
「ありがと。
お尻は外に向けて。
助かったわ、グルグス。」
「お安い御用で。」
大男が白い歯を見せて笑顔を作る。
褐色の髪を短く刈ったこの男は、
サンサを相手に訛った喋り方をする。
「酔っ払いはいまなにしてるの?
また飲みながら独りで札遊び?」
「ハーフガン卿なら、
新入りの訓練しとるよ。」
「ウントね。
グルグスは訓練に参加しないの?
これからまた病院なのね。」
「だ。近頃、物騒だからだ。」
グルグスの喋り方は大陸の訛りがある。
自分よりも小柄な女に頭を下げて、
彼は道具を置いて去ってしまった。
夜の館の娼婦、ドレイプを守るのが
彼ら護衛の仕事。
けれども護衛のグルグスは、
館内の荷運びといった
肉体労働者に近い下働きも行う。
女を相手に、大男が頭を下げていた。
――これもニース。
「え? なに?」
アルが後ろ足で立ち上がり、
前足でわたしの右手に触れた。
「これは食べ物ではないのよ。たぶん。」
この中身はきっと猫の餌ではない。
「アル。」サンサが猫の名前を呼んだ。
アルはわたしを見つめてから、
サンサに叱られる前に察したのか、
興味を失って音のする浴槽を見る。
アルは人間の言葉によく耳を傾け、
理解しているかのような行動をする。
細い身体で浴槽の縁に駆け上がり、
ブラシで掃除をしている
スーの背中に跳び乗った。
「わっ! なに? アルっ!
あれ、サンサも来てたの。」
浴槽のブラシ掛けに夢中だったスーが
キャシュクを濡らして立ち上がり、
アルを肩に乗せた。
アルはスーの肩から落ちないように、
彼女の金色の頭に前足を乗せて抱える。
アルがスーの頭に乗ったことで、
調和が取れているように見えた。
「ニクス、笑った?」
「ううん。
サンサ、手伝った方が良いの?」
わたしは笑いを堪えて、
サンサを見下ろして立ち尽くす。
ここへ来てすぐの頃、
この館の庭で彼女達に笑われた。
サンサはグルグスの持ってきた
布袋の中身を床に広げて、
なにか大掛かりな機材を並べている。
彼女は床に座り、
右肩には濃い紫紺の飾り布を掛けている。
その先にはあるはずの腕が彼女には無い。
右腕の無いサンサが持てないような、
屈曲した棒の伸びた大型の歯車――。
「あー触ってはダメよっ。
これは心臓部なのよ。」
言って彼女はその歯車を
足を使って自分の方に引き寄せると、
片手だけで持ち上げて機材に取り付けた。
彼女は鋭い目つきで
わたしを見上げた。
「サンサの趣味なんだから、
放って置いていいよ。
ガラクタ収集は。」
「ガラクタ…。」
「ガラクタではないわよっ。」
わたし達の会話をサンサは否定する。
「尻尾を踏んだね。
ニクスはガラクタになる方に賭ける?」
「それって賭けになるの?」
「偉大なる発明なんだから、
ガラクタにはならないわよっ。」
――ニースだわ…。
わたしは彼女の真黒な髪のあいだから、
真白な首筋を見つめた。
――わたしはこのひとに買われたのよね。
◆
サンサは持ち運ばれた機材を、
肩や顎で挟んで組み立てていく。
革の紐で編まれたサンダルを履いたまま、
足の指でも器用に道具を摘んで寄せる。
「ニクス。
それ、なにか知ってる?」
彼女はわたしが手にしている袋を見た。
「知ってる。膀胱と精液だって。」
含み笑いのスーがなにか言いかけたのを、
わたしは首を横に振って制止する。
「構成を訊ねたわけではなくて、
用途を知っているのかを聞いたのよ。
それは避妊具よ。
ちょっと高いけれどね。
まだ使い道があるから捨ててはダメよ。」
「ゴミ…ではないんだ。」
「ゴミではないとしたら、
なにに使うものか分かる?」
サンサは銀の目を細めて言った。
白い肌に、薄い唇。
口の端からやや下側に、
小さな黒い点のホクロが見える。
彼女の作業を眺めながら、
精液の用途に考えを巡らせた。
――普段は捨てるものなら、
畑に撒く堆肥になるのかしら。
――でも、これだけだと、
畑には足りないわよね。
――水を使って希釈でもするのかしら?
精液を希釈して撒いても、
その効果は古代に否定されて
堆肥にもならない。
本の知識で考えつく答えは、
他には一つしかなかった。
「赤子を産みたいひとに売る?
売れるの?」
短絡的に言ったのですぐ疑問が浮かぶ。
サンサは作業を続けて頷いた。
「それなら売れるわね。
ここに来るお客さんは身分や地位、
教養と資産を持ってるもの。」
サンサはなぜか、
わたしの半端な考えを汲み取った。
「『この精子を使えば、賢くて、
序列のある赤子が産まれる。』
夜の館から保証書も付けましょうか。
高貴な血筋の子を産めるとなれば、
愚かな大衆は資産になると考えて
高値で買うでしょうね。
保証書だけでも商売になるわ。
狡猾な考えは商才を感じさせるわね。」
「わたしはそこまで言ってない。
それって、相手を騙して売るんでしょ?」
責めるように言うと、
サンサは首を横に振った。
「精液、精子ってそのままにしても
すぐ使い物にならなくなるのよ。」
「死ぬんだ…。」
「生物の死とは違うけれど、意味は同じね。
肉眼で見ても分からないでしょう。
この場合、生殖細胞は
小さな生物と定義できるのかしら?」
精液の仕組みは詳しくない。
サンサの質問にスーが首を横に振ると、
頭の上のアルがミャァと鳴いて叱る。
スーが説明をしてくれた。
「鮮度が維持できても、
妊娠が分かるまでに
数十日は掛かるよね。
産まれるまで1年近くも必要だし。
会話ができる年齢まで数年、
成年になるまで16年。
父親の判別なんて保証できないし、
教育環境が整ってないと
子供には知識が身につかないもんね。
成果の怪しい品物となると
騙せるかも疑問だね。」
「館の信用を損ねる商売だわ。」
「…確かに、ね。」
わたしの案は穴だらけ。
騙して売り逃げするつもりでなければ、
商売として成立しない欠陥を指摘された。
「でも近い商売はしてるよね。」とスー。
「人聞きが悪いわね。」
「悪いことしてるんだ。」
スーとサンサを交互に見た。
「騙してない…と思うわ。」
サンサの返答は曖昧になる。
「集めた精液は、
館に出入りしてる商人に
売ってるんだって。
膀胱が買えるくらいの高いお値段。
使用済みの避妊具を買った商人が、
中身を取り出して乾燥させるんだよ。」
「乾燥…?
液体なんて乾燥させたら…。」
水は大気に晒して乾かせば、
空気に水分を吸われて霧散する。
「精液を干したり焼いたりして、
余計な水分を失わせて固体にするのよ。
腐敗を防止する目的と、
蛋白質を残す為ね。
蛋白質って分かるかしら?」
「お肉や豆と同じ? …え、食べるの?」
この内臓袋に入った中身の液体が、
お肉や豆と同等に売れるものと言われても、
すぐに理解が追いつかない。
「それを薬として売るのよ。
美容と健康の為の。
天秤を使って重さで換算すれば、
肉や豆よりも高い値段がつくわね。」
食肉や豆類、薬も買ったことがないので、
サンサの言う価値は想像がつかない。
「栄養満点、血行促進。
慢性病予防に冷え性改善。
疫病退散、不老長寿、
家内安全、商売繁盛。
奸佞邪知を退ける効果あり。」
サンサの饒舌な語り口が怪しさを増す。
「胡乱になってきた。」
「家内安全と商売繁盛は関係ないもんね。」
スーも言って今度は頷くと、
頭の上のアルが再びミャァと鳴いて叱った。
「飲めば子宝に恵まれる、
とかもあるわね。」
蛋白質を口にしても、
胃腸で分解されて受精はしない。
人体が生成するものは、
代謝によって排出された垢と同じで、
異食と呼ばれて忌避されている。
子供のわたしが知らないだけの可能性も、
完全には否定できない。
異食と同様に共食いなどの悪食は、
人間が社会を構築する上で効率が悪く、
倫理などの理由に法律で禁じられている。
袋をアルの鼻先に向けると、
わたしの手を前足で踏みつけた。
「…飲む物なの?」
「味を確かめたいのかしら?」
「嫌っ!
だって!
これ、尿と同じ場所から出るんだよっ?
下品は禁止っ!」
わたしはこの館の決まりを述べる。
「でも鶏の卵だって
似たようなものだよね。
総排泄腔から出てくるんだもん。」
「う…。でも卵は殻があるから…。」
「良い薬はどれも苦いものよ。」
「苦いんだ…。」
「砂糖や塩、蜂蜜を混ぜて、
継続的に売るのも良いわね。
有り触れた精子でもひと手間加えて、
薬と呼び名を変えて売ってしまうの。
そこが商人の逞しいところであるわね。」
「古代からある偽薬の一つだね。」
――偽薬って…。
「本当の薬ではないの?」
「身体になにか影響を与えれば、
それは薬とも毒とも言えるわね。」
「薬の代用品として、
相手を信じさせる手法だよ。」
「やっぱり騙してるんだっ。」
二人に翻弄され、
わたしは語気を強める。
「話が逸れたわね。
誰かが捨てるものにも、
価値はあるという話よ。」
サンサは口角を上げて、
怪しく笑みを浮かべた。
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