鼻腔には、檻の臭気が張りついていた。
日が経てば臭気は薄まったけれど、
地下の牢檻に戻りたいという思いは
日に日に濃くなっていく。
そんなわたしの願望に関係なく、
馬車は何日も掛けて東へと進んでいる。
わたしは身体を起こせるようになって、
食事も固形物が消化できた。
馬車での移動や昼の光にも目が慣れて、
二人の女の顔も見分けがついた。
胸甲をした濃い肌の小柄な女は
この二人の行動を監視するだけで、
欠伸を堪えながら剣の鞘を拭くなど、
一言も喋らずに退屈にしている。
二人の娘の名前は、
フレヤとレイヤという。
根元まで綺麗な金色の髪に、
薄い青と緑の混ざった明るい碧色の瞳。
彫りのある大陸系の顔で、
耳は逆三角形になっている。
姉のフレヤは肌が白くて繊細で、
妹のレイヤは日に焼けていて、
二人の所作には気品を感じる。
わたしは二人から『ピッピ』と呼ばれた。
小鳥の囀りを表す語で、
わたしはそんな名前ではないのに、
この二人に呼ばれて顔を向けた。
顎を引いて目を見れば同意を示し、
両の唇を軽く噛んで目を逸らせば
拒否を示す。
異国の二人とは返事の方法が異なるので、
わたしはこの動作を真似した。
細い身体に豊かな胸の女達は、
柔らかく厚い生地のチュニックを着ている。
本来ならば肩に掛ける飾り布を、
首に巻いて大陸人らしい着飾りをする。
やや日焼けした肌の妹のレイヤが、
獣の男の腕を抱き寄せる。
姉のフレヤは
それが気に入らない様子だった。
大陸の言葉でなにやら罵声を浴びせ、
獣の男からレイヤを引き剥がそうとする。
――二人は奴隷…では無いのよね?
わたしも、彼女達と同じく
新しいチュニックを着せられた。
彼女達ほど生地は良くないけれど、
裾は足を覆い、襟は綺麗に処理されている。
首は痛くならないし、
両脇は隙間なく縫われて
冷たい風が入り込まない。
賑やかな馬車の中で、
過ぎていく景色を眺めた。
枯れた畑と木々が遠く、小さくなっていく。
村落をいくつか越えて移動を続けていると、
巨大な壁が視界を覆う。
川沿いの道を進み、防壁にある
巨大な曲線構造の門を通ると
眩い光が目に飛び込んできた。
露天商の集まる広場。
野菜を売る行商人。
様々な色の布や花が売られている。
染色された布を店先に飾り、
歩くひとは色鮮やかな飾り布を肩に掛ける。
多彩な色が生み出す街の景色。
ひとと共に色が流れて目が眩む。
塔や城ほど高い建物のあいだには、
馬車が擦れ違う広い車道があって、
車は何台も、何十台も忙しく行き交う。
フレヤとレイヤが車内の紐を解いて、
布の窓から建物を見るので、
わたしも流れ行く空を眺めた。
――ここはどこの都市かしら…。
馬車は大通りを抜けて橋を渡る。
老馭者が塔を指示し、
獣の男がそれを見上げた。
川と川に挟まれた島に建つ、
六角柱の塔を横切った。
見上げた塔の展望台から
ロープが降りてきて、そこには
白色の帯が吊り下げられる。
天蓋山ほどの雄大さはなくても、
防壁と同じく建造物の大きさと高さに、
わたしは静かに感嘆して見上げた。
買ったばかりの焼き立てのパンが、
塔を見ていたわたしの口から零れ落ちた。
この頃には、揺れる馬車の中での
簡単な食事にも慣れた気がしていた。
『ピッピ。これ。食え。』
溢したパンを、姉のフレヤが
わたしの口に捻り込んでくる。
焼き立てであっても、
落ちたものを食べる習慣はない。
塔から見下ろす食事の経験はあっても、
塔を見上げる食事の経験はなかった。
口に入れられたパンを
不満に思って食べるわたしを見て、
フレヤは満足して顎を引いた。
このやり取りを見た妹のレイヤが、
姉の真似をして自分のパンを
わたしの口に捻り込んできた。
異国から来た彼女達と、
言葉を交わす必要はなかった。
寝たきりのわたしを二人が介助をしてくれ、
穏やかな移動にも慣れてきた。
馬車は街の中の島を渡り、
また橋と川を渡れば景色は変わって、
緑が豊かで高い塀の並ぶ邸宅地に出た。
坂を上りきると、馬車が広場に止まる。
広場は城の庭園で催されるという、
生誕祭のように賑やかだった。
周囲にはミュームの果樹の
白い花が枝を覆うほどに咲き乱れて、
仄かに甘い香りを漂わせている。

花を酒の共にして木登りを行う者、
絨毯を広げて酒宴を行う者達が居る。
男が大声で歌い、踊る女を誘う。
中老の肥満男が絨毯の上で横臥して、
女達から与えられた塩漬け肉を、
雛鳥のように求めて頬張る。

笛を咥えて鳴らす男と、棒を握り締めて
股に挟んだ太鼓を打つ女。
男女共に頭巾で髪を軽く覆い、
薄い宝飾巾で鼻口を隠す。
頭巾や宝飾巾は宝石や装飾品を運ぶ際に
擦れ瑕から品物を守る、タオルと同じ
パイル生地の布切れが由来とされる。
厚いパイル生地以外に、
薄く頬まで透けるチュール生地も
宝飾巾と呼ばれ、使われている。
『ハーフガンは夢を見る。
酒樽抱いて宝の夢。』
陽気な光景を見ても、
フレヤとレイヤは良い顔をしていない。
首に巻いた飾り布で口元を隠して、
怪訝な表情をしている。
『ハーフガンは酒浸り。
今日もちびちび、ぐでんぐでん。』
肌着姿で陽気に踊る男は品がない。
ある女は門前に立つ警備の男に
見つからないように、ミュームの枝を
折ると胸元に飾って自慢する。
またある男は臀部を露出し
木に向かって排泄を始めると、
警備は仲間に呼びかけ
男を叩いて追い出した。
ここは酒宴の為の広場ではなく、
大きな館の敷地だった。
――あれは、甲虫…?

丸が上下に半分と、その中心から下側が、
左右に別れて3分割された図柄の旗。
門の柱には緑の布に白の糸で縫われた、
甲虫の背中らしき繍旗が掲げられる。
1色の布地に白糸で縫われる繍旗は
国や領地、所属を示す目的で掲げ、
質素な図柄には高い技術が求められる。
館の塀の先には鉄の棘が並んでいた。
「来い。歩けるだろ。」
わたしはフレヤとレイヤに
両脇を抱えられて馬車を降り、
獣の男の後ろをついて素足で歩いた。
冷たい水平な石床の上を歩くと、
馬車の揺れが身体に残って
湖上のように揺れた。
まるで歩き方を忘れてしまったのか、
自分の身体とは思えないほど
不思議な感覚に襲われる。
長く馬車に乗って寝ていただけの
わたしの三半規管は弱って、
平衡感覚が狂っていた。
フレヤとレイヤは馬車から降りず、
疑問に思い何度か二人の姿を見た。
馬車の中から手を振って見送られ、
それが二人との別れだと察した。
彼女達がどこから来た何者なのか、
分からないままになってしまった。
わたしは大陸の言葉を探す。
異国の二人に大陸語で別れの挨拶もできず、
足を止めて振り向き、深く頭を下げる。
自分の愚かさと恥ずかしさに耐えられず、
門扉に向かって足早に歩いて逃げた。
邸宅の黒く塗られた門扉に近付く前に、
浮浪者のような服装の中年の酔っ払いが、
わたしの前に立ち塞がる。

花を見て飲んでいる陽気なひと達とは、
様子の異なる酔っ払い。
服は汚れたキャシュクで、飾り布もせず、
口周りの髭も手入れをしていない。
キャシュクは胸毛を見せるほど開け、
短い裾で荒々しい膝が出ていた。
酒と体臭が空気に混ざって漂ってくる。
黒髪の寝癖頭が逆立ち、
深い藍色の目の周りは赤黒く充血して、
わたしを見てはなにかを呻いている。
長い剣を佩いた酔っ払いが相手でも、
獣の男はその顔と体格だけで威嚇する。
この酔っ払いは、真直に立つことが
できないほど酔っている。
二人が睨み合っているあいだに、
別の馬車から二人の女が降りてきた。

頭巾と顔を隠す宝飾巾をした
肉付きの良い大人の女と、銀の髪の少女。
少女は白い陶磁器の瓶を抱えている。
なにも言わずに近付いてきた大人の女は、
艶やかな赤褐色の靴の足底で、
酔って揺れ立つ男の脹脛を蹴った。
男は跪き、地面に突っ伏して倒れてしまう。
そこへ瓶を持ってきた銀髪の少女が、
中の水を男に浴びせた。

頭巾からは赤髪を見せる美しい女は
男をサンダルで踏みつけると、
宝飾巾の奥から体液を嘔吐する。
どちらが酔っ払いか分からない。
『ハーフガンは酔い覚ます。
目覚めて宝はどこへやら。』
近くにいた陽気なひと達が笑い、
騒ぐ酔っ払いを見て大声で歌う。
獣の男とわたしだけが
銀髪の少女に導かれて、
門から邸宅の敷地に入れられた。
まだ白目の青が濃く残る少女。
質の良い黒のチュニック。
皺によって輝く生地が身体を包み、
豊かな銀髪を揺らして前を歩いた。
広い玄関を抜けると、
目の前は建物を南北に繋げる
コンクリートの廊下が伸びる。

中庭に入ってすぐに
少女はハンドベルを手にして、
澄んだ音を庭に響かせると
使用人らしき女達が深く頭を下げる。

肉厚な濃い緑の葉に、真赤な花を咲かせた
カミーリャの木がわたしを出迎えた。
カミーリャは、寒さの厳しい南部の冬でも
鮮やかな花が開く植物として好まれる。
咲いた花は、花首ごと地面に落ちても
その形を保っていた。

東西に緑の敷かれた庭が二つある。

東側の庭園の中央には噴水。
低木と花園の蕾が綻びを見せる。
西側の庭園の北側には、
噴水の代わりに円形のテーブル席。
その席に座って、金髪と黒髪の、
二人の少女が札遊びに興じていた。

奥に座る黒髪の少女が、
冷たい瞳でわたしに目を合わせる。
二人のあいだの席に座っていた黒猫が、
金色の瞳でわたしを見ると、
ミャオと鳴いた。

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