
階段を折り返し、上ってすぐの扉が
今日の目的の部屋になる。
館の東、ドレイプ棟の2階、南東の角。
ここは1番部屋とも呼ばれている。
スーは道具箱を外廊下に置いて、
階段を上ってくるわたしを待っていた。
彼女が部屋の扉を開けると、
湿気を帯びた熱風が
わたしの全身に襲い掛かった。
「わっ!」
熱に目を細め、甘酸っぱい臭気に
鼻を閉じようと顔に力を入れて、
呼吸を止めた。
スーは笑いながら、
湯気で濡れたわたしの前髪を撫でる。
「間仕切り以外に、
湯口の栓も忘れてるね。
クッションを干して、
シーツも変えないとだね。」
仕事内容を呟くスーは
廊下に出てきた湯気を眺め、
彼女は手燭も無しに
真暗な部屋に入った。
「ニクスはそこで待ってて。っと。」
言って彼女はすぐに外廊下に戻ってきた。
「暑ぅ。」
キャシュクが湯気を浴びると水の粒子が、
金の髪の毛と同様に光を受けて
細かく輝いている。
「はぁ、ダメだね。
これだと仕事にならないから、
もう休憩しよ。」
暗い部屋に背中を向けると
彼女は廊下の壁に寄り掛かり、
足を伸ばして座った。
「…良いの?」
床に座る浅ましいこの行為でも、
彼女が行うと品格を損なわない。
「急ぎの頼まれごとでもないからね。」
スーに促され、わたしも彼女の隣に座って
大きく息を吐いた。
スーは、逆三角形をした
大陸系の特徴的な耳をしている。
陽の光が差し込み、外廊下の床石は暖かい。
わたしは脹脛の痛みに堪えながら、
骨の浮いた足を伸ばした。
島の北に位置するこの街の、
夏の訪れは故郷よりも早く感じる。
去年の冬が、
とても長かったせいかもしれない。
廊下の柵の向こうには、
緑の敷かれた二つの庭園がある。
手前に位置する東側は噴水のある庭。
入り口から出口を繋ぐ渡り廊下を挟んで、
西側にはテーブルの置かれた日陰の庭。
2階の外廊下に座って眺めると、
二つの庭園を分断する渡り廊下に遮られて
噴水もテーブルも見えない。
庭の植物は濃い緑色を増やし、
色鮮やかな花が蝶達を誘う。
噴水に乱反射した光が、
外廊下の庇にまで強く輝く。
綺麗な水と光を閉じ込めた
豪奢な白亜の建物に住み、
わたしはスーと共に働いている。
「ニクスの名前って、
昔から変わってない?」
「えっ? …うん。」
彼女が名前の話を始めた理由を考えた。
「夜の女神の名前だよね。」
「スーはスース?
確か、流れ星?」
彼女は初めて会った時、
自身の名前の由来を説明した。
「最初はね、スァラにしようと
考えてたんだよ。
でもスァラって名前は有り触れて、
大陸語で『白馬』って意味だから、
金髪のわたしには似合ってないよね。
スースより以前は、
テレスだったんだよ。」
「テレスって、それも大陸語?」
わたしの聞いたことのない単語。
スーは名前を変えている。
この館には、名前を変える子が多く居る。
彼女もその一人だった。
「スースも同じ大陸のエンカーンだよ。
大陸語には北方のソーンズ、
南方はクレワズとあって、
どっちも習得が難しい言語だよね。
中央のエンカーンは島の言葉に近いから
覚えやすいし、他の言語にも似てるよ。
『テレス』はエンカーンで、
厄除けやお守りとかって意味ね。
昔から子供につける名前だよ。」
「呪いの意味もあるんだね。」
わたしが言って首を縦に振ると、
スーは目を細めて妙な表情で微笑した。
――またなにか、
違う言い回しをしたのかしら…。
「名前も一つの『迷信』だよね。」
――迷信…。
「ニクスの名前も同じだね。
女神の名前を借りることで、
女神に加護を求めるの。」
わたしは驚いてしまった。
夜の女神はおそらく、
わたしの出自に由来する。
「ニクスの名前はきっと、
母親が考えたんだろうね。」
「え? 知らないよ。」
わたしは首を横に振った。
母の名前も顔も知らずに育てられたから、
素気無く答えてしまった。
「男の場合は父親、女は母親が
名付けることが多いんだよ。
男は父親や祖父、祖先から伝わる
名前の一部を借りる因循は、
古代から変わらないよね。
女が神話の神から拝借するのは、
寄り付く悪い虫から守る願いだって。
他にも身分の高さや、
親の教養を示したりね。
神話の神への憧れがあるのかもね。
迷信には根拠がないけど。」
「スーはどうして名前を変えたの?」
「親の理想と、私の理念は違うもんね。
テレスは健やかに育って欲しい、
っていう親の願いでしかないからだよ。
誰にだって自分の考えや、
目標を持って生きるものだよね。」
彼女は両手を合わせて指を組む。
「スーの目標って?」
「なんだと思う?」
「質問に質問で返すのは狡いわ。」
彼女は口角を上げて静かに笑う。
「親の思い通りに生きても、
親は先に死ぬものだから、
家族が死んだ時に変えたんだよ。
でも、親の願いが要らないって
言いたいわけでもないよ。
ニクスはその名前で、
いつか女神になる予定がある?」
「…そんな予定は無いよ。」
「否定はしないよ。
そこはニクスが考えてみて。
どうすれば女神になれるかな?」
神殿に祀られる肖像彫刻になれるとも、
祀られたいとも思ってはいない。
想像がつかずに首を横に振った。
「ね、難しいよね? でも、
この街で改名って当然の権利だからね。
信用の無いひとが多かったからかな?
自分の名前は自分で付けるんだよ。
親の理想はこうあって欲しいって願い。
自分の理念は行動の根っこだね。」
「理想と理念。
流れ星がスーの理念?」
「良いでしょ?
ニクスもスーって名乗る?」
「名乗らないよ。」
わたしはスーをよく知らないので、
わたしの理念にはならない。
「ふふっ。
同じ名前を名乗ったら信用を失うもんね。
ニクスはある? 変えたい名前。」
「名前を変えるなんて、
考えたことないよ。」
スーは目を見開いて笑顔を見せる。
「それなら私が良い名前を考えてあげる。」
「…聞くだけ聞いてあげる。」
わたしは疑いの目で見て顎を引く。
フランジのシリィという同い年の子が、
近い内に名前を変えるらしい。
ドレイプを目指す他の子も、
名前を変える予定の子は多い。
この館に来た時に、スーはわたしを
『ニック』と名付けようとした。
それは勝利の女神を意味したり、
男性名にも使われる『ニコラ』の
略称でもあったので期待はできない。
名前を変える予定もない。
「ニクスはどんな名前が好き?
東部だとエルテルは
大陸に近くて正統派、
ちょっと堅いよね。
ペタはもっと窮屈で伝統を重んじる、
ってこの言い回しも古いよね。
オーブは同じく古風で伝統的。
短くて呼びやすいのは良いかな。
カヴァになると女は粗雑に扱われ、
自分の後継の男には厳しく独特で、
変わった名前になりやすいよね。」
「普通の名前はないの?」
「あはは。名前に普通なんてないよ。」
冗談のつもりで言ったわけでもないのに、
スーに笑われてわたしは口を結んだ。
彼女に指摘された通り、
名前に普通や平均という標準は存在しない。
そこにスーが思いがけない提案をしてきた。
「それならサンサって名前はどう?」
「えぇ…? わっ!」
最も望ましくない名前に、
わたしは身体ごと拒絶して
外廊下の床に倒れかけた。
「サンサは大陸語で『恒星』って意味だよ。
女性名だし堅実で、発音も簡素だよね。」
彼女は母指と示指で輪を作り、
北北西から照らす太陽を囲んだ。
わたしの中でサンサという名前は、
堅実という所感から遠く離れていた。
「同じ名前を名乗ったら、
信用を失うって…。」
スーが言っていた言葉を
そのまま彼女に返したけれど、
わたしは失うほどの信用が無い。
「サンサ本人は気にしないと思うよ。
私が改名しようとした時なんて、
『名前はただの記号だもの、
わたしの名前でもなんでも
勝手に名乗ればいいわよ。』
って言ってたんだよ。」
――ニースだわ…。
スーの口から出てくるサンサの話は、
堅実ではなく奔放の方が似合っている。
それに彼女は太陽の暖かさより夜暗で、
目には冬の月のような冷たさがある。
「それからこれも言ってたね。
『その責任はあなただけのものよ。』
だって。
参考になった?」
「改名は、考えてみてもいいけれど、
わたしにサンサは似合わないと思う。」
「改名したいってわけでもないもんね。
でも変えたくなったら私に教えて。」
わたしがいつまでも不満を顕わにすると、
彼女は立ち上がって服についた砂埃を払う。
「休んだし、
そろそろお仕事しようかな。」
わたしもスーを真似して砂を払い、
手燭を彼女に渡した。
◆
暗い1番部屋は湯気の粒子で満たされ、
扉から入る僅かな光が散乱する。
今回はレナタの代役で、
わたし達はこの部屋の掃除をする。
「あっ! スー、口布。」
スーに手燭を渡してから、
大事なことを忘れていた。
「『病は口から』ってね。」
「うん。」
スーは手燭を近くのテーブルに置き、
キャシュクの懐から、
南部草のペヌンで織った
正方形の布を取り出した。
わたしも口布を取り出す。
対角に折って、
鼻の上から口を覆って後頭部で結ぶ。
指の感覚だけで厚い布を結ぶのは難しい。
平織の汎用的なペヌンの生地でも、
煤染めの仕事では口周りが汚れないほど
糸が太くて厚手の布。
「熱っ。」
スーが手燭から、燭台の蝋燭を灯す。
部屋は黒色の分厚い遮光カーテンが、
窓を隠して昼でも外界の光を遮っている。
光が湯気に満たされた部屋を明るくすると、
そこには一人、女が横臥していた。
赤い髪と赤い瞳の裸婦の優しい眼差しが、
瞬き一つせず、わたしを見つめた。
豊かな胸と柔らかさを感じさせる肉体は、
一部が淡いピンク色の布で覆われて、
どこか気品と優しさを思わせる。
ブレズの穂を片手に抱く姿が、
豊穣の女神のようにも見える。
横臥した女はモザイク画だった。
色彩豊かな小石やガラスが、
壁に埋め込まれて出来た絵。
「これ、本当に生きてるみたいね。」
口布の下で呟き、息を呑んだ。
――レナタが言ってた意味が分かるわ。
「魂の話?
これは昔、サンサが依頼したんだって。
アイリアの作品は、
偽物も多く出回ってるくらい
人気があるんだよ。
配置するガラスの色に合わせて、
モルタルも顔料で着色してるんだって。
ガラスの中に光を閉じ込める、
秘宝の壁画だって褒められてるね。」
スーの説明を聞きながら、
燭台の明かに浮かび上がる女を見つめた。
壁画以外にも目を引くものが多くある。
初めて入った他人の部屋の室内は、
幅広いベッドが一つのみ置かれ、
ここには浴槽が存在する。
わたし達が過ごす部屋には、
浴槽以前に吐水口もない。
個室に浴槽があること自体が異質で、
大浴場以外でお湯が湧き出る贅沢な環境。
わたしよりも背の高いガラス製の鏡、
姿見まで壁に備え付けられている。
姿見に光素が反射すると、
歪なわたしの姿が映し出される。

サンサの部屋には古い銅鏡が、
裏返しになって飾られているだけだった。
光輝く施釉の花器に、大きな花が挿さる。
花弁が床に散らばって、
花の香りで鼻孔がずっと擽ったい。
スーが金色の飾り紐の付いた
カーテンを開くと、部屋全体が
宝石のように輝いた。
窓のガラス板は正六角形の模様を描いて、
部屋に鮮やかな色の光を招き入れる。
「あった。
はい、これ。」
モザイク画と部屋に見惚れていると、
手のひらに薄ピンク色をした
袋の塊が乗せられた。

「ニクスのお仕事は
これを拾い集めることだよ。」
袋はその口に、
目立つ赤色の紐が縫い付けてある。
中身の液体が零れないように、
紐を巻いた上で固く縛られていた。
わたしは紐を手にして頭を捻った。
袋は脂っぽい鶏の屠体のようで、
中の液体の触感は冷たいけれど、
手触りの良いものではない。
触ってからようやく気付いた。
「あっ! これ、内臓?」
「それは水袋の中身に使う、
内袋だね。山羊の。」

「水袋の中って? あれ? ふぐり?」
「ふぐり…? 違うよ。
あぁ、金玉でもなくて、
おしっこを溜めてる臓器だね。
膀胱って名前だよ?
知ってる?」
道具箱からブラシを手にしたスーが、
自分の下腹部を触って位置を教える。
「金玉は下品だったね。
正しくは陰嚢? もしくは精巣かな。
精巣の語源は、男らしさを証明する
って意味の証人だったね。
お股に吊り下がってるからだって。
ふふっ。
ふぐっ。館は『下品は禁止』だよ。
ふぐりっ…ふぐっ…。」
堪えきれずに笑い出すスーに、
わたしは恥ずかしさに顔が熱くなる。
「違うのっ! 間違えただけっ!
金た…はスーが言ったんだよ。」
「内臓って見えない上に種類も多いから、
覚えるのは難しいもんね。
メノーは特に詳しいよね。
ふぐりは出てるけど。」
下腹部を手で抱えたまま笑うスー。
膀胱は、尿を貯める器官。
手にした物体から距離を取りたくて、
わたしはできる限り手を水平に伸ばした。
「この中身は不要物?」
「それは性器を覆って避妊する為の道具。
サンサが作ったんだって。
中身はお客さんの精液だよ。」
「あっ…。」
中身の意味に気付いて、
手にした物体の嫌悪感で背筋が震えた。
――わたしはいま、娼館で働いている。
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