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金貨の娘  作者: 美穂
第3章 花弁の湯

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第3章 第1節 鐘楼の島(第1項)

巨(きょ)大(だい)な防(ぼう)壁(へき)と山(さん)脈(みゃく)に囲(かこ)まれた要(よう)塞(さい)都(と)市(し)。



丘(おか)の上(うえ)に立(た)つ娼(しょう)館(かん)、夜(よる)の館(やかた)から西(にし)に行(い)くと、

川(かわ)に挟(はさ)まれた島(しま)には高(たか)い鐘(しょう)楼(ろう)が建(た)っている。



「あの鐘(しょう)楼(ろう)が建(た)ってる島(しま)の名(な)前(まえ)は

 『日(ひ)時計(どけい)島(とう)』っていうんだよ。」



黒(こく)羊(よう)毛(もう)のコートを着(き)たスーが先(せん)頭(とう)を歩(ある)き、

わたしの手(て)を引(ひ)いて街(まち)の説(せつ)明(めい)をしてくれる。



挿絵(By みてみん)



金(きん)髪(ぱつ)の彼(かの)女(じょ)の、二(ふた)つの三(み)つ編(あ)みが

肩(かた)や背(せ)中(なか)を自(じ)由(ゆう)に動(うご)き回(まわ)る。



長(なが)くて綺(き)麗(れい)な金(きん)髪(ぱつ)が通(つう)行(こう)人(にん)の目(め)を奪(うば)う。



「…鐘(しょう)楼(ろう)が日(ひ)時計(どけい)の代(だい)用(よう)品(ひん)みたいだから?」



とは言(い)ったものの、わたしは鐘(しょう)楼(ろう)が

日(ひ)時計(どけい)になっているとは思(おも)わない。



日(ひ)時計(どけい)は、古(こ)代(だい)から使(つか)われていた

影(かげ)を利(り)用(よう)して、時(じ)刻(こく)を測(はか)る道(どう)具(ぐ)。



あれほど巨(きょ)大(だい)な建(けん)造(ぞう)物(ぶつ)が日(ひ)時計(どけい)になれば、

影(かげ)の長(なが)さや傾(かたむ)きを計(けい)測(そく)するのも苦(く)労(ろう)する。



あの鐘(しょう)楼(ろう)が、いつ建(た)てられたものか

わたしは知(し)らない。



「暦(こよみ)を作(つく)る天(てん)文(もん)学(がく)の拠(きょ)点(てん)で、

 昔(むかし)はあそこに日(ひ)時計(どけい)があったのよ。」



声(こえ)の方(ほう)角(がく)に振(ふ)り向(む)くと、

後(うし)ろを歩(ある)いていたサンサが説(せつ)明(めい)した。



「太(たい)陽(よう)が出(で)ていなければ使(つか)えないし、

 置(お)かれた日(ひ)時計(どけい)は、近(ちか)くにいるひとしか

 時(じ)刻(こく)が分(わ)からないでしょ?


 ハンドベルを鳴(な)らして、時(じ)刻(こく)を伝(つた)えた

 なんて記(き)録(ろく)があったわね。」



挿絵(By みてみん)



黒(くろ)色(いろ)の頭巾(フード)と宝飾巾(ヴェール)で顔(かお)を隠(かく)して、

傭(よう)兵(へい)を殺(ころ)したあの夜(よる)と同(おな)じ格(かっ)好(こう)。



彼(かの)女(じょ)は木(もく)製(せい)の義(ぎ)腕(わん)を首(くび)に下(さ)げて、

裾(すそ)の長(なが)い上(うわ)着(ぎ)と紫(し)紺(こん)色(いろ)の飾(かざ)り布(ぬの)で

その義(ぎ)腕(わん)を覆(おお)い隠(かく)している。



腕(うで)には薄(うす)い黒(くろ)色(いろ)の

チュール生(き)地(じ)のアームカバーで、

肩(かた)近(ちか)くまで肌(はだ)を覆(おお)っていた。



チュニックについたフリルが、

白(しろ)い肌(はだ)の首(くび)元(もと)を隠(かく)す。



裾(すそ)は長(なが)くて踝(くるぶし)まで伸(の)び、

歩(ある)く度(たび)に豊(ゆた)かな皺(しわ)を作(つく)って揺(ゆ)らした。



胸(むな)元(もと)には銀(ぎん)糸(し)の飾(しょく)緒(しょ)が渡(わた)り、

彼(かの)女(じょ)の身(み)分(ぶん)を示(しめ)す。



雪(ゆき)のように白(しろ)い肌(はだ)は、

ほとんど目(め)元(もと)のみしか見(み)えない。



――これもニースだわ。



少(しょう)女(じょ)のような外(がい)見(けん)の彼(かの)女(じょ)が、

こんな格(かっ)好(こう)をする理(り)由(ゆう)。



義(ぎ)腕(わん)と一(いっ)緒(しょ)に黒(くろ)猫(ねこ)のアルまで抱(かか)えている。



挿絵(By みてみん)



――重(おも)たくはないのかしら。



お腹(なか)の上(うえ)に乗(の)られた時(とき)は、

息(いき)ができなくなるくらい重(おも)たく感(かん)じた。



サンサの後(うし)ろにはハーフガンが、

眉(み)間(けん)に力(ちから)を入(い)れてついてくる。



挿絵(By みてみん)



わたしを睨(にら)みつける目(め)が怖(こわ)い。



ハーフガンは護(ご)衛(えい)として、

サンサの命(めい)令(れい)で連(つ)れ出(だ)された。



わたしも彼(かれ)と同(おな)じく、

スーやサンサに連(つ)れ出(だ)されている。



「日(ひ)時計(どけい)は太(たい)陽(よう)の傾(かたむ)き、

 作(つく)る影(かげ)の長(なが)さで時(じ)刻(こく)が分(わ)かるよね。


 肉(にく)体(たい)労(ろう)働(どう)者(しゃ)や奴(ど)隷(れい)を、

 日(にち)没(ぼつ)までずっとは働(はたら)かせられないからね。


 街(まち)が繁(はん)栄(えい)すると

 川(かわ)の氾(はん)濫(らん)や治(ち)水(すい)工(こう)事(じ)の事(じ)故(こ)で

 死(し)者(しゃ)を悼(いた)む為(ため)に建(た)てたのがあの塔(とう)だよ。


 それを何(なん)度(ど)か改(かい)築(ちく)して、

 時(じ)刻(こく)や火(か)災(さい)を知(し)らせる為(ため)の

 いまの鐘(しょう)楼(ろう)になったって。


 展(てん)望(ぼう)台(だい)から吊(つ)り下(さ)げられた

 ロープの帯(おび)の色(いろ)を見(み)ると、

 だいたいの時(じ)刻(こく)が分(わ)かるんだよ。


 見(み)慣(な)れると壁(へき)面(めん)につく影(かげ)で、

 時(じ)刻(こく)も分(わ)かったりするよ。


 そんな名(な)残(ご)りでいまも、

 日(ひ)時計(どけい)島(とう)って呼(よ)ばれてるんだって。」



川(かわ)に挟(はさ)まれる島(しま)に建(た)てられた

六(ろっ)角(かく)柱(ちゅう)の高(たか)い塔(とう)。



わたしは邸(てい)宅(たく)地(ち)を歩(ある)きながら

スーの説(せつ)明(めい)を聞(き)いた。



「老(ろう)朽(きゅう)化(か)で改(かい)築(ちく)計(けい)画(かく)もあったんだけどね。


 日(ひ)時計(どけい)島(とう)の鐘(しょう)楼(ろう)って観(かん)光(こう)の名(めい)所(しょ)なのに、

 総(そう)督(とく)でもあそこに入(はい)ったり

 登(のぼ)れたりはしないんだよ。


 まるで禁(きん)足(そく)地(ち)だよね。


 ニクスも登(のぼ)ってみたいよね。」



塔(とう)で育(そだ)ったわたしは首(くび)を横(よこ)に振(ふ)る。



鐘(しょう)楼(ろう)には興(きょう)味(み)はなく、

気(き)になることが別(べつ)にあった。



「ねぇ、スー。


 本(ほん)当(とう)にこれ、貰(もら)っていいものなの?

 脱(ぬ)いじゃダメ?」



わたしは、館(やかた)の庭(にわ)で眩暈(めまい)で倒(たお)れた時(とき)に、

都(と)市(し)で一(いち)番(ばん)偉(えら)い総(そう)督(とく)のマルフに掛(か)けられた

白(はく)羊(よう)毛(もう)の厚(あつ)いコートを着(き)ている。



コートは大人(おとな)の男(おとこ)用(よう)なので裾(すそ)や袖(そで)が長(なが)い。



長(なが)い裾(すそ)のおかげで膝(ひざ)まで隠(かく)れても、

袖(そで)は何(なん)度(ど)か捲(まく)ってようやく手(て)が出(だ)せた。



それに重(おも)たい。



「この街(まち)の娼(しょう)婦(ふ)や男(だん)娼(しょう)は、

 肌(はだ)を露(ろ)出(しゅつ)してはいけないんだよ。


 服(ふく)装(そう)を規(き)定(てい)しないと、

 裸(はだか)の娼(しょう)婦(ふ)だらけになるもんね。


 だからってフランジのニクスが、

 ドレイプのサンサの為(ため)に客(きゃく)引(ひ)きや、

 代(か)わりに会(かい)談(だん)をしたらダメだよ。」



「そんなことしないよ…。」



街(まち)中(なか)で娼(しょう)婦(ふ)が裸(はだか)になったり、

子(こ)供(ども)が客(きゃく)引(ひ)きをすれば、

秩(ちつ)序(じょ)が乱(みだ)れるのは想(そう)像(ぞう)するまでもない。



「娼(しょう)館(かん)や賭(と)場(ば)しかない街(まち)なのに、

 風(ふう)紀(き)には口(くち)喧(やかま)しいのよ。」



「風(ふう)紀(き)…。」



サンサが言(い)った風(ふう)紀(き)とは

行(こう)為(い)の定(さだ)めであり、法(ほう)に繋(つな)がる。



彼(かの)女(じょ)が頭巾(フード)や宝飾巾(ヴェール)で

肌(はだ)を隠(かく)しているのも、

法(ほう)律(りつ)で定(さだ)められていた。



「ニクスはまだなにか質(しつ)問(もん)があるのね。」



わたしの考(かんが)えはサンサに見(み)透(す)かされる。



「…コートは返(かえ)さなくていいの?」



「ニクス。」



彼(かの)女(じょ)は語(ご)気(き)を強(つよ)めてわたしの名(な)前(まえ)を呼(よ)んだ。



「相(あい)手(て)に質(しつ)問(もん)をする前(まえ)に、

 広(ひろ)く、深(ふか)く考(かんが)えなさい。


 疑(ぎ)問(もん)を抱(いだ)くことを否(ひ)定(てい)したり、

 質(しつ)問(もん)行(こう)為(い)を叱(しか)ってるわけでは

 ないわよ。


 生(い)きていく上(うえ)では欠(か)かせないものね。


 わたしはなぜ生(い)きているのか、

 この島(しま)はどうやってできたのか。


 わたし達(たち)はどこから来(き)て、

 何(なに)者(もの)で、どこへ行(い)くのか。


 こんな謎(なぞ)解(と)きにあなたは答(こた)えられる?


 軽(けい)薄(はく)な質(しつ)問(もん)という行(こう)為(い)を諫(あさ)む…、

 忠(ちゅう)告(こく)ね。」



――諫(あさ)む…。



サンサは古(ふる)く難(むずか)しい言(こと)葉(ば)を使(つか)う。



「質(しつ)問(もん)する相(あい)手(て)は

 なんでも知(し)っているひとかしら?


 あなたでも分(わ)かる質(しつ)問(もん)はする必(ひつ)要(よう)がなく、

 軽(けい)薄(はく)な質(しつ)問(もん)は知(ち)能(のう)を試(ため)す行(こう)為(い)に等(ひと)しい。


 まぁ、スーだから良(い)いけれどね。」



「あはは。それ、軽(けい)薄(はく)。


 私(わたし)はなんでも答(こた)えるよ。


 ニクスに教(おし)えることで、

 学(まな)びに繋(つな)がるからね。」



「…角(かく)度(ど)や深(しん)度(ど)はなにかの比(ひ)喩(ゆ)?」



「なんの話(はなし)?」言(い)ったサンサが訊(たず)ねてきた。



「広(ひろ)く、深(ふか)くって…。」



「『感(かん)情(じょう)論(ろん)』っていう本(ほん)の引(いん)用(よう)だね。」



わたしも覚(おぼ)えのある難(なん)解(かい)な本(ほん)の名(な)前(まえ)だった。



「広(ひろ)くっていうのは視(し)野(や)や観(かん)点(てん)とかだね。


 自(じ)分(ぶん)以(い)外(がい)の身(み)分(ぶん)や地(ち)位(い)、

 階(かい)級(きゅう)なんかで考(かんが)えるといいかも。


 で、深(ふか)くっていうのは難(むずか)しくて、

 目(もく)的(てき)や意(い)識(しき)、意(い)向(こう)が含(ふく)まれるね。


 忘(わす)れ物(もの)をしたと言(い)って館(やかた)に取(と)りに戻(もど)る

 お客(きゃく)さんの考(かんが)えや立(たち)場(ば)、館(やかた)の従(じゅう)業(ぎょう)員(いん)、

 それ以(い)外(がい)のひとからはどう見(み)えるかな?」



「答(こた)えを言(い)ってるようなものよ、それ。」



スーの説(せつ)明(めい)にサンサは呆(あき)れる。



「あっ、忘(わす)れ物(もの)をしたと言(い)って、

 嘘(うそ)をついて館(やかた)に入(はい)ってくるから?」



「ニクスとは真(ま)逆(ぎゃく)ね。」



言(い)ってから気(き)付(づ)いて、

恥(は)じていたところを指(し)摘(てき)された。



「その通(とお)りだね。


 馬(うま)だって、自(じ)分(ぶん)の忘(わす)れ物(もの)は

 取(と)りに戻(もど)らないもんね。


 マルフ総(そう)督(とく)はそんなことしないけど、

 コートや身(み)分(ぶん)証(しょう)を意(い)図(と)して忘(わす)れて、

 日(ひ)に何(なん)度(ど)も娼(しょう)館(かん)に入(はい)れば疑(うたが)われるよね。


 一(いち)度(ど)出(で)た娼(しょう)館(かん)に理(り)由(ゆう)を付(つ)けて

 館(やかた)に戻(もど)って、娼(しょう)婦(ふ)と逢(あい)引(びき)する。


 昔(むかし)からある手(しゅ)法(ほう)だよ。」



――広(ひろ)く、深(ふか)く考(かんが)える…。



納(なっ)得(とく)したわたしは、

サンサの言(こと)葉(ば)を頭(あたま)の中(なか)で繰(く)り返(かえ)した。



館(やかた)のある丘(おか)を下(くだ)り、

しばらく西(にし)へと歩(ある)くと大(おお)通(どお)りに出(で)る。



石(いし)造(づく)りの道(みち)は歩(ほ)道(どう)と車(しゃ)道(どう)に分(わ)かれ、

馬(ば)車(しゃ)は途(と)切(ぎ)れず走(はし)り続(つづ)け、

道(みち)を行(ゆ)き交(か)う人(ひと)々(びと)は列(れつ)を作(つく)る。



館(やかた)を抜(ぬ)け出(だ)した夜(よる)とはまるで違(ちが)う景色(けしき)。



こんな地(ち)方(ほう)都(と)市(し)でも

植(しょく)物(ぶつ)がひとの手(て)で管(かん)理(り)され、

清(せい)掃(そう)と整(せい)備(び)が行(ゆ)き届(とど)いている。



街(まち)の中(なか)には、黒(くろ)のキャシュクと

黒(くろ)のスラックスを履(は)いた黒(くろ)装(しょう)束(ぞく)姿(すがた)の、

南(なん)部(ぶ)に住(す)むオーブ領(りょう)の人(にん)間(げん)も見(み)かけた。



オーブ領(りょう)の格(かっ)好(こう)をした人(にん)間(げん)の多(おお)くは、

頭巾(フード)や宝飾巾(ヴェール)もして顔(かお)を隠(かく)している。



館(やかた)もこの都(と)市(し)も、水(みず)が豊(ゆた)かに流(なが)れている。



「ここは雨(あま)水(みず)を貯(た)めたり、流(なが)したり、

 物(ぶつ)流(りゅう)で使(つか)ったりする第(だい)2運(うん)河(が)ね。


 水(すい)位(い)は水(すい)門(もん)で常(つね)に維(い)持(じ)してるんだよ。


 ここから南(みなみ)か、東(ひがし)に行(い)くと、

 曲(ま)がった形(かたち)の第(だい)1運(うん)河(が)が通(とお)ってて、

 鐘(しょう)楼(ろう)を越(こ)えると第(だい)3、第(だい)4とあるよ。」



橋(はし)の手(て)摺(すり)の上(うえ)に顎(あご)を乗(の)せて、

スーと一(いっ)緒(しょ)に運(うん)河(が)の様(よう)子(す)を眺(なが)める。



曲線(アーチ)構(こう)造(ぞう)の橋(はし)の下(した)には、

排(はい)水(すい)を集(あつ)めた暗(くら)い色(いろ)の水(みず)が貯(た)まっている。



運(うん)河(が)は周(しゅう)囲(い)に臭(しゅう)気(き)を放(はな)つ。



塔(とう)から見(み)た湖(みずうみ)とは違(ちが)い、

魚(ぎょ)影(えい)は見(み)えないし、水(すい)流(りゅう)も水(みず)草(くさ)も無(な)く、

花(はな)びらや落(お)ち葉(ば)などのゴミが目(め)立(だ)つ。



水(すい)流(りゅう)のない川(かわ)を初(はじ)めて見(み)たけれど、

変(へん)化(か)がなく、見(み)ていて退(たい)屈(くつ)になる。



――これでは水(すい)車(しゃ)も石(いし)臼(うす)も回(まわ)らないわね。



船(ふね)の道(みち)。巨(きょ)大(だい)な排(はい)水(すい)溝(こう)。



丸(まる)太(た)を繋(つな)いだ船(ふね)が水(すい)夫(ふ)を乗(の)せて、

運(うん)河(が)を北(きた)から南(みなみ)へと上(のぼ)っていく。



ネルタでは湖(みずうみ)の『括(くび)れ』を渡(わた)る際(さい)に、

この艀(はしけ)に奴(ど)隷(れい)や驢馬(ろば)を乗(の)せて運(はこ)ぶ。



「あれは艀(はしけ)って言(い)うんだよ。

 名(な)前(まえ)は知(し)ってる?」



「うん。」



――乗(の)ったことあるもの。



出(しゅつ)自(じ)は明(あ)かせず、口(くち)には出(だ)さなかった。



流(なが)れる川(かわ)とは異(こと)なる水(みず)の道(みち)を利(り)用(よう)して、

運(うん)河(が)は重(おも)たい木(もく)材(ざい)や石(せき)材(ざい)を乗(の)せた平(ひら)台(だい)の、

艀(はしけ)を曳(ひ)く船(ふね)が行(ゆ)き交(か)う。



「それなら街(まち)の説(せつ)明(めい)の方(ほう)がいいかな?」



スーの提(てい)案(あん)にわたしは頷(うなず)く。



「運(うん)河(が)より西(にし)の川(かわ)沿(ぞ)いは、

 労(ろう)働(どう)者(しゃ)の住(す)んでる地(ち)域(いき)だね。


 館(やかた)に出(で)入(い)りする外(そと)の業(ぎょう)者(しゃ)も住(す)んでるよ。


 この近(ちか)くにはオーナーの館(やかた)があって、

 ここからさらに南(みなみ)に行(い)くと、

 メノーの病(びょう)院(いん)があるよ。」



「今日(きょう)は病(びょう)院(いん)には行(い)かないわよ。」



「分(わ)かってる。」



スーが今(こん)度(ど)は南(みなみ)の空(そら)を指(し)示(じ)した。



「今日(きょう)は晴(は)れてて、

 天(てん)蓋(がい)山(さん)がよく見(み)えるね。」



六(ろっ)角(かく)柱(ちゅう)の高(たか)い鐘(しょう)楼(ろう)から長(なが)く伸(の)びる影(かげ)の先(さき)。



防(ぼう)壁(へき)の向(む)こうには、

山(さん)頂(ちょう)に雲(くも)を戴(いただ)く天(てん)蓋(がい)山(さん)。



「この都(と)市(し)の名(な)前(まえ)って、分(ぶん)水(すい)街(がい)…?」



わたしは鐘(しょう)楼(ろう)より西(にし)から、

川(かわ)沿(ぞ)いを馬(ば)車(しゃ)でやってきた。



雄(ゆう)大(だい)な天(てん)蓋(がい)山(さん)が真(ま)南(みなみ)にあれば、

その麓(ふもと)には深(ふか)い森(もり)と広(こう)大(だい)な湖(みずうみ)が存(そん)在(ざい)する。



遠(とお)く小(ちい)さく見(み)える天(てん)蓋(がい)山(さん)は、

空(くう)気(き)の層(そう)によって霞(かすみ)がかっていた。



湖(みずうみ)から北(きた)の下(か)流(りゅう)にある都(と)市(し)を、

故(こ)郷(きょう)のでは分(ぶん)水(すい)街(がい)と呼(よ)んでいた。



「この街(まち)に住(す)んでいるひとは、

 分(ぶん)水(すい)街(がい)なんて呼(よ)び方(かた)は避(さ)けるよね。」



「それなら、なんて呼(よ)ぶの?」



「うーん。それがね。


 『この街(まち)』としか呼(よ)ばないんだよね。」



「分(わ)かり難(にく)いわよね。」



と、サンサがわたしに同(どう)意(い)を求(もと)めてくる。



「自(じ)分(ぶん)達(たち)が住(す)んでるだけの街(まち)に、

 気(き)取(ど)った呼(よ)び方(かた)なんてしないから。


 街(まち)の外(そと)に出(で)なければ使(つか)う機(き)会(かい)もないし。


 サンサ達(たち)の使(つか)う南(なん)部(ぶ)訛(なま)りと同(おな)じだよ。


 カヴァとオーブは東(とう)西(ざい)で離(はな)れてるけど、

 南(なん)部(ぶ)訛(なま)りってだけで同(おな)じ言(げん)語(ご)だもんね。


 カヴァ訛(なま)り、オーブ訛(なま)りなんて

 わざわざ区(く)別(べつ)したりしないよね。」



わたしとサンサは南(なん)部(ぶ)言(こと)葉(ば)を使(つか)っていても、

館(やかた)では誰(だれ)からも指(し)摘(てき)されなかった。



サンサは東(ひがし)のエルテル領(りょう)の養(よう)女(じょ)なので、

南(なん)部(ぶ)言(こと)葉(ば)を使(つか)うのも奇(き)妙(みょう)な話(はなし)だった。



彼(かの)女(じょ)は、エルテル領(りょう)の南(みなみ)に接(せっ)する

オーブ領(りょう)の出(しゅっ)身(しん)なのかもしれない。



「この島(しま)でしか使(つか)わない言(こと)葉(ば)を

 ナルキアン(語)なんて呼(よ)ぶのは、

 大(たい)陸(りく)から来(き)たひとに対(たい)して

 大(たい)陸(りく)語(ご)を使(つか)う時(とき)だけだよね。


 大(たい)陸(りく)だとエンカーン(語)、ソーンズ(語)、

 クレワズ(語)は別(べつ)の言(げん)語(ご)だから区(く)別(べつ)するけど、

 こっちみたいに包(ほう)括(かつ)して大(たい)陸(りく)語(ご)

 なんて呼(よ)ばないんだよね。


 この島(しま)で大(たい)陸(りく)語(ご)って、主(おも)に

 エンカーン(語)のことしか示(しめ)さないし。」



「話(はなし)が逸(そ)れてるわよ。」



博(はく)識(しき)なスーに圧(あっ)倒(とう)されて

頷(うなず)くことも忘(わす)れていると、

サンサに指(し)摘(てき)を受(う)けて彼(かの)女(じょ)は話(はなし)を戻(もど)した。



「この街(まち)を分(ぶん)水(すい)街(がい)って呼(よ)び出(だ)したのは、

 治(ち)水(すい)工(こう)事(じ)で連(つ)れてこられた奴(ど)隷(れい)達(たち)だよ。


 いわゆる鄙(ひ)言(げん)だね。


 西(せい)部(ぶ)中(ちゅう)央(おう)や境(きょう)界(かい)街(がい)なんて呼(こ)称(しょう)はあって、

 分(ぶん)水(すい)街(がい)って名(な)前(まえ)が定(てい)着(ちゃく)したのは、東(ひがし)の

 エルテルが呼(よ)び始(はじ)めたからだね。


 図(と)書(しょ)館(かん)の保(ほ)管(かん)室(しつ)にある書(しょ)類(るい)を調(しら)べると、

 中(ちゅう)央(おう)領(りょう)って書(か)かれたりするよ。」



「中(ちゅう)央(おう)、領(りょう)?」



「字(じ)面(づら)が冴(さ)えないから、

 みんな使(つか)うのを避(さ)けるんだよね。


 だってただの中(ちゅう)央(おう)の領(りょう)地(ち)って意(い)味(み)だよ?


 エルテルにも叡(えい)智(ち)の街(まち)って呼(よ)ばれる

 中(ちゅう)央(おう)街(がい)もあるから、呼(こ)称(しょう)とするには

 紛(まぎ)らわしいし使(つか)いにくいよね。


 メーニェの領(りょう)地(ち)とも記(しる)されないし、

 治(おさ)めるのは領(りょう)主(しゅ)でもなくて

 総(そう)督(とく)と元(げん)老(ろう)院(いん)だもん。


 治(ち)水(すい)工(こう)事(じ)の記(き)録(ろく)はあっても、

 中(ちゅう)央(おう)領(りょう)とは誰(だれ)も呼(よ)ばないかな。


 この街(まち)の外(そと)のひとほど

 分(ぶん)水(すい)街(がい)って呼(よ)ぶんだよね。


 サンサはなんて呼(よ)んでた?」



「分(ぶん)水(すい)街(がい)でしょ。


 オーブやエルテルの年(とし)寄(よ)りは、

 刑(けい)場(じょう)なんて呼(よ)んでたわね。」



「刑(けい)場(じょう)…?」



「処(しょ)刑(けい)する場(ば)所(しょ)のことだよね。


 昔(むかし)は罪(つみ)を犯(おか)した強(きょう)制(せい)労(ろう)働(どう)者(しゃ)が多(おお)くて、

 この街(まち)では処(しょ)刑(けい)が民(みん)衆(しゅう)の娯(ご)楽(らく)に

 なってたんだって。」



「夜(よる)の館(やかた)が建(た)ってる丘(おか)の上(うえ)が

 その刑(けい)場(じょう)だったのよ。


 『泣(な)けよ、叫(さけ)べよ、罪(ざい)人(にん)共(ども)。

  その罪(つみ)を悔(く)い、穴(あな)に落(お)ちよ。

  我(わ)が明日(あす)を返(かえ)せ。

  赤(あか)土(つち)の丘(おか)。』


 ってね。」



「赤(あか)土(つち)の丘(おか)?」



「刑(けい)場(じょう)の跡(あと)地(ち)は

 周(しゅう)囲(い)が血(ち)塗(まみ)れだったからだって。


 だから夜(よる)になるとねぇ。ふふふ…。


 玉(たま)石(いし)の庭(にわ)にある井(い)戸(ど)の水(みず)が、

 処(しょ)刑(けい)されたひとの血(ち)で

 赤(あか)く染(そ)まるんだよぉ。」



声(こえ)を低(ひく)くして語(ご)気(き)を強(つよ)めたスーに、

わたしは目(め)を見(み)開(ひら)いて驚(おどろ)いてしまった。



「え?

 それって、水(みず)に鉄(てつ)が混(ま)ざるから?


 でも夜(よる)に限(かぎ)るとなると、

 観(かん)測(そく)する時(とき)の光(ひかり)の反(はん)射(しゃ)に

 関(かん)係(けい)するのかな。」



スーとサンサは顔(かお)を見(み)合(あ)わせたので、

正(せい)解(かい)ではないらしい。



「言(い)った通(とお)りだったよね。」



「ある程(てい)度(ど)考(かんが)えのある子(こ)には、

 こうした話(はなし)は通(つう)じないのよ。」



「ファウナはどうだった?」



「あの子(こ)は言(い)う側(がわ)よね。」



「言(い)ってたね。」



二人(ふたり)はなにか通(つう)じ合(あ)っている。



――ニースだわ。



わたしは言(い)われた通(とお)りに

広(ひろ)く、深(ふか)く考(かんが)えてみる。



「太(たい)陽(よう)や月(つき)の位(い)置(ち)に関(かか)わりがある?

 でも夜(よる)だよね? ポンプの錆(さび)?」



「潮(ちょう)汐(せき)も関(かん)係(けい)ない、

 フランジに広(ひろ)めた作(つく)り話(ばなし)よ。」



サンサが冷(つめ)たく言(い)う。



「この話(はなし)は夜(よる)に井(い)戸(ど)には近(ちか)付(づ)かない、

 って脅(おど)し文(もん)句(く)なんだよ。」



「え? 赤(あか)くならないの?」



「今(こん)度(ど)、見(み)に行(い)こうか。」



「話(はなし)が逸(そ)れてるわよ。

 それで、なんの話(はなし)だったかしら。」



「この街(まち)の名(な)前(まえ)だね。」と、スーが言(い)う。



わたしも彼(かの)女(じょ)の言(こと)葉(ば)に合(あ)わせ、

首(くび)を縦(たて)に振(ふ)る。



「分(ぶん)水(すい)街(がい)は地(ち)域(いき)間(かん)の交(こう)易(えき)も盛(さか)んだし、

 流(りゅう)行(こう)の根(こん)拠(きょ)地(ち)で人(にん)気(き)の都(と)市(し)よね。


 歴(れき)史(し)のあるエルテルやカヴァでも

 地(ち)方(ほう)は過(か)疎(そ)だから、分(ぶん)水(すい)街(がい)に来(く)るか

 分(ぶん)水(すい)街(がい)の流(りゅう)行(こう)を追(お)いたがるのよ。」



「この街(まち)は旅(りょ)客(かく)も多(おお)いよね。」



――スーは分(ぶん)水(すい)街(がい)の子(こ)みたいだけれど、

  サンサはエルテル領(りょう)の領(りょう)主(しゅ)の

  養(よう)女(じょ)なのよね。



――それ以(い)前(ぜん)はどこに住(す)んでいたのかしら?

  南(なん)部(ぶ)言(こと)葉(ば)だからオーブ領(りょう)?



――彼(かの)女(じょ)はどこで生(う)まれて、

  どこからやってきたのかしら。



そんな疑(ぎ)問(もん)に湧(わ)いた。



わたしはこの疑(ぎ)問(もん)を

広(ひろ)く、深(ふか)く考(かんが)えることにした。




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