後頭部に束ねた長い金髪は、
歩行に合わせて左右に揺れ動く。
細く長い肉質のある日焼けした素足が、
渡り廊下のコンクリート床を踏み歩くと
湿った足音を鳴らす。
両手に不似合いな道具箱を抱えていても、
キャシュク越しの背中は、頭の先まで
垂直に伸びていて後ろ姿に気品がある。
わたしがスーと呼んでいる一つ年上の、
成年になって間もないフランジ。
――彼女も近いうち、
ドレイプになるのかしら。
この疑問は決して口には出さず、
想像を掻き消すように努めた。
先を歩くスーは振り向いて、足を止める。

彼女の碧色の瞳がわたしを呼んだので、
歩幅を広くして歩くと足が痛む。
「ニクス、急がなくていいよ。
火が消えるから。」
左手にした手燭の火が、
わたしの動きで激しく揺れた。

「熱っ!」
慌てて風から火を守ろうとした
右手が火に触れてしまった。
「火傷してない?」
「うん…なんでもなかった、みたい。」
「ちょっと早く歩いちゃったね。
火傷は切り傷や擦り傷と比べて
見た目がすぐに変わらなくて、
でも熱で変質しちゃうんだよ。
自分の身体なのに、
体内の不調や変化が分からないのって
不思議だよね。
そうだ、すぐに井戸水で冷やさないとっ。
水疱ができても、潰したらダメだよ。」
「ちょっと驚いただけ。
熱くも痛くもなかったよ。」
少し火に触れただけで、
スーはこれほどよく喋る。
お喋りと自評する彼女でも、
わたしの出自について訊ねたり、
他人について多くを喋ったりはしない。
水と緑の豊かな館で暮らす女達は、
孤児の集まりの為に、決して驕らず、
誰もが弁えを持って行動を控える。
中でも彼女は信用できるひとだった。
『ニクスは思慮深く、聡明なのよ。』
黒髪のドレイプ、サンサの言葉を思い出す。
スーとは違って無口なわたしに、
サンサはこんな評価を下した。
サンサがわたしの前で
なにかを言う時は決まって、
わたしを試すような難しい言葉を選ぶ。
わたしとスーとの違いは、
口数の差だけに限らない。
わたしは貧相で、貧弱で非力。
スーの抱える道具箱でさえ、
身体の痛みに耐えられずに
持ち運べなかった。
わたしの赤土色の髪は梳けば切れやすく、
肌は薄白くて肉がない為、
骨まで浮かんで見える。
年上のスーに重たい道具箱を持たせて、
新入りのわたしは軽量で責任の重い
手燭を持つ。
立場が逆転していた。
わたしの軽挙が原因で事件も起きた。
思い出すと溜め息も出る。
嘆く自分に気づいてわたしは顔を上げた。
スーは目を細めて少し顎を引き、
彼女は考えを口にした。
「できるひとが
できることをやればいいんだよ。
社会は補い合って成立しているんだよ。
それともニクスはお姫様ではなくて、
使用人を目指してるのかな?」
わたしは首を横に振って否定する。
自分に対する低い評価を
自嘲したかったわけではない。
「思慮深く、聡明って言われたの、
ニクスは気にしてるんだね。
同じくらいの年齢の子に比べれば、
ニクスは賢い方だよ。
自分で疑問を持てるから。」
「広く、深く考えなさい、
って言われたくらいだよ…。」
「私も言われたよ、それ。
ニクスは年上の私と比べてるけど、
気にするほどでもないと思うよ。
私だって館に居て長い方だけど、
サンサの考えは分からないもんね。
彼女は自分の出自も言わないからね。」
「え? もしかしてスーも知らないの?」
意外な事実に驚くわたしを見て、
スーは喜んで頷く。
「でも私は知らないことを知ってる。」
二つの庭園を挟む館の廊下で、
彼女は道具箱を持ったまま、
足を交差させてその場で回って見せる。
淡黄色のキャシュクの短い裾が、
回転に合わせて軸の外側に慣性が働く。
それから箱から伸びる扇が揺れた。
――ニースだわ。
わたしは頭の中で呟いて
彼女に訊ねた。
「…知らないことを知ってるって、
大陸の諺?」
スーは道具箱を抱えて首を横にした。
「諺でも言い回しでもないよ。
ニクスは科学の5段階法って知ってる?」
「観察から始まって仮説を置いていく?」
「あってるよ。
観察、推論、仮説、検証、考察ね。
見て、予想して、仮定を置き、証拠立て、
事実を示す。この5個だね。
これを繰り返して、理論付けと
現象に物差しを作るのが科学だね。」
科学はこの5段階法で、
単位や法則という標準が設けられる。
スーはわたしの手燭の火に視線を下げた。
「燃え続ける蝋燭に
疑問を覚えたことはあるよね?
蝋燭は水の中でも燃えると思う?
ニクスは燃素って存在を知ってる?」
――やっぱりニースだわ。
スーがわたしを試していたので、
首を横に振って答える。
「燃素は遥遠代には否定されてるよね。
古代に燃素と呼ばれてたのは
空気の一部だよ。
この火は、熱で溶けて液体になった蝋を、
蝋燭の芯が毛細管現象で吸い上げて、
火の高温で気体に分解された時に、
空気と結びついて反応してるだけ。
ランタンなら、空気穴を粘土で塞げば、
空気が遮断されて、中の火は消えるよね。
だから燃素はただの空気。
水の中では蝋燭も燃えないよ。
気化した蝋や火に比べて
液体の水は密度が高くて、
僅かな空気しか含まれないから
水の中では燃えない。
それに燃える為の熱を水が奪うから、
蝋燭の火は消えるんでしょ。」
火を消す術を持つ人間は、
炎を操る術を手に入れた。
本で読んだ知識を言葉にして並べると、
彼女は階段から見下ろして笑顔で続けた。
「うん。ニクスは燃素を、
理論で否定できるわけだね。
でも疑問を持たずにいるひとや、
偏った知識や思想を持つひとは調べない。
生まれ育った環境次第で、
調べられないひとがいる。
勉強の機会もない、下流階級のひとだね。
疑問を持たないひと
調べられない動物にとっては、
火って畏怖の対象になるんだよ。」
――鏡像認知みたいな話ね。
動物の多くは人間に比べ知能が低く、
鏡に映る自分の姿を自分と認識できず、
威嚇をしたり鏡の裏側を探ってしまう。
本に載っていた実験の話。
顎の下に餌が貼り付けられた鳥が居る。
餌は鏡を使わないと見ることのできない。
多くの鳥は顎の下の餌に気づかず、
鏡の自分を威嚇して鏡を啄いた。
けれど中には鏡を見て、
自分の体から餌を外した鳥が居た。

黒地に白い羽根を持つ雪烏という
小柄な烏で、人間を襲って捓う
悪賢い性格をしている。
雪烏に狙われていた子供が、
泣き叫びながら走って逃げる姿を
塔から観察したこともあった。
「『獣は火を畏れ、愚者は炎を崇める。』
って諺もあるよね。」
スーの言葉でわたしは頭を捻った。
「…崇める? あれ?
『賢者は炎を操る』ではなくて?」
「ニクスが住んでいた土地では、
言い回しが独特なんだね。」
「あっ…。うん…。」
諺一つで出自を明かしかけ、
顔を伏せて手燭を見つめた。
「蝋燭の話に戻すと、
獣は燃焼って反応を理解できない。
獣が一様に火を畏れるのは、
畏怖を本能で理解してるからだね。
だけど愚者は理解できないものに対して、
余計な物を焚べ火を大きく見せる。
ただの火を崇高なものに仕立て上げるか、
恐怖心で支配して相手を唆す。
知らないだけでもなくて、
知ったつもりの人間を
愚者としてるわけだね。」
スーは館の階段を、
後ろ向きに器用に上る。
「もちろん火や炎だけでもないよ。
雷、水害、干害、冷害の自然災害や、
傷や風邪、病気の原因はどうかな。
祈りを欠いたから被害にあった、
病気になったって言われたら
ニクスは信じるかな?」
わたしは首を横に振る。
「身分のある王様、地位の高いひと、
高名な学者様なら信じる?
疑問を持たず調べられないひとは、
根拠のない明らかな嘘も信じるからね。
賢者って肩書きがあれば、
相手は疑うことすらしないもんね。
根拠がないのに信じることを
迷信って言うよね。
あ、もしかしてこれを
『言葉に王様の服を着せる』って
言うのかな?」
スーが、微風に揺れる
蝋燭の火を見つめて言った。
わたしは手摺を握り、
身体の痛みに耐えながら階段を上る。
「その点ではニクスへの評価は、
サンサの見立て通りだと思うよ。
ニクスがいまこうして
身体の痛みで苦しんでいるのは、
『日頃の行いが悪いから』
って賢者が言ったとしても、
ニクスは絶対に信じないもんね。」
「うーん…。」
わたしは悩みながら首を縦に振る。
火傷を気にして見た右腕の痣は、
もう痕が分からないほど薄れていた。
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