花汲みを終えたフランジは
館から出されて、北側の運河に繋がる
排水溝近くに移動させられる。
井戸から汲み上げた無色透明な水で、
手足についた汚れを洗い落とした。
外で洗うのは地中深くにある井戸の水を、
不要物での汚染から避ける理由がある。
厩舎の馬達がフランジの様子を見て、
頭を上下左右に揺すって興奮している。

ドレイプが遠出に馬車を使うので、
この施設が館に備わっていた。
下働きの若い男は嘶く馬に、
ブラシを掛けながら静めていた。
館に戻って流し台の無臭の水で
鼻の中をいくら濯いでも、
花汲みで付いた臭気は取れない。
鼻に水が入ると鼻の奥が痛くなる。
「鼻の中の粘膜が傷つくから、
そこまでにしとこうね。」
スーに言われ、
渡された銅のタライを取り上げられた。

鼻は痛いし、腕も痛い。
おまけに鼻から別の液体が出てきた。
「あぁー…。スー、出たぁ…。」
鼻の下に触れた右手に、
自分の鼻血が重力に従って線を描く。
鼻孔を上から摘んで
溢れる血が肘から滴り落ちると、
キャシュクまで汚れてしまった。
スーが取り出した口布で、
わたしの鼻を摘んで出血を抑える。
「しばらく口で呼吸だね。
そのうち血も止まるから安心して。
臭気っていうのはね、空気に混ざって
鼻に入った小さな物質なんだよ。
鼻の中は複雑で鼻を洗っても、
これがなかなか落ちないんだよね。
ところで料理や香料の匂いって、
あとから思い出せたりするよね?
花汲みの直後だと想像も難しいかな。
鼻の中から臭気の物質がなくなっても、
記憶には残るんだよ。
記憶が薄れた頃になって、
ようやく臭気も薄れるんだよね。
逆に、臭気が原因で、
記憶が呼び起こされたりもするよ。
他にも温感や冷感、痛覚なんかも、
記憶に結びついたりするよね。」
――話が逸れてるわ…。
「それれ、ろーすれは、いいの?」
「急いでも仕方がないよ。
血が止まったら顔だけ軽く洗ってね。」
「はぁー。」
鼻を摘めば返事の声もおかしくなる。
玉石の上に座って退屈に過ごすしかない。
庭に入る穏やかな風が洗濯物を揺らし、
わたしの頬や濡れた前髪を撫でる。
垂れた血が口に入ると銅貨の味が広がり、
言い表せない不安に苛まれて
気分は良くない。
頭の中に灰色の靄が漂う。
なにもしないのは退屈で、
疲れと陽気で眠気に誘われ、
荒波に揺られ、瞼が落ちる。
「ニクス、お疲れ様でした。」
レナタが呼び掛けてきた。
「おわっ…、おあぁーあぁ…。」
鼻を摘んだまま喋っていると、
自分でもなにを言っているのか
分からなくなってくる。
右手で鼻を摘んだ状態で
立とうとして倒れかけた。
片手が不自由なだけで、
動き難くなることに自分でも驚く。
玉石の上に座っていると臀部も痛い。
「慌てなくてもいいですよ。
今日の仕事はもう終わりですから。
この後は準備室で服を捨てて、
お風呂で身体を綺麗にしてください。」
こんな不格好な姿を見せても、
レナタは嘲笑もせず罵倒もしない。
――レナタの手助けになったのかしら。
わたしは自分に落胆して
深い溜め息が出た。
「今度の休養日は仕事ではなくて、
ちゃんとした勉強会がありますよ。」
「えんきょーあい。」
「サンサがフランジに教えてるんです。
ニクスはここに来る以前から
色々な本を読んでるんですよね。
それなら勉強もすぐに追いつきますよ。」
「ゔぇっ…うん…。」
鼻を摘んだまま首を縦に振ると、
鼻腔に溜まった血が喉を通って、
不快感を味わう。
学校に通ったことも、家庭教師も居ない、
わたしは勉強には自信がない。
数学も得意になるほどではないし、
歴史も狭く、倫理も怪しい。
体力もなければ、地位もない。
「えんきょー…勉強会って…
ここは学校もやってるの?」
「学校というのはわたしも知りません。
でもスーなら 知ってるかもしれません。
さぁ行きましょう。」
鼻血の止まったわたしは、
レナタに手を引かれて浴場に向かった。
ボイラー室の煙突の掃除が済み、
従業員達がお湯を用意してくれていた。
これがサンサの言っていた仕事の褒美で、
フランジは昼からの入浴を喜ぶ。
庭には食堂のテーブルが置かれ、
その上にはジュースや果物が並べられて、
昼食の支度で香ばしい匂いが広がる。
――仕事によって報酬が得られる。
疲れ切っていたはずのフランジは、
疲労も忘れて喜び、燥いでいる。
館の仕事は想像以上に大変だった。
洗濯は力のいる肉体労働で、
煤染めは涙が出るほど身体に悪い。
そして花汲みは心身共につらかった。
労働体験に参加したフランジは、
館で働く従業員の仕事の恩恵が
身に沁みた日になった。
彼女達の苦労と喜びが、
噴水のように庭に溢れる。
――これがサンサの言っていた正しさ、
館の物差しなのね…。
◆
着替えを行う為の準備室の前で、
鼻血と煤と不要物で汚れた全てを、
ゴミ入れとして用意された籠に捨てる。

溢れた籠は、従業員が抱えて出ていく。
――あれは洗濯して使わないのかしら。
踟いなく服が捨てられる。
この館の贅沢な生活について、
わたしは考えさせられた。
服は身体に異臭を残し、
湿った鼻がまだ気になった。
「学校? …どうだろ。
家庭教師ならレナタも知ってるよね。
サンサが昔やってたから。」
レナタに訊ねられ、
肌着姿のスーが言う。
「あぁ…。やっていましたね…。」
レナタがスーを見て、表情を曇らせる。
信用ならないサンサの評判を推し量った。
「学校に行ってたひとは
たぶん居ないよ。
学校は貴族や上流階級の男が、
兵学とか馬術を身に付ける為に、
通う場所だもんね。」
「ニクスは行ったことありますか?」
スーの説明を受け、
レナタが続けて訊ねてきた。
「ううん。
家庭教師も知らないよ。
いまから学んで、
みんなに追いつくか不安だわ。」
「勉強は個人の精励次第だもんね。
ねぇ、レナタ。」
レナタはチュニックを脱ぐと、
しばらく間を空けてから気付いて、
不満を顕わに頬を膨らませた。
「勉強って、わたしは苦手です。」
「勉強会は私達の年齢に合わせてるから、
レナタにとっては難しい内容だよね。
レナタはレナタの思うままに
学べばいいと思うよ。
ニクスは思想を学んでたりする?」
「勉強会では思想を教えるの?」
思想は、物差しや天秤の錘のような
標準を持たないのでわたしも理解に躓く。
「逆だよ。
サンサって思想については
教えたりしないからね。
普段は担当してる部屋のドレイプや
年長のフランジが教えているから、
勉強の機会は無いと思うよ。」
「サンサの教え方って、
学ぶ機会を与えるだけですね。
ニクスに教えて貰った時は、
分かりやすかったですよ。
話に王様の服を着せるとか、
説明に物語がありますから。」
最年少のレナタには
魂の概念を理解するのはまだ難しい。
「なるほどね。
レナタは仕組みを学ぶより、
仕組みの過程を学べば
身に付く感じがするね。
ニクスがレナタに教えてあげたら?」
レナタが期待の表情を見せたけれど、
わたしはスーのように教えられるほどの
知識を持ってはいない。
「計算関係はわたしもちょっと…。
本に書かれている法則や定理って、
意味が省かれて覚えることばかりで、
使いどころを先に考える必要があるから。
連続体力学は難しくて――。」
「えぇ…?」
「そんな勉強してたの?」
レナタだけではなくスーまで驚いたので、
わたしは首を横に振った。
同じ年齢の子が勉強する内容を知らず、
誰とも比較できずに困惑した。
準備室で、二人を前にして
肌着も股布も脱いで裸になる。
自分の痩せた身体を恥じるのも、
なんだかいまさらに思えた。
西の傭兵に掴まれて、
濃い紫色になっていた右腕の痣は、
薄くなって黄色に変わっている。
大きな浴槽に大勢で入るのは
初めての経験だった。
浴場内に入って体温が上がると、
体内の熱を外に排出する為に
血管が拡張される。
わたしはまた鼻血を出し、
お湯を汚してしまわないか心配した。
花びら以外で、浴槽のお湯が
赤く染まる光景を想像してみる。
首や太腿などの太い血管が切れない限り、
鼻血や経血程度で大量のお湯が
染まるはずはない。
初経が来ても水圧で多少は抑えられるし、
鼻血ならば顔を浴槽の外に出せば良い。
浴槽に入る前に、
考えを整理しながら身体の汚れを落とす。
花汲みをやったフランジはみんな、
石鹸とスポンジで肌を赤くして
傷めるほど擦っていた。

互いに体臭を確認しあっても、
標準になる嗅覚が歪んでいるので首を捻る。
「ニクスはお風呂が嫌いなんですか?」
「ううん?
身体は洗うよ?」
こうして自由に身体を洗える状況は、
乳母達に手荒く洗われるより良い。
「えっと、嬉しくないんですか?」
「この館に来た日に入ったから
もう慣れてるんだよ。」
「他の子はみんな、
お風呂が一番好き
って言うんですよ。
美人に近付けるからって。」
「お風呂が嫌いな子は居ないよね。
身体を綺麗にすればドレイプになれる、
なんて思ってる子も多いと思う。
なによりオーナーは汚い姿を嫌うからね。
ニクス、また垢擦りしてあげようか?」
スーがあの肌掻きの棒を持ってきた。

「えっ?
また痛くするの?」
「あれ? 痛かった?」
拒絶の意味で、力を込めて頷いた。
「肌掻き器は大人が使うものですからね。
あぁ、きっとスーのせいでニクスは、
お風呂が嬉しくないんですね。」
「なんだかそれって
私が悪いことをしたみたいだね。
いや、したのかもしれないね。」
垢擦りは痛いし、擽ったい。
身体の動きを抑えようとしても、
刺激に身体が反応してしまう。
「今日もまた、サンサの倉庫に
ガラクタが増えてしまいましたね。」
「オーナーが見たら、
なんて言うのか楽しみだね。」
レナタとスーが言って笑う。
グルグスの力任せの往復ポンプは、
壊れて穴の中に落ちてしまった。
不要物の穴に沈んだポンプの管を、
フランジがディッパーで挟んで
掬い上げる無駄な仕事が増えた。
わたしはもうディッパーも握っていられず、
近くで座って休んでいるあいだに、
花汲みの仕事が終わった。
「ねぇ、レナタ。
花汲みのバケツはどうするの?
下働き…従業員がどこかに運ぶの?」
バケツに集めた不要物は蓋をして、
汚れた道具と共に放置されていた。
「あとで清浄屋が回収に来ますよ。」
「マルフ総督の会社だよ。」
「えっ? 総督が?
下流階級の仕事を?」
「マルフ総督は下流の無産街の出身で、
エルテルに売る堆肥を作ってるんだよ。
貴族化商人だね。
総督になったのはもう3年も前だけど、
サンサがこの街に来る以前から、
いまもずっとやってる会社だね。」
「そんなひとでも、
分水街の総督になれるんだ…。」
人肌程度の心地の良い温度のお湯に
包まれながら、驚きが湧く。
ネルタを離れ、
防壁と山脈に囲まれた要塞都市。
丘の上に建つこの館には、
孤児の為の勉強会が開かれる。
――勉強会があるなんて学校みたいだわ…。
それを思うと期待に胸が高鳴った。
わたしは物心がつく以前から、
ネルタの塔に独りで暮らしていた。
学校に行った経験は一度もなく、
乳母達は居ても家庭教師は居ない。
塔の中には書庫があっても
塔で働く乳母達は文字も読めず、
彼女達が本に触れることは
許されなかった。
彼女達の働きもあって、
わたしは毎日のように風呂に入った。
彼女達が近くの小川から汲んできた水で、
わたしだけがタライの風呂に入れられる。
夏には湧く汗を服に染み込ませ、
冬には雪の降る中で凍えながら
わたしの為だけにお湯を沸かす。
乳母達の赤く腫れた手を見る度に
居心地の悪さがあった。
彼女達は粉挽きを行っていたけれど、
川には石臼を回す為の水車が無かった。
わたしは塔で長く退屈な時間を過ごして
色々な本を読んだ。
大人の使う言葉があって、
それに相当する文字を書けば、
なんとなく読めるようになっていた。
乳母達の会話は、言葉の教材になった。
ただ、幼かったわたしには、
良し悪しの分別がつかなかった。
真似をして良い意味の単語で喋っても、
言い回しから意味を理解していないので、
発言を叱られ、叩かれる時もあった。
理由のわからない暴力を避け、
乳母達と会話を試みることは諦めた。
わたしが暮らしていた塔には、
なぜだか本がいくつもあった。
いつの頃からか、本は日毎に増えて、
本の量が増えれば本棚も組み立てられた。
本を持ち込むひとは
ゴレムという名の司書官で、
地位の高い初老の男だった。

司書官の仕事は、
城にある本を読み、写し、管理する。
水辺草と杯でサイフォンの実験を行い、
床に水を零したわたしは乳母達に叱責され、
彼女達を止めたのがゴレムだった。
彼は塔に暮らすわたしの理解者になった。
塔に来る度にわたしに会い、
何冊かの本を空き部屋に持ち込んで、
そこが書室へと変わった。
わたしの住んでいた塔は風通しが良くて、
本の隠し場所に適していた。
持ち込まれる本は誰も読まなくなった本で、
それはつまりわたししか読まない本になる。
ゴレムにはわたしの年齢に近い
孫が居るらしく、乳母達とは違って
よく話し相手になってくれた。
わたしは彼から難しい書体や、
古代の神話、ネルタの定型表現を習った。
いつしかゴレムはなにも教えてくれず、
やがて彼も姿を見せなくなった。
わたしはまた、塔で独りになった。
去年の冬を前にして
追い出される形で塔を出た時、
同時に本も本棚も全て燃やされてしまった。
カヴァの軍が攻めてきたせいで、
わたしはベッド代わりの寝椅子と一緒に
艀に乗せられ、湖を渡った。
塔を追い出されて、城の北にある
下女達が住む月の館という別館の、
地下の食料貯蔵室へと移住を強いられた。
食料貯蔵室には誰も本を持ち込まず、
食材ではない本も当然、存在し無い。
乳母達から風呂に入れられることも、
話し相手さえも居ない。
ネルタとカヴァの戦争が終わり、
わたし達は地下から連れ出された。
――それから、あの…、地下の檻に…。
「ニクス!」スーが叫び、呼び掛けた。
「わっ! っぷ!」
気付けばわたしはお風呂で溺れかけていた。
飲んだお湯を浴槽の外に吐き、
それと共に鼻水が流れ出る。
鼻血の塊も混ざって出てきた。
「お風呂で寝たら危ないよ。」
「寝てしまうほど疲れてたんですね。」
「うぅ…。ごめん…。ふぅ…。」
花びらの浮かぶ大きな風呂で
昔の夢を見た。
独りだけの塔の中、
子供用の浴槽だったタライ、
わたしだけの本棚はもう無い。
こんな館に居ることが、
わたしにとっては夢に思える。
――匂いの記憶。
お湯に浮かぶ仄かな花の香りが、
わたしの記憶を混濁させた。
◆ 第3章 『花弁の湯』 おわり