わたしの鼻は
レナタの頭から漂うクァンの果汁の、
爽やかな香りに支配されていた。
やや鼻腔を突く臭気が、わたしの汗なのか
果汁の匂いなのか判別はできない。
「花汲み…。」次の仕事の名前を呟いた。
不思議な響きのする仕事に、
わたしは予想をつけていた。
流し台の前を通り、書室こと
サンサの倉庫の横を北へと抜ける。

建物と塀のあいだの
庇の下を通っていくと、
従業員の出入りする扉がある。
その扉の奥では、
フランジが目に涙を浮かべて嗚咽する。
こんな場所で煤染めをして、
果汁が目に入ったわけでもない。
辺りを漂う熱を帯びた異臭に
状況を察知した。
「花汲みってやっぱり、
こういう仕事なんだね。」
2階にある御不浄の裏側に、開け放たれた
厚いコンクリート造りの穴がある。
そこは不要物を溜める場所。
不要物の呼び名を変えても
花にはならず、色はそのままで
花の香りもするはずがない。
「あのディッパーで、
不要物をすくうんです。」
バケツとは別に置かれた棒。
大きな杯に長い柄が取り付けられた、
不要物に汚れた道具をディッパーと呼ぶ。

この道具の名前はわたしでも知っていて、
畑に水や堆肥を撒く為に使われる。
でも使ったことや手にしたこともない。
「これも大事な仕事の一つだね。
蠅が集まって、卵を産み付けたり、
食べ物や食器を汚したりして、
病気を運ぶからね。」
スーが口布をしたまま言って顔を歪める。
フランジの中には
咽て口布をしたまま嘔吐し、
泣き出してしまう子が居た。
わたしも嫌悪感はあった。
それでもつらい煤染めの後では、
不要物の臭気に拒否感はない。
それと頭の中にある灰色の靄から、
地下の檻の眺めが微かに思い浮かぶ。
ディッパーで不要物を汲み上げ、
バケツに入れる度に臭気が周囲に広がった。
率先して働き、励ますレナタを模範にして、
わたし達は仕事をする。
彼女に泣いて叱られたスーは、
今回ばかりは余計なことはせず、
吐いたフランジの口を水で濯がせていた。
穴の中から不要物を汲んでも、
ディッパーが重くて運ぶのに苦労した。
なんとか少量ずつを運んでも、
回数を重ねれば腕が疲れて
運べなくなった。
「あっ、なにしに来たの…。」
隣でレナタが手を止めて呟いた。
スーは宣言通りなにもしてない。
わたしが振り向くと、
そこにはサンサが立っていた。
「手伝いに決まってるわよ。
見て? 良いでしょ?」
サンサの後ろには大男が、
両脇に大きな道具を抱えている。

従業員用に備え付けられた、
外側の扉から二人は入ってきた。
サンサがいつも連れているアルは
ここには来てない。
――猫もこの臭気は嫌なのかしら。
「今回の、偉大なる発明はどんなの?」
「このくらい、みんな知ってるわよ。
管に仕込んだ内部の弁を上下させて、
不要物を簡単に汲み上げる仕組み。
つまりは井戸と同じ往復ポンプね。」
往復ポンプの構造は、
わたしも本で学んだことがある。
古代や遥遠代の科学技術を記した有名な本、
『退化の科学論』に描かれた水力機械。
玉石の庭の井戸にも取り付けられている。
濃い肌をした大男が持ってきたのは、
四角柱の鉄の管。
管は直角に組み合わさっている。
長い方の管からは鉄の棒が伸びていた。
わたしが本で学んだのは
井戸で使われるポンプであって、
サンサが組み立てたものは
長さも太さも異なる。

そもそもの用途、汲み上げる物が
地下深くの水と不要物で異なる為に、
この形になっているのかもしれない。
「さぁ、やってみましょうか。
まずはグルグス、お願いね。」
「任せろ。」
グルグスと呼ばれた濃い肌の大男は、
長い管の先を穴に落として角に固定する。
もう片方の、地面と水平に伸びる
短い管の下にバケツを置いた。
グルグスは鉄の棒を力に任せて、
上へ下へと往復させる。
「グーグス…。」小声で発音を試みた。
彼の名前はおよそ大陸由来で発音は難しい。
キャシュクが張り裂けかけるほど、
盛り上がった筋肉を膨らませる。
水平の短い管の先からは、
金属の擦れる不快感を伴う異音が
異臭と共に吐き出される。
力強く棒を何度も上下させ、
グルグスも息が切れている。
わたし達は両耳を塞ぎながら、
その様子をしばらく眺めていた。
ポンプは棒を上下させることで
長い管の中の板を動かして空気を抜き、
圧力で不要物を吸い上げる。
短い管から不穏な音が鳴り続け、
不要物が勢いよく吐き出さると
バケツを飛び越えた。
「グルグスっ! 出てるよっ!」
スーが叫ぶ。
「どう?」サンサが誇らしげに言う。
汲み上げたのは、額に汗して
精励したグルグスだったけれど、
問題の不要物は地面に飛散して
周囲に強烈な臭気を放った。
従業員や他のフランジは、
サンサの功罪に困惑しつつも拍手した。
彼女達が本心から
サンサを褒めているのかは、
わたしには分からない。
「それなら次はニクス、やってみて。」
疑問を浮かべて見ていたのが発覚し、
わたしはサンサから指名を受けたので、
グルグスに替わって棒を手にした。
手にした時点で細い棒は重く、
固定されているように錯覚する。
「動かせないと思うよ。」
腕が痛くて上にも下にも動かない棒を、
肩に担いで立ち上がる姿勢で押し上げる。
次は棒に吊り下がってみても、
棒は固く、わたしの身体を抉ってくる。
「レナ。手伝ってあげて。」
「サンサも手伝ってくださいよ。」
わたしよりも力のあるレナタと一緒に、
二人掛かりで棒を掴んでも動かない。
水平の管から不要物が出てくる様子もない。
「私にもやらせてっ。」
試しにスーがやってみても、
彼女でも動かず、固定が外れかける。
「これ、無理ぃ。」
下働きの女達が3人掛かりでも、
汲み上げるのは困難だった。
「…ふーん。
みんながグルグスくらい、
力持ちには使えるわね。」
肉体労働者でしか使えない道具。
「花汲みに使うつもりの道具なら、
油圧を使えば済んだはずだよね?」
井戸の水とは異なり、
粘性の高い不要物は、
往復ポンプと同じ仕組みでの
吸い上げは困難だった。
例えば、油圧を用いる方法もある。
摩擦や摩耗、熱に強い油を別途用意し、
一方から圧力をかけて小さな力を増幅させ、
内部の板を押し上げた方が効率が良い。

「技術の問題はあるけれど、
発想の転換ね。」
「失敗作ですよっ!」とレナタが糾弾した。
サンサは両の肩を大きく下げ、
口布の下で溜め息を吐いて言った。
「偉大なる発明に、失敗は付き物よね。」
「…なんなの、もぉ。」
開き直りとも取れるサンサを相手に
呆れるレナタだった。
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