第3章 第2節 夜の館の朝(第4項)
テーブルには焼き立てのパンと、
透明な金色をしたスープ。
スープ内部の温度差が起こす対流によって、
溶いた卵が液体の中で揺らいでいる。
卵の他には根菜類と共に刻んだ燻製肉。
スーが絞めて、ヤゴウが捌いた雄鶏の肉が
欠片になって入っている。
食事の前はみんなで略式に祈った。
フランジのスーとレナタ、
ドレイプのサンサとメノーは目を閉じ、
顎を引いて握った手を胸に当てる。
これはネルタでも見た食事前の光景。
この祈りの対象はもう存在しない。
――彼女達は
なにに対して祈っているのかしら。
ネルタに居た頃と違い、
王という祈りの対象を失ったわたし。
神の化身という王に向けて、
わたしの父に毎日のように祈った。
南に聳え、神の象徴とされる
天蓋山の方向に祈りを行う。
跪き、目を閉じて軽く握った手を
胸に当てて呼吸を控えて、祈りに集中する。
乳母達に見られながら朝、昼、夕と
就寝前に欠かさず行わなければならない。
塔に住んでいた頃は、
天蓋山のある南へ向かって毎日祈った。
祈ってもわたしは冬を前に塔を追い出され、
城から南に位置する『月の館』と呼ばれる
別館の地下で過ごすことになった。
別館の地下から、
王の住む城のある北に向かって祈る。
地下で暮らす若い下女達は、
神の象徴とされる天蓋山には祈らない。
神の化身である王への祈りを行うと、
神の象徴になる天蓋山に背を向けてしまう。
神の象徴に背を向けて祈るべきなのか、
神の化身と称する王に祈るのが正しいのか。
この疑問に誰も答えられなかった。
わたしの疑問は誰にも判断ができず、
分からないことを分からないままにして、
祈りを行っていた。
隣のひとには口も聞いて貰えず、
わたしは叩かれ、蹴られ、罵られ、
思想に標準が存在しないことを知った。
祈らなければ叩かれるので、
老いた助産師の隣で真似して、
跪いて無意味な時間を過ごす。
王は別館の地下に姿を見せない。
やがてカヴァに捕らえられたわたし達は、
知らない地下の檻で暮らすうちに、
いつしか祈らなくなった。
「ねぇ、スーはなにに祈ったの?」
隣のスーに小声で訊ねた。
「お祈りの対象?
そんなに難しく、
考えなくてもいいんだよ。」
スーが老助産師のようなことを言うと、
向かいのレナタも不思議がった。
「ニクスは祈らないんですか?」
「レナ、美人がお粧ししてるわね。」
サンサがレナタの銀髪の中から
赤土色の羽毛を摘み取ると、
膝の上に座るアルの鼻の上に乗せた。
アルはくしゃみを何度も繰り返して
頭を振る。
「もう、サンサってば。
意地悪をしてはダメよ。」
「ふふふっ。
アルが猫みたいな
くしゃみをしたのよ。」
「アルは猫ですから当然ですよ。」
レナタに叱られる年上の女。
「ニクスの疑問も無理はないわね。
普段の祈りも、考えなければ
ただの因循、習慣だもの。
誰も疑問には思わないでしょ。
オーブも祈りはするけれど、
食前には祈らないのよ。」
「食後に祈るんですか?」と、レナタ。
「狩猟民族だったから、かしらね。
狩りを行う前に集中する為に祈って、
狩った時や祭事で祈るの。
狩りでの事故は避けたいでしょ?
狩り過ぎて個体数が減っては、
狩猟民族には死活問題よね。」
「ニクスはオーブの出身なのかしら?」
今度はメノーが訊ねてきた。
わたしは首を横に振ろうとすると、
それよりも先にスーが口を挟んだ。
「メノー、ニクスはただの孤児だよ。」
「あら、ふふっ。
ナルシャだったわねぇ。」
ナルシャは『名も無き者』
という意味を持つ。
この館では家名を持たない孤児、
フランジがそのように名乗る。
サンサは、レナタの羊毛のような
豊かな銀髪の頭を軽く指で突いた。
「スーの言う通り、
お祈りに決まりなんてないのよ。
今日早起き出来たことを
祈ってもいいわね。
毎日おいしい食事を用意してくれる
ヤゴウに感謝の気持ちを込めるとか――、
それは本人に言った方が喜ぶわね。
普段はあんな渋顔だもの。
例えばオーブでは、
血肉になる鶏の命への
敬意を払ったりね。
お祈りなんてものは、
自分の『魂』に向き合う為よ。」
「自分の魂…。」
――これもニースだわ。
「魂ってなんですか?」
わたしに続いてレナタが疑問を口にする。
「魂は大陸の南方、クレワズだと
これを『自我』なんて呼ぶわね。
思想の言葉ね。
わたし達はもう
母乳を求めて泣く赤子や、
巣で餌を待つ雛鳥ではないでしょ?
なにを考えて今日を生き、
なにを目的にこれから行動するのか、
自ら考え、感じ取るのが魂。
魂は人間以外にもあったりするのよ。
馬や鶏、
アルも持ってるんでしょうね。」
「生物に限定するんでしょうか?
絵や壁画には、その魂はあるんですか?」
サンサの言う人間以外、生物ですらない
物質の魂についてレナタは考えている。
「それは観測するひと次第ね。」
「ひとに関係するものなんですね。」
「言葉を使った思想の概念だもの。
わたしが
『メノーのモザイク画には魂がある。』
と言ったとしても、それはわたしの
感覚で述べたに過ぎないわ。
それをレナが
『サンサが言っていたから、
あの絵には魂がある。』
と伝えてはダメよ。」
「…サンサが『魂がある。』
と言ったのに、ですか?」
サンサの説明にレナタは首を捻る。
――例え話よね…?
――大人の発言に、
子供は正誤の判断なんてできないもの。
パンを囓っているスーが、
なぜかわたしに視線を向ける。
わたしは自信なく首を縦に振った。
「サンサは
『話に王の服を着せる。』
って言いたいんでしょ。」
塔に住んでいた頃、
司書官のゴレムに教わった諺。
――誰かが王の服を着たところで、
王には成り代われないわ。
――王の暮らしや態度を真似しても、
戴冠して周囲に認められなければ、
王として敬われるはずはない。
――貴族でも下働きでも、
奴隷でも罪人でもそれは同じよね。
――つまり王の意見は、
自分の意見にはならない。
「ニクスの言い回しは独特ね。」
言ったサンサは、
なぜかわたしのお皿に果物を置いた。
バイテスという明るい緑色の粒は、
ジュースや酒、染料や保存食など
幅広く使われている。
乾燥させた保存食になり、
ネルタでは育たないこの貴重な食材は、
幼い頃に少量しか口にした経験がなかった。
それがこの館では毎日のように供される。
「…言葉の服ですか。」
あまり評価されなかった言い回しも、
レナタは彼女なりに理解を示してくれた。
わたしを見て力強く頷くと、彼女もまた
わたしのお皿にバイテスを置いた。
スーとメノーまで同じことをする。
困ったわたしはそれを1粒手にした。
バイテスは甘さが控えめで、
酸っぱさと水っぽい味が口の中に広がる。
理解し難い館の因循に、
わたしは首を捻った。
「なんだか話が逸れたわね。
毎日の食事は噛んで食べて、
遊べる時は思う存分に遊んで、
学べるだけの体力をつけなさい。
わたしのお祈りなんてそんなものよ。」
言って微笑を浮かべるサンサは、
わたしをそう忠告――諫んだ。
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