
スーに手を引かれて西へ進むと、
彼女の言っていた川沿いに出る。
今度は運河ではなく流れのある川になる。
近くには労働者達が暮らすという
4階建ての建物が並び、その隙間には
昼でも日当たりの悪くて細い路地が見える。
子供達が転がり跳ねる球体を、
追いかけては蹴って遊んでいた。

箱型馬車や乗合馬車は減り、
驢馬や肉体労働者達が荷物を背負い、
鐘楼のある島への橋を渡っていく。

幅広の橋でも渡れるのは荷車程度で、
鉄杭の突き出たこの橋に馬車は入れない。
「ひとが多いね…。
分水街の祭りって春に行うの?」
島の南側、鐘楼の長い影が伸びた広場には、
木で組んだ簡素な店にひとが並んでいる。
冬を前に収穫を祝う祭りでも、
ネルタではこんなに大勢のひとを
見る機会はなかった。
「日中この場所は市場として、
民衆に開かれてるんだよ。
ここにお店を出すには別途
納税して、営業許可を得ないと
いけないんだって。
それでも商売が成立するのは、
狭い街にお店を持つより、
賃料が安いからみたいだね。
中には、継続的な商売をしてない
お店も紛れているけどね。」
「これで市場…。」
まるでこの街の住民全員を集めたかのような
賑やかさに驚き、口を開けて呆けてしまう。
ネルタの塔から市場を眺めたことがあった。
塔の周辺は城から離れた過疎地で、
店もひとも片手の指で数えるより少なく
閑散としていた。
そんな記憶はずっと前のもの。
島の市場には木の骨組みと
染めた布で飾った店に、
濃淡様々な肌や髪色をしたひと達。
この都市に来た時も、
西の広場には露天商が集まっていた。
「街の中心という立地もあるわね。
戦争が終わって西門も開放されたから、
東西の商人の交流が盛んになったのよ。
中には詐欺を働く連中も居るわよ。」
サンサの説明を聞きながら、
夢みたいな光景を眺めて深く息を吐いた。
食器や工芸品などを買い求め、賑わう市場。
緑の上では、頭巾と宝飾巾をした女が
股に挟んだ太鼓を握った棒で打ち、
男の咥えた高い笛の音は風に乗せて、
広場に響き渡る。

女達の頭巾の奥の髪は揃って短い。
大勢の男女が花を眺めて、
酒を飲み、踊り、騒いでいる。
「あそこの道化は漁の神なんだって。」
遠くで真黒な服を着た
長い手の神とは別に、別に長い足をした神。
二人の道化が歩いている。
不安定な姿の道化は、
倒れないように杖をついて巧く歩き、
泡玉を飛ばして足元の子供達を魅了する。
他にも台に立つ人形使いの姿もあった。
銀色の髪を覗かせる
黒装束姿の女人形使い。

糸で手足が吊るされた人形を棒で操って、
生きているかのように巧みに動かす。

その技術は子供のみならず、
大人達からの注目を集め、
似たような人形を売る。
「ニクスはなにか欲しいものってある?
サンサが買ってくれるよ。
あ、帯紐売ってるかな。」
しばらく人形使いを見ていたせいで、
スーから子供扱いを受けてしまった。
「今日は街の案内と、
ニクスの体力作りを兼ねて
軽く散歩するだけよ。
館を脱走するのなら、事前に
街を知っておくことも必要でしょ?」
サンサに言われ、同意できない。
「まだしばらくは休んだ方が良いわよ。
身体を休めるだけというのも、
退屈でしょうけれどね。」
彼女は近くの長椅子に座って、
膝の上のアルを撫ではじめた。
「ニクスの虚弱体質は、
運動と食事で改善できるのかしらね。」
サンサがアルに向かって呟くと、
ミャオと返事が返ってくる。
彼女は白い顔を上げて言った。
「スー。
ニクスを連れてお店を見て回るなら、
西側に行ってはダメよ。」
「そのくらい分かってるよ。
ニクスも座って休もうか。
帰りは丘の上まで、
ずっと上り坂だもんね。」
気付けばわたしは肩で息をしていた。
預かったコートが酷く重たく感じ、
座った途端にスーに寄り掛かってしまった。
「今日はもうお疲れかな?」
「自力で歩くのが無理なら、
酔っ払いに背負わせるわよ。」
「ひぇっ…。」
サンサの提案で息を吸った時に驚き、
おかしな声が出た。
背筋を伸ばして横を見ると、
ハーフガンがまたわたしを睨んでくる。
――背負われるのは、絶対に嫌よ…。
足首まで巻いたサンダルの先で、
地面の小石を蹴った。
踵を固定する革が擦れて、
気になる痛みを手で撫でた。

霞む天蓋山を眺めながら休憩をする。
麓の深い森までは見えず、
遠くの防壁の先しか見えない。
たとえ防壁が無く地平線が見えたところで、
球体の星の上では観測に限界があって、
隣の村落も見ることはできない。
「あの防壁の向こうは、
この街の中でも限られたひとしか
行くことが許されないんだよ。
サンサみたいな貴族様でもね。」
「肩書きに権利は含まれないわ。
法律で厳しい罰則を設けたところで、
動物の衝動は制限できないもの。
それに目的が無ければ、
行ったところで意味が無いのよ。」
「禁止してるのは、ネルタがあるから?」
スーは頷いて、
わたしのどんな質問にも答えてくれる。
「昔のひとが条約で取り決めた禁足地。」
「ニクスは歴史も詳しくないのね。」
「う…。」
事実を指摘されては否定もできない。
わたしの暮らしていた塔には、
いくつかの本があった。
乳母達は文字が読めず教わってはいないし、
読める本だけを読んで居たに過ぎない。
独りで身に付けたものもあって、
覚え違いも数え切れないほどある。
特に歴史学は史料が無いので、
知識が偏っている自覚はあった。
――ネルタがあそこにあるのね…。
天蓋山の麓には故郷のネルタがある。
天蓋山と防壁を眺めて、
緑豊かな湖の景色を想像するしかない。
――湖から溢れ出た水は、
湖には戻らない。
以前、サンサに言われた通り、
わたし一人で帰ることができない場所。
笑顔に満ちた市場のひと達。
振り向いて背後に建つ鐘楼を見上げた。
瞼を閉じて、ネルタに住んでいた頃の、
塔で過ごした日々を思い出す。
窓から差し込む陽の光を頼りに、
独りで本を読んでいた。
――これはまだ、夢ではないわ…。
目を開けば、隣に座るスーとサンサがいる。
――彼女達が、わたしから塔で暮らしや、
故郷を追い出したわけではないもの。
わたしは言葉を呑む。
夢みたいな生活、夢のような街。
昼を知らせる鐘が高い空に鳴り響いて、
見上げると、展望台から白色の帯の付いた
ロープが降ってきた。
こちらを見下ろしてくる影を見つめると、
視線に気付いたのか姿を隠してしまった。
「ねえサンサ。
倉庫に板の余りってあった?
ニクスの札を用意しないと。」
「書室に材料なんてないわよ。
トレイを分解でもしないかぎり。」
「ガラクタばかりだもんね。」
「情熱の残滓をそんな呼び方しないで。
札用の板くらいなら
ここで買えばいいわ。
ここらの材木屋なら
その場で切ってくれるでしょうし、
ついでに箱も作らせればいいわ。」
「やったー。」
スーが喜んで跳ね、わたしの右腕を
引っ張って立ち上がらせた。
途端、わたしのお腹が鳴った。
いまのわたしは、
自分の身体も思い通りにはならない。
「あなたのお腹は正直ね。
一先ず、食事にしましょうか。」
サンサの膝の上でアルがミャオと鳴いた。
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