巨大な防壁と山脈に囲まれた要塞都市。
丘の上に立つ娼館、夜の館から西に行くと、
川に挟まれた島には高い鐘楼が建っている。
「あの鐘楼が建ってる島の名前は
『日時計島』っていうんだよ。」
黒羊毛のコートを着たスーが先頭を歩き、
わたしの手を引いて街の説明をしてくれる。

金髪の彼女の、二つの三つ編みが
肩や背中を自由に動き回る。
長くて綺麗な金髪が通行人の目を奪う。
「…鐘楼が日時計の代用品みたいだから?」
とは言ったものの、わたしは鐘楼が
日時計になっているとは思わない。
日時計は、古代から使われていた
影を利用して、時刻を測る道具。
あれほど巨大な建造物が日時計になれば、
影の長さや傾きを計測するのも苦労する。
あの鐘楼が、いつ建てられたものか
わたしは知らない。
「暦を作る天文学の拠点で、
昔はあそこに日時計があったのよ。」
声の方角に振り向くと、
後ろを歩いていたサンサが説明した。
「太陽が出ていなければ使えないし、
置かれた日時計は、近くにいるひとしか
時刻が分からないでしょ?
ハンドベルを鳴らして、時刻を伝えた
なんて記録があったわね。」

黒色の頭巾と宝飾巾で顔を隠して、
傭兵を殺したあの夜と同じ格好。
彼女は木製の義腕を首に下げて、
裾の長い上着と紫紺色の飾り布で
その義腕を覆い隠している。
腕には薄い黒色の
チュール生地のアームカバーで、
肩近くまで肌を覆っていた。
チュニックについたフリルが、
白い肌の首元を隠す。
裾は長くて踝まで伸び、
歩く度に豊かな皺を作って揺らした。
胸元には銀糸の飾緒が渡り、
彼女の身分を示す。
雪のように白い肌は、
ほとんど目元のみしか見えない。
――これもニースだわ。
少女のような外見の彼女が、
こんな格好をする理由。
義腕と一緒に黒猫のアルまで抱えている。

――重たくはないのかしら。
お腹の上に乗られた時は、
息ができなくなるくらい重たく感じた。
サンサの後ろにはハーフガンが、
眉間に力を入れてついてくる。

わたしを睨みつける目が怖い。
ハーフガンは護衛として、
サンサの命令で連れ出された。
わたしも彼と同じく、
スーやサンサに連れ出されている。
「日時計は太陽の傾き、
作る影の長さで時刻が分かるよね。
肉体労働者や奴隷を、
日没までずっとは働かせられないからね。
街が繁栄すると
川の氾濫や治水工事の事故で
死者を悼む為に建てたのがあの塔だよ。
それを何度か改築して、
時刻や火災を知らせる為の
いまの鐘楼になったって。
展望台から吊り下げられた
ロープの帯の色を見ると、
だいたいの時刻が分かるんだよ。
見慣れると壁面につく影で、
時刻も分かったりするよ。
そんな名残りでいまも、
日時計島って呼ばれてるんだって。」
川に挟まれる島に建てられた
六角柱の高い塔。
わたしは邸宅地を歩きながら
スーの説明を聞いた。
「老朽化で改築計画もあったんだけどね。
日時計島の鐘楼って観光の名所なのに、
総督でもあそこに入ったり
登れたりはしないんだよ。
まるで禁足地だよね。
ニクスも登ってみたいよね。」
塔で育ったわたしは首を横に振る。
鐘楼には興味はなく、
気になることが別にあった。
「ねぇ、スー。
本当にこれ、貰っていいものなの?
脱いじゃダメ?」
わたしは、館の庭で眩暈で倒れた時に、
都市で一番偉い総督のマルフに掛けられた
白羊毛の厚いコートを着ている。
コートは大人の男用なので裾や袖が長い。
長い裾のおかげで膝まで隠れても、
袖は何度か捲ってようやく手が出せた。
それに重たい。
「この街の娼婦や男娼は、
肌を露出してはいけないんだよ。
服装を規定しないと、
裸の娼婦だらけになるもんね。
だからってフランジのニクスが、
ドレイプのサンサの為に客引きや、
代わりに会談をしたらダメだよ。」
「そんなことしないよ…。」
街中で娼婦が裸になったり、
子供が客引きをすれば、
秩序が乱れるのは想像するまでもない。
「娼館や賭場しかない街なのに、
風紀には口喧しいのよ。」
「風紀…。」
サンサが言った風紀とは
行為の定めであり、法に繋がる。
彼女が頭巾や宝飾巾で
肌を隠しているのも、
法律で定められていた。
「ニクスはまだなにか質問があるのね。」
わたしの考えはサンサに見透かされる。
「…コートは返さなくていいの?」
「ニクス。」
彼女は語気を強めてわたしの名前を呼んだ。
「相手に質問をする前に、
広く、深く考えなさい。
疑問を抱くことを否定したり、
質問行為を叱ってるわけでは
ないわよ。
生きていく上では欠かせないものね。
わたしはなぜ生きているのか、
この島はどうやってできたのか。
わたし達はどこから来て、
何者で、どこへ行くのか。
こんな謎解きにあなたは答えられる?
軽薄な質問という行為を諫む…、
忠告ね。」
――諫む…。
サンサは古く難しい言葉を使う。
「質問する相手は
なんでも知っているひとかしら?
あなたでも分かる質問はする必要がなく、
軽薄な質問は知能を試す行為に等しい。
まぁ、スーだから良いけれどね。」
「あはは。それ、軽薄。
私はなんでも答えるよ。
ニクスに教えることで、
学びに繋がるからね。」
「…角度や深度はなにかの比喩?」
「なんの話?」言ったサンサが訊ねてきた。
「広く、深くって…。」
「『感情論』っていう本の引用だね。」
わたしも覚えのある難解な本の名前だった。
「広くっていうのは視野や観点とかだね。
自分以外の身分や地位、
階級なんかで考えるといいかも。
で、深くっていうのは難しくて、
目的や意識、意向が含まれるね。
忘れ物をしたと言って館に取りに戻る
お客さんの考えや立場、館の従業員、
それ以外のひとからはどう見えるかな?」
「答えを言ってるようなものよ、それ。」
スーの説明にサンサは呆れる。
「あっ、忘れ物をしたと言って、
嘘をついて館に入ってくるから?」
「ニクスとは真逆ね。」
言ってから気付いて、
恥じていたところを指摘された。
「その通りだね。
馬だって、自分の忘れ物は
取りに戻らないもんね。
マルフ総督はそんなことしないけど、
コートや身分証を意図して忘れて、
日に何度も娼館に入れば疑われるよね。
一度出た娼館に理由を付けて
館に戻って、娼婦と逢引する。
昔からある手法だよ。」
――広く、深く考える…。
納得したわたしは、
サンサの言葉を頭の中で繰り返した。
館のある丘を下り、
しばらく西へと歩くと大通りに出る。
石造りの道は歩道と車道に分かれ、
馬車は途切れず走り続け、
道を行き交う人々は列を作る。
館を抜け出した夜とはまるで違う景色。
こんな地方都市でも
植物がひとの手で管理され、
清掃と整備が行き届いている。
街の中には、黒のキャシュクと
黒のスラックスを履いた黒装束姿の、
南部に住むオーブ領の人間も見かけた。
オーブ領の格好をした人間の多くは、
頭巾や宝飾巾もして顔を隠している。
館もこの都市も、水が豊かに流れている。
「ここは雨水を貯めたり、流したり、
物流で使ったりする第2運河ね。
水位は水門で常に維持してるんだよ。
ここから南か、東に行くと、
曲がった形の第1運河が通ってて、
鐘楼を越えると第3、第4とあるよ。」
橋の手摺の上に顎を乗せて、
スーと一緒に運河の様子を眺める。
曲線構造の橋の下には、
排水を集めた暗い色の水が貯まっている。
運河は周囲に臭気を放つ。
塔から見た湖とは違い、
魚影は見えないし、水流も水草も無く、
花びらや落ち葉などのゴミが目立つ。
水流のない川を初めて見たけれど、
変化がなく、見ていて退屈になる。
――これでは水車も石臼も回らないわね。
船の道。巨大な排水溝。
丸太を繋いだ船が水夫を乗せて、
運河を北から南へと上っていく。
ネルタでは湖の『括れ』を渡る際に、
この艀に奴隷や驢馬を乗せて運ぶ。
「あれは艀って言うんだよ。
名前は知ってる?」
「うん。」
――乗ったことあるもの。
出自は明かせず、口には出さなかった。
流れる川とは異なる水の道を利用して、
運河は重たい木材や石材を乗せた平台の、
艀を曳く船が行き交う。
「それなら街の説明の方がいいかな?」
スーの提案にわたしは頷く。
「運河より西の川沿いは、
労働者の住んでる地域だね。
館に出入りする外の業者も住んでるよ。
この近くにはオーナーの館があって、
ここからさらに南に行くと、
メノーの病院があるよ。」
「今日は病院には行かないわよ。」
「分かってる。」
スーが今度は南の空を指示した。
「今日は晴れてて、
天蓋山がよく見えるね。」
六角柱の高い鐘楼から長く伸びる影の先。
防壁の向こうには、
山頂に雲を戴く天蓋山。
「この都市の名前って、分水街…?」
わたしは鐘楼より西から、
川沿いを馬車でやってきた。
雄大な天蓋山が真南にあれば、
その麓には深い森と広大な湖が存在する。
遠く小さく見える天蓋山は、
空気の層によって霞がかっていた。
湖から北の下流にある都市を、
故郷のでは分水街と呼んでいた。
「この街に住んでいるひとは、
分水街なんて呼び方は避けるよね。」
「それなら、なんて呼ぶの?」
「うーん。それがね。
『この街』としか呼ばないんだよね。」
「分かり難いわよね。」
と、サンサがわたしに同意を求めてくる。
「自分達が住んでるだけの街に、
気取った呼び方なんてしないから。
街の外に出なければ使う機会もないし。
サンサ達の使う南部訛りと同じだよ。
カヴァとオーブは東西で離れてるけど、
南部訛りってだけで同じ言語だもんね。
カヴァ訛り、オーブ訛りなんて
わざわざ区別したりしないよね。」
わたしとサンサは南部言葉を使っていても、
館では誰からも指摘されなかった。
サンサは東のエルテル領の養女なので、
南部言葉を使うのも奇妙な話だった。
彼女は、エルテル領の南に接する
オーブ領の出身なのかもしれない。
「この島でしか使わない言葉を
ナルキアンなんて呼ぶのは、
大陸から来たひとに対して
大陸語を使う時だけだよね。
大陸だとエンカーン、ソーンズ、
クレワズは別の言語だから区別するけど、
こっちみたいに包括して大陸語
なんて呼ばないんだよね。
この島で大陸語って、主に
エンカーンのことしか示さないし。」
「話が逸れてるわよ。」
博識なスーに圧倒されて
頷くことも忘れていると、
サンサに指摘を受けて彼女は話を戻した。
「この街を分水街って呼び出したのは、
治水工事で連れてこられた奴隷達だよ。
いわゆる鄙言だね。
西部中央や境界街なんて呼称はあって、
分水街って名前が定着したのは、東の
エルテルが呼び始めたからだね。
図書館の保管室にある書類を調べると、
中央領って書かれたりするよ。」
「中央、領?」
「字面が冴えないから、
みんな使うのを避けるんだよね。
だってただの中央の領地って意味だよ?
エルテルにも叡智の街って呼ばれる
中央街もあるから、呼称とするには
紛らわしいし使いにくいよね。
メーニェの領地とも記されないし、
治めるのは領主でもなくて
総督と元老院だもん。
治水工事の記録はあっても、
中央領とは誰も呼ばないかな。
この街の外のひとほど
分水街って呼ぶんだよね。
サンサはなんて呼んでた?」
「分水街でしょ。
オーブやエルテルの年寄りは、
刑場なんて呼んでたわね。」
「刑場…?」
「処刑する場所のことだよね。
昔は罪を犯した強制労働者が多くて、
この街では処刑が民衆の娯楽に
なってたんだって。」
「夜の館が建ってる丘の上が
その刑場だったのよ。
『泣けよ、叫べよ、罪人共。
その罪を悔い、穴に落ちよ。
我が明日を返せ。
赤土の丘。』
ってね。」
「赤土の丘?」
「刑場の跡地は
周囲が血塗れだったからだって。
だから夜になるとねぇ。ふふふ…。
玉石の庭にある井戸の水が、
処刑されたひとの血で
赤く染まるんだよぉ。」
声を低くして語気を強めたスーに、
わたしは目を見開いて驚いてしまった。
「え?
それって、水に鉄が混ざるから?
でも夜に限るとなると、
観測する時の光の反射に
関係するのかな。」
スーとサンサは顔を見合わせたので、
正解ではないらしい。
「言った通りだったよね。」
「ある程度考えのある子には、
こうした話は通じないのよ。」
「ファウナはどうだった?」
「あの子は言う側よね。」
「言ってたね。」
二人はなにか通じ合っている。
――ニースだわ。
わたしは言われた通りに
広く、深く考えてみる。
「太陽や月の位置に関わりがある?
でも夜だよね? ポンプの錆?」
「潮汐も関係ない、
フランジに広めた作り話よ。」
サンサが冷たく言う。
「この話は夜に井戸には近付かない、
って脅し文句なんだよ。」
「え? 赤くならないの?」
「今度、見に行こうか。」
「話が逸れてるわよ。
それで、なんの話だったかしら。」
「この街の名前だね。」と、スーが言う。
わたしも彼女の言葉に合わせ、
首を縦に振る。
「分水街は地域間の交易も盛んだし、
流行の根拠地で人気の都市よね。
歴史のあるエルテルやカヴァでも
地方は過疎だから、分水街に来るか
分水街の流行を追いたがるのよ。」
「この街は旅客も多いよね。」
――スーは分水街の子みたいだけれど、
サンサはエルテル領の領主の
養女なのよね。
――それ以前はどこに住んでいたのかしら?
南部言葉だからオーブ領?
――彼女はどこで生まれて、
どこからやってきたのかしら。
そんな疑問に湧いた。
わたしはこの疑問を
広く、深く考えることにした。
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