第9章 第4節 赫灼の夜(第2項)
収穫祭で賑やかだった舞踏室も、
夜が深まれば館と共に深い眠りにつく。
どこかの部屋の扉が開いた。
外廊下を歩く素足の音。
ベッドで眠っていたわたしは、
何度かの浅い眠りを繰り返していた。
劇場にある階段状の客席を登ったせいで、
足が熱くて久しぶりに身体の節々が痛い。
天窓から降り注ぐ月光で、
瞼を閉じていても眩しく感じる。
隣のスーはいつものように静かに寝ている。
今日のことを考えるほど、
眠りから遠ざかってしまう。
月光を拒んで身体を捻ると、
また肉体が悲鳴を放ち、
浅い眠りから覚める。
目を閉じたところで、耳は塞がらない。
どこかで虫が翅を擦り合わせ、
雌を誘う演奏をしている。
玉石の庭から、石の擦れる音。
犬の遠吠え、夜鳥の呟き。
足音が階段を上り、
外廊下を通って近付き、
部屋の扉が開かれる。
この部屋に誰かが入ってきた。
わたしは寝ている振りをして、
毛布の中で静かに息を吐く。
足音は部屋の奥へと向かう。
奥でクッションが何度か叩かれ、
低い音が耳を打つ。
護衛棟の誰かが酔って騒いでいるのか、
また侵入者が居たのかもしれない。
近付く足音に荒い息遣い。
鼻腔を刺激する臭気に覚えがあった。
また寝返りを打ち、
スーのベッドの方を見た。
月明かりの下に、誰かが立っている。
ユヴィルの館の、地下室で見た赤い髪。
その子はスーのベッドを見下ろして、
闇色に濡れたナイフを振り下ろした。
「トリンッ!」
わたしは反射で叫んで、
トリンの背中に跳び掛かった。
トリンの振り下ろしたナイフは、
羊皮紙も毛布も貫き、
スーのベッドに突き立てられた。
「トリンッ! なんでっ?」
わたしが叫んだ疑問に、
トリンの答えは必要なかった。
「ニクス…トリッ…?」
スーが痛みと苦しみから、
碧色の目を薄く開いて見せた。
苦しむスーに、トリンが鼻で嘲る。
咳き込みはじめたスーは、
唾液ではない暗い液体を吐き出した。
月光が彼女の口から垂れ出る血を照らし、
何度か咳をして身体が苦しみを訴えている。
「スーッ! 待って! サンサッ!」
わたしの叫び声は悲鳴に近い。
「サンサは…もう死んでる。」
トリンはスーのベッドから抜き取った
ナイフを眺める。
ナイフに突き刺さった羊皮紙が
重さで床に落ちて、暗い血が
インクのように滲み始めた。
「ニクス。
あんたはこんな館に
居るべき人間ではないのよ。
ネルタのお姫様なんだもの。」
「…トリン?」
その言葉の意味が、理解できない。
「あんたはネルタの女王になるべきだわ。」
――愚かだわ…。
わたしが出自をトリンに教えたことで、
彼女はこの妄動に及んでしまった。
「…トリンが言った通りよ。
わたしの言葉には
なんの根拠もないわ。」
「あんたがわたしに従えばいい。
わたしが後見人になって、
あんたを女王にしてあげる。
この館を、分水街を
新しいネルタにするのよ。」
トリンの浅はかな考えからくる妄動は、
理解も許容もできない。
彼女の復讐と空虚な欲――。
「欲が思考を止めて、
愚者は炎を崇めるのね…。」
わたしの中にも憎悪の感情が湧き立つ。
「ニースがわたしに逆らうの?」
「トリンなんかに従わないわ。
ナイフで脅さないと
なにもできない盗賊の真似で――。」
「このぉっ!」
高く振られたナイフにわたしは、
反射的に顔を背けて手を前に出した。
「あぁっ!」
わたしは布切れみたいに引き裂かれ、
痛みが全身を襲った。
右腕から液体が流れ続け、
手が力を失って垂れ落ちる。
膝は身体を支えられず、
ベッドに腰を預けて、
湧き出す血に濡れた股布を見た。
縦に斬られた腕が持ち上がらない。
激しい痛みに、身体も動かなくなった。
「こんな娼館でっ、
娼婦になる必要ないのよっ。」
わたしは喉を切られてしまったのか、
もう叫ぶ気力も失っていた。
「あんたなんて居なくても良かったのよ。
わたしが王女になればね。」
トリンは僭称することで、
自分に価値が生まれると考えた。
ナイフを振り上げた彼女を見上げた。
トリンが左手にしたナイフの刃先は、
彼女の肩から胸に向けて
突き立てられていった。
「あんた、なんで…?」
薄闇に溶け込むサンサの、
冷たい瞳がわたしを見た。
「盗賊がこんな夜中に燥いで。
浅ましいわね。」
ナイフを捻り込まれたトリンは力を失い、
サンサの胸に寄り掛かり、床に崩れ落ちた。
「サン…、サンサッ、スーが…。」
「これを持っていなさい。」
サンサは飾緒を手に取って、
わたしの左手に持たせる。
掴む指に力が入らず、指に巻く。
わたしの上腕にその飾緒を固く巻きつけ、
彼女は止血をしてくれた。
でもわたしよりも深刻な状態のスーがいる。
「スー…? ねえ…?」
わたしが何度か名前を呼ぶと、
スーは僅かな呼吸を続けている。
彼女は刺された肺に血が流れて苦しみ、
吐き出そうと咳を繰り返した。
「嫌だよ…わたし。」
「ファウナ。」
サンサは別の名前を呼んだ。
背中が手燭で照らされていた。
開けられた部屋の扉から、
ファウナが入ってきた。
騒ぎに気付いてこの部屋を見た彼女は
状況に困惑している。
「護衛を起こして、馬車を用意させて。
メノーにスーを病院まで運ばせるわ。」
「わっ、分かった。」
わたしはベッドに座ったまま、
なにもできずにスーを見ている。
スーは咳も弱くなって血の塊を吐く。
「待って…。」
わたしの声は、苦しむ彼女には届かない。
部屋に入ってきたハーフガンが、
血に濡れた姿のスーを横抱きにする。
力無く垂れ下がるスーの手の、
手首にした蹄鉄の装飾品が光る。
「アルッ!」
サンサが部屋の奥のアルを呼んだ。
アルは高い方の棚に上がって、
スーの胸に跳び乗った。
「おいっ!」
「いいのよ。これで。
後はメノーに縫って貰いなさい。」
ハーフガンに代わって、
アルがミャオと返事をした。
「置いてかないで…。」
「ニクスはここで処置するわ。」
サンサがわたしの肩に触れると、
わたしは腕の痛みで身体が強張る。
「…分かった。」
ハーフガンがアルを乗せたスーを抱えて、
部屋を出て行ってしまった。
「サンサ…、トリンは?」
トリンは床に倒れたまま、
ずっとわたしを見ていた。
「もう死んでるわ。」
死体に毛布が掛けられ、
護衛達が運び出す。
「…スーは?」
「メノーの病院に連れて行ったわ。」
「サンサは?」
目の前の彼女のチュニックは、
血で濡れて月光に照らされる。
わたしは痛みと混乱で、
考えがなにもまとまらず、
大事ななにかを見落としている。
また頭の中に靄が漂う。
「早くその傷を縫いましょう。」
右腕の肘から先の感覚がない。
サンサは棚から革袋を取り出して、
わたしの前で袋の口を開いた。
見覚えのある白色の、セリーニの塊茎。
わたしの足元に座るイオスが、
鳴きも跳びつきもせずに見上げている。
イオスの開いた瞳孔が月光に輝き、
塊茎の臭気に対し、暴れたりしない。
長く太い尻尾が揺れて波打つ。
血の臭気に混ざった
塊茎の刺激臭に咽ると、
背中の動きに合わせて腕が痛んだ。
「これを噛んで飲んでおきなさい。
痛み止めよ。」
熱を帯びた腕の痛みと身体の冷たさに、
覚悟して塊茎の一粒を口に含んだ。
「あっ…がっ!」
噛むと口の中に渋味と鼻腔を突く青臭さ、
舌を刺す痛みと喉を焼く辛さが、
湧き出す唾液と共に流れ込み、
反射で吐き気に襲われる。
「舌を噛まないように、
口布を噛んでいなさい。」
水袋を押し込まれ、喉が水で溢れる。
サンサになにかを言われたけれど、
理解を拒み、首を横に振る。
触られた傷の痛みで、なにも考えられない。
ベッドの縁に横臥し、
足の指を動かして悶えながら耐える。
「ねぇ…、レナ…は…?」
反射で流れる涙に目を閉じて訴えても、
わたしの口に布が入れられる。
「しばらく堪えなさいね。」
冷たい水が傷口に注がれたのを見て、
わたしの意識は途絶えた。
◆ 第9章 『薄闇の嵐』 おわり




