第9章 第4節 赫灼の夜(第1項)
館に入るとムネモスが長椅子で寝ていた。
赤土の丘に着いたのは、
日没の鐘が鳴り終わる頃だった。
そんな時刻にムネモスは食堂で、
毛布を掛けられたまま放置されていた。
アルとイオスは前足を乗せ、
ムネモスの香りを熱心に嗅ぐと、
揃って口を開けてわたし達を見てきた。
「ムネモス。寝てるの?」
わたしが呼び掛けてもムネモスは起きず、
汗に混じって妙なにおいを発し、
悪夢に苦しめられている。
「セセラのお酒を勝手に飲んだのよ。」
サンサが料理の油と粉塗れの姿で
厨房からやってきた。
香ばしい匂いが全身を包んでいる。
「フランジの誰かを真似してね。」
「…それ、わたしのこと?」
「おかえり。」サンサが改めて言う。
「ただいま帰りました。」
「ただいま…。」
普通の挨拶を交わしただけなのに
恥ずかしくなる。
「ムネモス。
こんな場所で寝ていたら、
風邪を引いてしまいますよ。」
「うー…、あっ!
身体が、痛ぁいんです。」
硬い長椅子の上は睡眠に適さない。
「どこか痛むんですか?」
「全部ぅ…。」悪夢の中でも返事をする。
「ただの筋肉痛ね。
メノーと踊って。」
傷付いた筋肉の繊維が修復する過程で
炎症反応が起きて、身体は熱を発する。
「あれからずっとメノーと踊ってたんだ。」
「それは大変でしたね。」
メノーの元フランジのレナタが同情する。
「メノーは夕食を済ませて
また踊りに行ったわよ。」
わたしとは比べるまでもなくレナタも、
それにサンサも踊りが巧い。
「部屋に連れていって寝かせよう。」
提案したスーが
ムネモスの身体を支えて介抱する。
「御不浄ぅ…。」
「ムネモス。
こんなところで脱いではダメよ。
起きて自分で歩いて。」
わたしは彼女の毛布を折り重ねて、
レナタに預けた。
「ムネモスは、
従業員部屋でいいんですか?」
レナタの質問に黙って頷くトリンの目は
まだ赤く見える。
同じフランジの寝室棟でも、
ムネモスは2階の従業員部屋を使って、
いまはメノーと共に寝起きしていた。
「寝るなら歯を磨かないと。」
わたしはサンサに言われる前に告げた。
「あなた達、夕食はまだよね?
舞踏室の特製品がまだ残ってるわよ。」
「戻ってから食べますから、
残してくださいね。」
「心配してなくても、
ニクスでも食べ切れないわよ。」
スーとレナタに連れて行かれるムネモス。
「サンサはわたしをなんだと思ってるの。」
「トリンも、
ニクスに全て奪われる前に食べなさい。」
「要らない。」
トリンはサンサを睨んでから、
食堂を出てフランジ棟へと去ってしまった。
「犬の尻尾を踏んだのかしら。」
「また奇妙な言い回しをして。」
トリンに拒まれて二人になると、
サンサはわたしの表情を探る。
「ニクスは、…変わらないわね。」
「…普段通り、普通だよ。」
わたしは諦めにも似た気分で手を洗う。
「普段通り? 普通? ニクスが?」
背後でサンサが声を弾ませる。
彼女は粉と油塗れの左手を差し出して、
自分の手を洗うように要求した。
わたしは泡立てた石鹸でブラシを手に、
サンサの白い手を撫でて洗う。
「なにがおかしいの?」
「レナが果樹園に入って、
クァンを取った日を思い出したのよ。」
わたしは椅子に座り、
疲労と共に深く溜め息を吐く。
「自分の名前も言えずに嘘をついて、
この館を脱走した荒馬だもの。
わたしだって気分くらい偽るわよ。」
「ふふふっ。」
サンサは自虐のような冗談を好んで笑い、
ヤゴウに注文をするべく厨房に向かった。
収穫祭の休養日でも厨房にはヤゴウと、
その娘のデーンが居る。
薄白い肌のデーンの、
瞳の色や髪色はヤゴウと同じで、
熱心に取り組む表情は親子で似ている。
デーンも先程まで泣いていたのか、
目を赤くして粉で白くなった鼻を拭い、
火と料理を睨みつけている。
――あれが普通…。
それとも普通でもないのかしら。
親と子の一つの形で、
夜の館で働く従業員。
ドレイプでもフランジでもない、
中流階級の労働者の子供。
厨房で働くかれらを眺めていると、
客席の階段を上った疲れが出てきて、
瞼を下ろすと眠りかけていた。
「寝るのなら歯を磨きなさいよ。」
「ぅん。
サンサは、どうしてここに居るの?」
「わたし達はどこから来て、
何者で、どこへ行くのか。」
サンサは突然、謎解きを始めた。
「昔から退屈を持て余した人々は、
こうした思想の謎解きをして争ったわね。
思想は主張を権威付ける道具になった。」
彼女は厨房から、
温めたスープを持って来てくれた。
「ありがと。
そんな思想の話でもなくてさ。
サンサは娼婦になりたかった?」
彼女はは首肯しない。
沈黙は否定という答えだった。
「違うからこの館の娼婦を、
ドレイプって名前に変えた。
なにかを隠す目的があるのよね。」
――それが夜の館に居る理由。
サンサは目を閉じてから頷いた。
「…えぇ。教えないわよ。」
「秘め事を暴きたいわけではないよ。
けれどサンサには、
娼婦って手段を選ばないことも
できたんでしょ?」
「わたしにあったのは復讐心だもの。」
「復讐…それはもう無いんだ。」
「どうかしら。あって欲しいの?」
「わたしに聞かれても。んっ!」
スープを口にしてわたしは答えを控えた。
咳を喉で堪え、眉間に力が入る。
表情を歪ませたわたしを見て、
サンサは口元を緩ませる。
「わたしが故郷で
普通に暮らせていたとしたら、
レナや、あなた達に会うことも
なかったわね。
馬に蹴られた過去にまで遡るわね。」
「んんっ。
それ、わたし達が、
生まれる前の話でしょ?」
「またわたしを年寄り扱いしてるわね。」
「事実の確認だよ。」
わたしは鼻で笑ってからスープを口にし、
また咳き込むように喉を鳴らした。
「あっ、もう食べてるんですか?」
レナタとスーが食堂に戻ってきた。
「スープだけよ。
祈ってないもの。」
「レナも飲んでみる?」
サンサはスープの器を、
わたしの隣に座った彼女に寄せた。
「なんですか? この飲み物。」
スープに鼻を寄せても強い匂いはしない。
「それってポッポのスープだね。
口の中が甘くなっておいしいよね。」
「うん? 甘く?」
わたしはスーの言葉に、
疑問のまま首を縦に振ってしまう。
スープを飲んだ身体の熱さで耳まで痛い。
ポッポのスープは淡いピンク色をして、
スプーンで掬うと粘り気がある。
「んっ! あっ! 辛っ!」
思った通りレナタは咳き込み、
浅く早い呼吸を繰り返し舌を出した。
「どうしてスーまでレナタを騙したの?」
「えぇー? 最初は辛いけど、
後味は甘くならない?
変わったスープだよね。」
「唾液が混ざるとそんな性質になるわね。
収穫祭の時期は寒暖差が激しいから、
身体を温める目的で作られた
大人向けのスープよ。」
「んんーっ!」
レナタは耐えられずに厨房に避難して、
デーンから山羊のお乳を貰って飲む。
「それを分かっててレナタに勧めたの?
わたしに飲ませるのも
どうかと思うよ。」
「こうして大人扱いしてるのよ。」
レナタの置いていったスープを取り戻して
また口にした。
やっぱり辛い。
飲みたそうにしていたスーに渡すと、
彼女は平然な顔をして咽る。
「この子は成年になっても
辛いものが苦手なのよ。」
「…それなのに大人ってどうしてみんな、
こんなに辛い食べ物を好むのかしら?」
「謎だよね。」
目に涙を浮かべた成年のスーが言う。
彼女は普段から
スパイスティーすらも飲まなかった。
「苦いお酒をおいしく飲む為に、
味覚の器官を狂わせているのよ。」
サンサは浅ましく舌先を出して見せた。
「それで味覚が狂えば、
おいしさなんて分からなくなるのに。」
「愚かな行為よね。
衰えて鈍くなることが、
大人になることではないのにね。
帰ってきたレナを大人扱いして、
もっと辛いものを作ってみようかしら。」
「もう、意地悪してはダメよ。」
「私の予想だとレナタは将来、
立派な大酒飲みになるよ。」
「スーまでおかしなこと言わないで。
大酒飲みは立派でもなんでもないよ。」
わたしの言葉にサンサが笑う。
「レナタは律儀な子なんだから。
ハーフガンみたいになられても困るよ。」
わたしは立ち上がって、
厨房で食事の準備をする
レナタの手伝いに行った。
『ハーフガンは夢を見る。
酒樽抱いて宝の夢。』
わたしに続いて隣に立ったスーが、
陽気にハーフガンの詩を口遊む。
『ハーフガンは酔っ払い。
海でもないのにふーらふら。』
スーの歌に合わせて酒を呷ったヤゴウが、
太く厚みのある声で歌い始めた。
『ハーフガンは酒浸り。
今日もちびちび、ぐでんぐでん。
ハーフガンは酔い覚ます。
目覚めて宝はどこへやら。』
父の歌声にデーンも唖然とし、
サンサはお腹を抱えて笑っていた。
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