第2章 第1節 混迷の昼(第1項)
わたしが連れてこられた丘の上の建物。
塀の中には緑の敷かれた広い庭園と噴水。
健康で清潔な身体を維持する目的で、
大量のお湯を贅沢に使う大浴場がある。
お湯は香り付けに花びらまで浮いている。
『夜の館』という名前の
この館を訪れる客は、娼婦と
『肌を重ねる』ことが目的の娼館だった。
夜の館では『ドレイプ』と呼ばれる娼婦と、
手伝い役の『フランジ』が生活を共にする。
浴場の隣には、館で暮らす女達の
食欲を満たす厨房付きの食堂が備わり、
下準備などで大勢のひとが働く。
――まるで城みたいな場所だわ…。
奥の厨房には土色の髪の大男が居る。
怒って見える渋顔で、
髭の剃り跡が目立つ。
窯から焼き立てのパンを出す彼の横に、
大鍋の火加減を見る下働きの女達。
大男の横に並んでしまうと、
女は誰でも細く小さく見える。
褐色の髪をした一人は
わたしと同じくらいの年齢の少女で、
彼女も額に汗して厨房に立って働いている。
食堂に3つあるテーブルには、
一度に18人ほどが食事を共にできる。
わたしは後ろ手に組んだ右手で、
小指と示指を立てて数えた。
下働きの少女が
籠に入れられたパンを分け、
金髪のフランジにトレイごと渡す。
「館に住むひとは多いから、
普段はフランジが手伝うんだよ。
ニクスは座ってるだけでいいよ。
今度、私が教えてあげるね。」
金髪のフランジ、スーは
顔ほどもあるパンを
まな板の上で切っていく。
不均等な厚さに切られたパンは、
サンサとわたしの目の前に置いた
木皿へと盛り付けられる。
サンサに配られたパンは薄く、
わたしに配られたパンは逆に厚い。
――フランジが使用人で、
ドレイプはご主人様という考えって…。
そんなわたしの些末な疑問は、
目の前の食事ですぐに吹き飛んだ。
テーブルの上のお皿にはパンの他に、
焼き色のついた羊肉。
隣には刻んだ野菜と、
白色のソースまで掛けられている。
黒色の艶のあるマリセスの果物が、
スーの手で切り分けられて、
薄黄色の果肉が乱雑に並ぶ。
少女が置いて行った深皿のスープには、
根菜のネイプと刻んだ葉が泳ぐ。
表面には塩漬け肉の脂が溶けて浮かび、
湯気の中の香りが鼻孔を擽った。
この根菜のネイプ家畜の餌とも呼ばれる。
不思議なことに、ネイプ特有の
青臭さをスープからは感じない。
――今日は誰かの生誕祭ではないのよね?
父であり王の生誕祭でも見ない、
彩り豊かで豪盛な食事に目が眩んだ。
お菓子のネージを食べたばかりなのに、
口の中に唾液が湧いて出る。
わたし、スー、それからサンサと、
彼女の膝の上で上品に座る黒猫のアル。
3人と1匹が近くの席に座る。
「ニクスは食べててもいいわよ。」
サンサに促されても、このテーブルで
一人だけ先に食べていられるほど、
わたしは豪胆な性格ではない。
他のひと達は喋りもしない。
大人と子供が同じテーブルで、
同じ銀製のスプーンで、
同じ内容の料理が供されていた。
テーブルの上に並べられた料理には、
座る者の階級や髪色に差別がない。
わたしと同じ赤い髪の子は目立つ。
濃淡様々な褐色の髪、
黒い髪、銀髪、金髪…。
似た顔をした姉妹が居ても、
目鼻立ちはそれぞれに異なる。
金糸の飾緒を胸に垂らした娼婦、
ドレイプと呼ばれる大人も
フランジもみんな同じ年頃の子で、
外見から年齢に大きな差は見られない。
こんなに大勢の、若い女を見たのは、
別館の地下に入れられた時以来だった。
サンサが一番の年長者のはずなのに、
大人のドレイプよりも若く見えて、
子供のフランジに紛れている。
――みんなここで働いてるのよね。
娼館で働き、風呂に入り、
食事を得て、安全に眠れる場所。
ここでは平穏を脅かされる恐れもない。
好奇で周囲を見渡していたわたしは
一人の少女と目が合い、
自分の恥ずべき行為に気付いて俯いた。
その、一段と背の小さな少女が、
わたし達のテーブルに近付いてきた。
サンサと同じ黒色のチュニックを着て、
肩から背中に掛かる大きな襟が目を引く。
長い裾に美しい皺が作られる。
「こんにちは、サンサ。スー。アルも。」
アルはミャオと鳴いて丁寧に返事をした。
「レナタ。
この子は、今日からサンサの部屋で
私と同じ、フランジになった子だよ。」
スーに紹介されて、わたしは顔を上げた。
豊かな銀髪に覆われた少女から、
深い青と緑の混ざった
藍色の瞳が向けられた。
稚さの残る口元に膨らんだ頬と
日焼けした細かな肌で、
15歳のわたしよりも
さらにいくつか年下の子供。
サンサがわたしを見た時に
比較した名前の子が彼女、レナタだった。
「ニクスよ。ナルシャの。」
「メノーの親戚ですか?」
一度頭を下げたレナタが、
疑問に思いサンサの顔を見た。
わたしも『ナルシャ』の意味は分からない。
「もう、レナってば、
勉強会に出てるなら
あなたも知ってるはずよ。」
レナタというのはよくある女性名で、
サンサは彼女のことをレナと略して呼ぶ。
レナでは、神話に登場する絶世の美女の
略称と同じになる気がする。
古代に語られる神話では
男達が彼女との婚姻を求め、競い合い、
奪い合い、戦争の元凶として扱われ、
果ては『運命の女』とも称された。
わたしも危うく、勝利の女神の略称の
『ニック』と呼ばれるところだった。
「人類学は勉強会でも
長い間教えてないから、
フランジは誰も知らないと思うよ。」
「そんなに前のことかしら?」
スーに指摘されているサンサの隣で、
レナタは教わったことを忘れているのに、
抗議して力強く頭を振る。
羊毛のような豊かな銀の髪が揺れた。
「わたし達は同じ、
ナルキアンではあるけれどね。
スー、ニクスとレナに説明してあげて。」
「ナルシャはゼズ島入植前に、
私達の祖先が名乗ってた
海賊時代の名残りだよ。
知らなくて当然だよね。
『名も無き者』って意味ね。
船員も奴隷も娼婦も孤児も、
私達はみんな同じナルシャ。
大陸から見たらナルキアンってことだね。
遥遠代の言葉が由来で、
『家族』って意味が変化したんだって。
言葉に正しさはなくて、
意味は時代で変わるんだよね。」
スーの話を聞きながら、
わたしは頭の中で頷いた。
彼女は澄んだ声で、
説明も淀みなく聞き取りやすい。
「話が逸れてるわね。
改めて、ナルシャのニクスよ。」
「よく分かりました。
館では『出自は訊ねない。』
という決まりがありますからね。」
「恥ずかしがりみたいね。」
なにも言わないわたしをサンサが捓った。
「いまはみんな好きな名前を考えて、
ニクスに名乗りたがってますよ。」
「それはまた別の機会にしましょう。」
サンサは苦笑し、息を吐いて諦めを見せる。
「それに初めて聞きました。その話。
元は家族なんですね。」
「でも、セセラあたりは知ってる話だよ。」
「レナはいつも、余所事に夢中だもの。」
サンサにそんな指摘を受けて、
体裁の悪さを感じとったレナタは
別のことを彼女に訊ねた。
「…それでサンサは、
今度はなにを企んでるの?」
「人聞きが悪いわね。
わたしは迷える仔羊を保護した、
ただの牧者なのよ。」
「牧者は羊の群れを操る為に、
犬を嗾けるひとのことですよね。」
レナタの言葉にサンサが笑う。
「ふふっ。
そんな悪い風に教えたのは誰かしら。
でもニクスのことは、
ルービィにも説明済みよ。」
「ルービィはこの館のオーナーだよ。」
隣でスーが説明してくれる。
「脱走しても、最低限の責任は取るわよ。
それともご主人様らしく、
偉そうにするのがお望みかしら?」
「あははっ。ご主人様だって。」
サンサの言葉にスーが哄笑した。
――ご主人様、ね…。
頭の中で呼んでみても、
外見が若く小柄なサンサに
『ご主人様』は似つかわしくない。
サンサはこの館のオーナー、
ルービィと呼ばれる人物に
雇われているという。
――館の主でなければ、
この場合は『お嬢様』なのかしら。
「サンサってば、おかしなこと言うから。」
レナタがずっと黙っていたわたしを見た。
「ニクスは思慮深く、聡明なのよ。」
「…どういう意味ですか?」
サンサの冗談に、
レナタが首を捻ってわたしに訊ねる。
当然、わたしは驚くしかない。
「ニクスは分かるかしら。」
「…わたしからは説明できない。」
「言わないのが正解だね。
誰だって自分への賛美なんて
口にしたくないもんね。」
スーが救いの手を差し伸べてくれ、
サンサがわたしを捓ったことに
レナタも気付いてくれた。
「サンサってばダメよ。
また意地悪して。
あぁ気分を害してないかしら。
サンサはいつもこうなの。
自己紹介が遅れてしまいました。
ここではメノーのフランジをしている、
レナタといいます。」
「あっ、初めまして?」
「あんなに騒いでたのに、
覚えてないのかしら。」
サンサが声を弾ませて言った。
彼女の隣に、赤い髪の寝惚け眼をした
大人の女がいつの間にやら座っていた。
「だって無理もないわよねぇ。
昨日騒いでたのは、
あなたの酔っ払いだもの。」
赤い飾り布を肩に掛け、
淡黄色のキャシュクの胸元を開いた
緩い格好をしている女。
彼女は薄白く柔らかな手で、
サンサの膝の上に座るアルの
額から尻尾の根元までを指先で撫でた。
アルが喉を鳴らしてミャオと小声で鳴く。
キャシュクを着る彼女の豊満な胸元には、
1本の飾緒が垂れている。
この館では娼婦、ドレイプのみが
飾緒をこうして身に着ける。
「こんにちは、ニクス。
お互い初めましてで、いいわよねぇ。
わたしはメノー。
1番部屋のドレイプよ。」
「初めまして…?」
「昨日は、浅ましいところを
見せたわねぇ。」
「議長の野外酒宴で、
賑やかでしたからね。」
「遠回しな嫌がらせなのよ。」
二人の会話で確信に至った。
酔っ払いを蹴倒した赤い髪の女、メノーと、
瓶の水を浴びせた少女、レナタ。
レナタは白目の青がまだ濃く残る、
湖のような藍色の目が輝く。
昨日わたしを安全な館の中まで
案内してくれたのがレナタだった。
礼を失していたわたしは、
急に恥ずかしくなって縮こまった。
「昨夜、寝てる時に身体を見たけれど、
右腕は大丈夫? もう痛くはなぁい?」
「え…、はい…。」
右腕に触れると、いまも痛い。
「なにかあれば、わたしの病院に
連れて行ってあげるわよ。」
メノーは間延びした妙な喋り方をする。
耳にすると独特の心地良さがあった。
「このくらいすぐに治るわよ。」
「また病人が出たら大変だわ。」
「ウラは風邪が治らないから心配だね。」
スーが言ってまたパンを切り分け、
メノーとレナタの食器に配る。
「お昼はまた、メノーとわたしで
病院に行くつもりです。」
「昨夜の件で、館の周りに
怪しいのが歩き回ってるから、
護衛は多めにつけてね。」
言ってサンサは、
自分の食器に盛られた果実を
わたしとレナタに配る。
「さぁ、挨拶はもういいでしょ。
食事にしましょう。」
サンサの言葉に、
わたし以外が揃って目を閉じて顎を引く。
軽く握った手を胸に当てて、
祈りの略式姿勢を取る。
わたしも以前は、
彼女達と同じ姿勢で祈っていた。
祈りの対象はネルタの王であり、
父でもあるケイロウか、天蓋山になる。
いま、ここに王は居ない。
困惑しているわたしに気付いたのか、
サンサが瞼を上げて
銀色の瞳で見つめてきた。
「新入りのニクスは
まず、他のひとを見て、
形だけでも真似すればいいわよ。
分からなければ、分かる部分と
自分が分からない部分を考えて、
わたしかスー、分かるひとに聞きなさい。
分からない部分は教えてあげるし、
仮説を立てた場合なら検証も必要ね。
どんなに高名な学者様だって、
最初はなにも知らないものよ。」
彼女は、科学の5段階法のようなことを
言っている。
「生娘だからって、
そんなに不安がる必要はないわよ。
あなたは思慮深く、聡明だもの。」
驕奢な食事を前にして、
サンサの助言も最後の一言で
不安だけがわたしの口の中を支配した。
「ニクス。
館で食事をする時は、
5個の感覚を使うんですよ。」
サンサの意見など無視して、
レナタが胸を張って食事について言う。
「5個?」
「大体、五感のことだね。
ニクスは知ってる?」
スーが説明する横で、サンサとメノーが
レナタを見て笑いを堪えている。
「え、と。味覚、嗅覚、視覚、
聴覚とあとは…触覚?」
母指を立てて口に触れる。
鼻を示指で、目を示指と母指で、
耳を中指だけで触れ、反対の手のひらを
立てた中指と母指で触れる。
「これで5個ね。痺れや刺激は?」
さらに示指を立てて言うと、
サンサはわたしの疑問を理解して頷いた。
「食事の時に意識するのが、
主にその5個というだけよ。
温感、冷感、平衡感覚なんかも感覚よね。
温かさ、冷たさは料理によるし、
痛覚や平衡感覚は食事に必要ないわ。
ここでの食事はまず料理を目で見るの。
彩りや手触り、匂いを楽しんで、
咀嚼、食感を耳で感じるの。」
――なんだか、ニースだわ。
サンサの説明に納得させられ、驚かされた。
「口を開けて噛んだり、
咀嚼音を周囲に聞かせるのは、
下品だからダメだよ。」
スーの忠告に、わたしは普段通り
口を閉じたまま腸詰め肉を噛む。
噛むほどに肉汁が口の中に広がり、
肉の甘さと香辛料の辛さが交わる。
「これって、なんですか?」
「それは…。」
レナタがわたしを真似して指を立てた。
物を数える時に使う指の動作に
説明を求められても、
言葉にして伝えるのは初めてだった。
「手の指を母指から順番に立てて、
立てた指の場所で数字を把握するの。」
母指、示指、中指、環指、小指。
右手の母指から順に立て、
折ってから次の指が立つ。
動きを見せても、レナタは首を捻り、
理解されなかった。
「2進法ね。
ドレイプがお客さんに送る招待札にも、
実は入ってるわよ。」
「見たことありません。」
「認証管理の仕事でしか
知る必要がないもの。
ボナとセセラ、ポワンにも教えたわね。」
「ファウナも知ってるよ。」と、スー。
「あの子は教えなくても、
見ただけで仕事を覚えてたわよ。」
隻腕のサンサがレナタに向けて手を開く。
「1、2、4、8、16という順ね。
10歳のレナを表すと、
環指の8と示指で2。
ニクスは15歳だから、
16の小指以外を立てれば15になる。
あなたも珍しい数え方、使うわね。」
「本で読んで、便利だから…。
鳥を数える時とか…。」
この食堂にいま居る人数も、
指を数字の束として覚えておけば、
立てた指だけですぐに把握できる。
「複雑な数え方ねぇ。」と、メノー。
「…おかしなの。」
表情に不満を見せるレナタは、
メノーと顔を見合わせて笑っていた。
――ニースではないのに。
わたしは厚いパンを口にして、
頭の中で不満を呟いた。
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