シェフ、異世界に降り立つ
気がついたら、真っ白な世界にいた。
「……あれ?なんでこんなところに」
視界は霞んでいて、音もない。空気のようなものを感じはするが、現実味がない。
立っているのか、浮いているのか、それさえも曖昧だった。
最後の記憶を思い出そうとしても、頭がモヤのようにぼやけていてはっきりしない。
たしか…厨房に居た。ソースを煮詰めて、火加減を見ながら次の準備を……。
けれど、それ以上の映像は浮かんでこなかった。
まあ、思い出せないなら仕方ない。今は目の前の状況を優先すべきだ。
「ふむ、気が付いたようじゃの」
ふと、目の前に声と共に現れたのは、白髪で長い髭をたくわえた老人だった。
その佇まいはどこか神々しく、けれど申し訳なさそうに眉を下げていた。
「すまんな、こちらの手違いでお主を呼んでしまった。だが、戻すこともできんのでな……」
その一言で、ようやくこの状況が現実であることを理解した。
これは夢ではない。どうやら俺は、「異世界」に来てしまったらしい。
「異世界……って、マジですか」
「うむ、マジじゃ」
妙にノリのいい返答に、思わず苦笑が漏れた。
どこか現実味がなさすぎて、むしろ気が楽だった。
「それで、詫びとして何か望みの力を授けようと思っておる」
お決まりの異世界テンプレ、という言葉が脳裏をよぎったが、冷静に考えればこれは大事な選択だ。
「その……行く先の世界の文明レベルはどれくらいでしょうか」
「中世ヨーロッパ程度じゃな。ただし、魔法が存在しておる。科学の代わりに魔法が生活を支えておるのじゃ」
なるほど、食文化も気になるところだ。俺は元イタリアンレストランの料理長。
料理が人生そのものだった。だからこそ、気になる。
「食文化はどうなんです?」
「地域によって差があるが、主食はパン、あとは魔物の肉を狩ったり、家畜を育てたりしておるな」
未知の食材。それは料理人にとって最大の刺激であり、創造の源だ。
胸が高鳴る。
「調味料や調理器具に困らない環境が欲しいです」
「ふむ、それならば『創造魔法』を授けよう。生産特化にしたそれは、君の舌で覚えたものなら具現化できる。
ただし、知らぬものは出せぬから、注意するのじゃ」
それは魅力的だった。自分の知識と経験が、そのまま異世界でも力になる。
だが、調理器具はどうする? そう尋ねかけようとした時、神がふっと姿を消した。
しばらくして戻ってきた神の隣には、ふくよかで陽気な雰囲気の男神が立っていた。
「君か……ふむ、料理の徳が高いようじゃな。
ならば、儂の神器を授けよう。これは《創具の箱》と呼ばれる料理魔法媒体。
お主が手に馴染んだ器具を再現し、魔法で取り出すことができるぞ」
その言葉と共に、黒革のアタッシュケースが宙に浮かび、ゆっくりと俺の手に収まった。
見た目は料理道具箱、けれど内側には何か温かな力が満ちている。
「この箱は、お主と魔力的にリンクしておる。
一度持った道具なら呼び出せるし、失っても必ず手元に戻る。
この箱を通すことで、お主の料理魔法はより安定して発動するようになるじゃろう」
「ありがとうございます……これは、すごく心強いです」
初めての世界。だけど、これがあれば、自分は自分のままでいられる。
それだけで十分だった。
神はさらに言った。
「最後に、ひとつ頼みごとがあるのじゃ。
お主が降り立つ場所には、孤独な子供がいる。
どうか、その子に温かな料理を食べさせてやってくれ。
保護してくれれば、それで構わぬ」
「……わかりました」
目的があるだけで、心はずいぶんと軽くなる。
神が光に包まれ、その世界が白く染まっていく――
そして、次の瞬間。
俺は、空を落ちていた。見上げれば木々の隙間から差す光、そして下には広がる深い森。
――味川 彰、異世界に降り立つ。