38 お姉ちゃんが花丸をあげるわ
「よく頑張ったわね、和哉君」
頭上から優しい声が降り注ぐ。後頭部には柔らかい感触があった。
「貴方がたくさん活躍してお姉ちゃんは嬉しかったわ」
これまでにないほど慈愛に満ちた声色だ。ずっと聞いてみたいような、聞いていると駄目人間になりそうな、そんな正反対の両面を持つ声だった。
「ゆ、結梨姉さん……」
「何かしら?」
俺が呼びかけると、満面の笑みを浮かべた結梨と目が合った。同い年である姉の背後から光が差し込んでいるように見える。その光景はまるで女神様みたいだ。
俺は疲れと心地よさに抗いながら、徐に口を開く。
「いい加減起き上がってもいいか? 過去最高に恥ずかしいんだが」
「ダメよ。せっかくの機会だからもう少しだけお願いするわ」
「そのセリフを膝枕をしている側が言う時があるんだな」
同級生である姉の膝の上で横になりながら、俺はどうでもいい感想を口にした。
俺は今同い年である結梨に膝枕をされている。どうして、こうなってしまったのか自分でもよく分からない。
***
「お疲れ様。今日の試合はとても良かったわ」
学校からの帰り道、よく目にする笑顔の結梨に声をかけられる。球技大会が終わり、例のごとくクラスメイトである姉と一緒に帰っていた。
「ありがとう。結梨姉さんも頑張ったな。月並みな言葉だけど、すごかったぞ」
球技大会での姉の姿を思い返す。結梨はバスケ部顔負けの活躍だった。クラスを優勝に導いたのは間違いなく彼女の頑張りがあったからだろう。
「弟が見ているのだから、お姉ちゃんが頑張るのは当然よ」
結梨は胸に手を当てて、誇らしそうにしている。そのモチベーションはよく分からないが、活躍したのは確かである。
「それに弟から応援をもらったからね。私が張り切るには十分よ」
そう言って、結梨は小さくガッツポーズをする。球技大会で見かけた俺と彼女との秘密の仕草だ。
「今さらだけど、それが応援のポーズで良かったよな? 特に打ち合わせしていないから不安だったぞ」
実のところ、どうやってクラスの奴らにバレないよう応援のするのか事前に決めていなかった。結梨が土壇場で披露したものを俺がアドリブで返した形である。
「ええ、もちろんそうよ。和哉君に上手く伝わって良かったわ」
「まあ、なんとなく返しただけなんだが」
「これも私たちが姉弟だからかしら。ええ、そうに決まっているわ」
そう言った結梨は得意げな顔をしていた。どうして、そんな顔をするのか分からないが、嬉しそうで何よりである。
「それにしても、クラスの打ち上げに行かなくて良かったのか? 行ってない俺が言うのもなんだけど」
今日の放課後、俺たちのクラスで打ち上げが催されている。全員強制参加ではないが、クラスの中心人物である結梨が行かないのは不思議に思ったからだ。
「打ち上げは友達とまた今度するから、大丈夫よ。それよりも」
結梨は一旦言葉を区切って、俺の方へ顔を向ける。球技大会で大活躍した姉は優しく微笑んでいた。
「頑張った和哉君を労う方がお姉ちゃんとして重要な仕事よ」
「そんな仕事は聞いたことがないな」
「お姉ちゃんは頑張った弟をきちんと褒めるものだと沙優から聞いたわ」
「その情報は眉唾物だぞ」
西村が面白がって結梨にあることないこと吹き込んでいるのではないだろうか。最近になって、そんな疑念を抱いてしまう。
「どちらにしても私がしたいことなの。付き合ってくれる?」
「まあ、分かったよ」
結梨の提案に俺は渋々ながら了承した。ここで拒否してもどこぞのゲームのように俺が「はい」と言うまで先に進めないだろう。
そもそもこういう状況は想定済だ。どうしても嫌だったら、最初から一緒に帰る必要はない。
「ありがとう。お姉ちゃんは嬉しいわ」
俺の返事を聞いて、結梨は嬉しそうな顔をした。まるで誕生日パーティを前にした子供のようである。
……了承しておいてなんだが、俺は何をされるだろうか。ここは往来だから、頭を撫でられるのは勘弁してほしい。
「それじゃあ、行きましょうか」
「え? どこに?」
「私の家よ」
俺 本当に俺は何をされるだろうか。無事に家まで帰れるのだろうか。今更ながら簡単に返事をした自分を少しだけ後悔した。
***
結梨に連れられ、彼女の家に来ていた。同い年である姉曰く彼女の両親は仕事で遅いという。
我が家よりも広いリビングに入り、鞄を置く。そうすると、疲れがどっと溢れてきた。
「疲れたな、ソファに座ってもいいか?」
「そうね。"とりあえず"はいいわ」
「ああ、分かった」
姉から許可をもらい、ソファに腰掛ける。このまま全身をソファに委ねたくなるが、流石にそこまで図々しいことはしない。
「お待たせしたわ」
そんなことを言いながら、結梨は俺の隣に腰掛けた。いつの間にか着替えたのか部屋着になっていた。一方の俺は制服のままである。
「さて、和哉君」
「うん?」
「お姉ちゃんの膝の上に頭を置いてちょうだい」
「ああ、分かった。……は?」
思わず姉の言葉に頷きそうになるところだった。ゆっくりと隣にいる結梨へ顔を向ける。
「悪い、もう一度言ってくれ」
「だから、お姉ちゃんの膝の上に頭を置いてちょうだい」
「聞き間違いじゃなかったのか……」
あまりの衝撃的な発言に頭が追いつかない。この姉は何を言っているのだろうか。
「ほら、早く」
そう言って、結梨は自分の膝をポンポン叩く。彼女は膝が隠れるぐらいの部屋着を着ている。そして、座っているせいか、膝が少しだけ露出している。
……この上に俺の頭を置く。そんなことをしていいのだろうか。
あまりの突飛な発言に頭の中で宇宙が思い浮かぶ。その宇宙はハテナマークで埋め尽くされていた。
「そんな固まって、どうしたの?」
「どうしたは俺のセリフなんだが」
「弟をたくさん褒める時はお姉ちゃんの膝枕と相場は決まっているの」
「そんな価値観は初耳だな」
これは何かの冗談だろうか。そんな期待を込めて姉の顔を見る。
けれど、俺の期待に反して、彼女の目は澄み切っていた。とても冗談を言っている雰囲気ではない。
「いいから、早くしてちょうだい。このままじゃ夜が明けちゃうわ」
「いや、でも、流石に」
なおも躊躇する(当たり前である)俺に剛を煮やしたのか結梨が俺の腕を引っ張る。
「ほら、お姉ちゃんの膝に来なさい」
「あっ、おい」
疲れのせいか大した抵抗ができず、俺はされるがまま結梨の膝の上に頭を置いてしまう。
同級生の女子に膝枕をされている。結梨の顔を見上げた時、そんな特異な状況に置かれていることを実感した。
「今日はよく頑張りました。お姉ちゃんが花丸をあげるわ」
「花丸をもらうような年齢じゃないんだが」
そうして、姉による俺を労う時間が始まった。俺は無事に現実へ戻ってこられるだろうか。
***
膝枕は依然として継続中だ。途中、中止を訴えたが、聞き入れてくれなかった。
「試合を観れて良かったわ。お姉ちゃん、何度も『和哉君、頑張って!』って叫びそうになったの」
「自制してくれて何よりだ」
俺を膝枕している姉は我慢を覚えたようである。本当に良かった。あんな多くの人がいるところでそんなことを叫ばれたら、俺の平穏な学校生活が終わりを告げる。
「だから、今この時間で発散することにしたわ」
「そうか……」
全く良くなかった。試合の最中にお姉ちゃんとして応援できなかった想いがこの状況を生み出したようだ。
「本当に頑張りました。和哉君は良い子ね」
そう言って、頭上にいる姉は俺の頭を優しく撫でた。
「お姉ちゃんは感動で胸が一杯よ」
「俺は恥ずかしさで胸が張り裂けそうだ」
「そうなったら、私が慰めるから安心してちょうだい」
「微塵も安心できる要素がないんだが!?」
抗議の声を上げたが、その声に力はなかった。疲れと心地よさにどんどん体の力が抜けていくようだ。そう思った途端、瞼が重くなってきた。
「このまま寝てもいいわよ」
俺の眠気を察知したのか結梨の優しい声が耳に届いた。
「いや、寝てたまるか」
同級生の女子に膝枕をされて、そのまま眠りについた。学や西村が知れば揶揄われるに違いない。俺は必死に眠気に抗おうとした。
「よく眠れるようにお姉ちゃんが子守唄を歌ってあげるわ」
「本格的に寝させようとするな。というか、子守唄が必要な年齢じゃないぞ」
ここで寝てしまったら、俺はどうなってしまうのか。明日も学校があるため、家に帰らないといけない。
「大丈夫よ。お姉ちゃんが起こしてあげるわ」
「それだったら、最初から寝かしつけるな」
俺としては声を張り上げたつもりだったが、出てきたのは単なる弱音だった。これはまずい状態になる。
「安心してちょうだい。和哉君が眠っているまで、お姉ちゃんが見守っているわ」
「……だから、全く……安心……じゃない」
俺の声が途切れ途切れに聞こえてくる。瞼はついに開かなくなり、視界がぼんやりとした暗闇に覆われる。
「今日はお疲れ様。ゆっくり休んでちょうだい」
暗闇の中、姉の優しい声だけが響いた。
結果、結梨の思惑通り、俺は眠りについた。目が覚めた後、家に帰った。膝枕の効力か不明だが、起きた後は体が軽く感じたのは確かである。




