「アンタにはムリ」
光のない空間では、さしもの怪傑であっても瞳の中に何かを映し出すことはできなかった。しかし、それでも怪傑であることには変わりはない。雫は、意識するまでもなく、気配というものを感じとり、何も捉えられない暗闇の中で不意打ちを受けるどころか、先んじて攻撃を当てることに成功した。それは相手にとっては意識外の攻撃で、防御は間に合わずに怪傑の豪腕が炸裂する。それどころか、備えすら出来ていなかったために、より大きなダメージを喰らうことになった。
「手応えあり。さて、あとはここからどうやって出るかだけど……」
雫は辺りを見回したあと、首を傾げた。
「……真っ暗で、端があるのかすらわかんないけど、そこまで行けば脱出できるのかな。もしくは、何かに包まれてるとか?」
先程の気配が感じ取れなくなっていることから、この暗闇が、元からある空間を暗くした場所である場合、その端はそう遠くないと、現状の手がかりから雫はそう推理した。
「……なら、まずは地面を……いや、それで抜け出せるとしても、上にこの暗闇で蓋をされるわけだから、真っ暗なことは変わらないのか。なら、逆に上? 思いっきり飛べば抜け出せたりしないかな」
雫は大剣を地面に置いて、二、三度屈伸をする。そしてその場で助走のための軽いジャンプを繰り返す。
「とんっ……とんっ、……とーん!!」
膝を折り曲げ、押し出すように地面を蹴りとばす。雫の体バネみたいに勢いよく上昇して、予想通り、この暗闇の世界から脱出することが出来た。そして、暗闇を通り過ぎた空中で、雫はあるものを目撃する。
「ぐ、ぐああ……」
先程暗闇の中で殴った男が、まだ生きている兵士の首に牙をたてて、その血を啜っていた。その周りには、血を全て吸われてミイラのようになった他の兵士の死体もいくつか転がっていた。
すぐにその場に駆けつけようとするが、垂直飛びで上昇しているため前へ進むことは出来ず、雫はそのまま、暗闇の中へと飲み込まれていく。だが、この空間が容易く抜け出せることがわかった以上、その場で足踏みをするほどのろまではない。
雫は着地と同時に体を前傾させ、今度は前方に向かって飛んだ。
その途中、急に左側から気配を感じとり、雫は、前へ飛んでいる最中でも出来る防御姿勢をとった。
ギィンッ、と硬い音が響いて、雫の体が真横へと弾き飛ばされた。雫は両足で着地して、その方向に体を向ける。だが、気配はすでに背後にあり、雫は咄嗟にその場にしゃがむと、その耳に空を切る音が届いた。
「これも避けるなんて、心眼ってやつかい?」
「いや、アンタの気持ち悪い感じが、ビリビリ肌に刺さってくるだけだよ」
「俺にクソまずい雑魚の血を吸わせた挙句、その態度かよ。……調子に乗るのも大概にしろよ」
「それ、自分で言って恥ずかしくないの? もしかして、厨二病真っ只中みたいな感じ?」
「……殺す!」
「アンタにはムリ」
そう啖呵を切って、再度開戦の火蓋が切って落とされた。だが、雫の視界は未だ真っ暗で、気配で居場所は掴めるものの、不利を強いられていることには変わりない。微かな音や風圧を頼りに、雫は回避を続けていた。
「お前、やっぱ見えてんだろ」
「全然。おかげでアンタの顔を見なくて済んでる」
「はっ……その余裕も今のうちだ。そろそろ、血が馴染んでくる頃だ……」
そう言った次の瞬間、雫の右目付近に拳が当たった。威力自体は軽いものだったが、当たった箇所が悪く、思わず右目を瞑って、体がよれてしまう。
「ぐっ……」
一瞬の怯みで出来た隙に、全身に連撃を撃ち込まれる。そのどれも威力は低く、全て食らっても大したダメージにはならないものであり、先程より徐々にスピードが上がっていっているのも確かではあるが、それでも同じように怯んだとしても、普段の雫が避けられないスピードには程遠かった。だが、音以上に速度があるため、この視力を全く奪ってしまう空間では避けることもままならなかった。
「ほらほらどうした! お前と違って俺はしっかりお前の姿が見えるぞ! 殴るたびに乳が揺れるその体に免じて、今謝れば許してやるよ! ほら、早く言えよ!」
「……うーん、別に私悪いことしてなくない?」
「お前がどう思おうが俺が不快になってんだからお前が悪いんだよ。でももうダメだ。謝罪より先にそんな言葉が出る女は殺す。その綺麗な顔が面影なくなるくらいボコボコにしてやるよ。子宮破裂するくらい殴って……」
パァン、と乾いた音が一度だけ響いた。それを最後に、肉に骨がぶつかる音は鳴らなくなり、ただ何かが倒れ込む音だけが聞こえた。そして真っ暗な空間は即座に払われて、雫の視界に光が戻った。
「すっごい嫌なやつで良かった。加減とか考えられなくなったもん」
頭のない死体を見て、雫はそう呟いた。
目や鼻といった急所にさえ当たらなければ、特に気にするほどの痛みでもなかった。そのため、そこだけはしっかりカバーしつつ、反撃に転じることが出来た。相手がよく喋ってくれていたおかげで位置もわかりやすく、攻撃を当てることも容易だった。
右手の感触は風船を潰したくらいのもので、人を殺した、というある種持っていなくてはならない感情を覚えるには至らないようだった。
雫は地面に置いた大剣を急いで拾い上げ、さらに別の戦線へと向かって走り出した。




