「悲しむんだから」
「雫ちゃん、これはお願いだ。すぐに城外に出て他の敵と戦ってくれ」
アルは吹き飛んだイグナチョフがすぐに起きてこないことを確認した後、雫に耳打ちをする。
「で、でも……」
「僕が心配なのはわかる。それに多分君が思ってるよりも僕は体調が悪い。だから共闘したいんだろうけど、君という戦力をここで浪費するわけにはいかないんだ」
「……」
それでも、と雫は言わなくてもわかるほど悲しそう
な表情を浮かべる。
たかだか数日共にしただけで、されど数日共にしたわけで、彼女にとっては守るべき仲間になっていた。
同じこの異世界転移に巻き込まれた境遇であることを抜きにしても、彼女はアルに一目を置いてた。
彼の弱みを全く見せようとしない強さが、雫には孤独さや寂しさを感じられたからだ。
15歳ほどの子供がその強さを身につけるまでに、どんなことがあったかなんて彼女の想像につかない。
だが、一波乱どころの人生でないのは優に想像出来た。そして、関わってみて案外普通な子供であることもその身で感じ取った。お気に入りの毛布がないと眠れない子供のような未熟さと、この世界を生き抜く為の強かさ。そのアンバランス感が、何よりも彼女にとって異常に感じられた。少しでも幸せになってほしいと心から思うほどにまで、彼女にそう思わせたのだ。そしてそれは、アル自身にも嫌というほど伝わっていた。母性から来る庇護という感覚を、彼はこれまで受けたことがなかった。
アルは物心つく前に両親を失い、親代わりの人物から傭兵として育てられた。それは対等な関係ではあったが、親と子のような関係ではなかった。つまり彼は、両親から受ける心配というものを受けたことがないのだ。それは美月から受けるものとも異なり、傭兵時代に仲間から受けるものとも異なっていた。そのため初めてその感覚を受けたとき、アルは戸惑いを覚え、まるで母親に反抗する息子のようになっていた。アルが雫を遠ざけようとするのは、美月に絡むからだけではなく、その受けたことのない感覚への拒絶感もあった。だが、今ではもうその感覚がなんなのかを理解している。それがどれだけ貴重なものなのか、ありがたいものなのかを理解している。それゆえに、雫の両目をしっかりと見つめて、強くしっかりと見据えて、彼女を諭すように話す。
「僕には君が知らない奥の手があるから、大丈夫。無事に外で合流しよう」
「……絶対だからね! 私も晴祥くんも、美月くんだって、アルちゃんに何かあったら悲しむんだから!」
雫は瞳に涙を浮かべながら、半ば自棄になって叫びながら走り出す。そして、彼女はそのまま窓を突き破るようにして城の外へと飛び出した。
雫の姿が見えなくなったあと、崩壊した壁からイグナチョフがゆっくりと姿を現した。
「……よかったんですか? 行かせてしまって」
「行かせなきゃ隠れたまま時間稼ぎするでしょ?」
「まあそうですね。流石にあの方を相手にするのは骨が折れます。事実、さっきの衝撃で肋骨が数本折れてしまいました」
「それも理由の一つだね。それくらいダメージがあれば今の僕でも無事に切り抜けられる」
「これくらいダメージにはなりませんよ。知ってるでしょ? 我々の武術を」
「システマだっけ? あれってただの強がりじゃないの?」
「……少し、痛い目を見てもらう必要があるようですね」
「僕はアンタを死ぬほど痛い目に合わせるよ」
アルは両手の力を抜いて、なんの型でもない戦闘姿勢を取る。そして互いに徐々に間合いを詰めていき、両者の拳が届く距離になった瞬間、アルは相手の顔へと飛び膝蹴りを放つ。イグナチョフは顔を翻してすんでのところでそれを躱し、飛び込んできたアルへと反撃をする。
「がっ……」
だが、攻撃を喰らったのはアルではなかった。膝蹴りから空中で体を捻り、脚を伸ばして横へと逃れた頭を蹴り飛ばした。
「やっぱただの強がりなんじゃない? 動きにキレがないよ」
「……一撃入れたくらいでなにを……」
「これが刃物なら死んでるのに、随分悠長なこと言うんだね。やっぱり君は僕だけで十分だよ」
最初に接敵したときに投げたナイフを拾い上げ、立ちあがろうとするイグナチョフへと刃先を向ける。
「今とっても眠いからさ。君にかけてる時間はないんだよ」