「そっちの方がいいと思うけど」
「アルちゃん、クマすごいけどいつから寝てないの?不安なことがあるなら聞くよ?」
雫は朝一で出てからようやく帰ってきたアルの顔を見て、心配の言葉をかける。遠くからでもわかるほどの目のクマと、疲弊した表情は明らかな睡眠不足を示していた。
「……最近忙しくて寝れてないだけだよ。あと、何かあっても君に相談することはないよ」
一瞬で疲弊した表情からいつもの飄々とした態度に切り替え、アルは余裕そうに振る舞った。その切り替え自体は凄いものだったが、雫はそれで騙せるような相手じゃなかった。そして雫はその原因にも勘づいた。少し前と今で変わっている点など一つしかなかったのだ。
だが、気づいても口には出さなかった。
「そんなこと言えるくらいなら平気そうだね。あ、そうそう。そろそろヴェルン王国に行くらしいよ」
「向こうも準備が早いね。国内でも3.4日前に決まったことなのに。てか、君は戻って大丈夫なの?しかも、盗んだ剣を担いだ状態でさ」
「正直不安だよね。でも、これから起こる大きなことに比べたら些細なことだし、終わるまで何も言われないっしょ」
雫は堂々と胸を張りながらきっと大丈夫と豪語する。胸の辺りの布が悲鳴を上げている。現状を鑑みて推測したのだろうが、それはやや楽観的であった。戦争前であるならば尚更、国に混乱をもたらすような人物を許さないのである。そもそも入国拒否されるのではないだろうか。
「まあ国宝って言うわりにはそんな本気で追ってきてる様子ないし、見つかって即投獄みたいな目には合わないんじゃない?」
「ははは、近代国家は容疑者を直ぐ刑務所入れないよ」
「ここは近代じゃなくて異世界だよ。ベースは中世ヨーロッパだし、全然あり得るでしょ」
高笑いしていた雫の顔が、その言葉を聞いた途端にどんどん青白くなっていく。アルはその様子を見て意地悪な笑い声を発した。この街の居心地の良さによって、ここが異世界であるという前提を雫は完璧に失念していた。彼女は心の中でヴェルンが帝政でないことを祈るばかりだった。
ひとしきり笑ったあと、アルは真剣な顔で呟く。
「……正直、そっちの方がいいと思うけど」
「ちょっと〜、あんまり意地悪なこと言わないで〜」
「いや、そうじゃないよ。それが君にとって一番安全である可能性があるから、そう言ってるんだ」
「それは、私が足手纏いってこと?これでも結構強いんだよ、私」
「それは知ってる。でも、君人殺したことないでしょ」
その言葉に、雫は得意げな表情のまま凍りついた。そして、押し黙ったまま口角が徐々に下がっていく。
「戦争ってのはね、スポーツと違って相手の命を奪うんだよ。相手も当然殺しにくる。だから、そういう命のかかった場面で躊躇したり、迷ったりすると簡単に死ぬんだ。人を殺したことがないなら、尚更ね」
アルの口から、核心をつく重い言葉が次々と出てくる。そう、殺し損ねた敵は、更なる士気で味方を襲う。一人の甘さが全員に被害を与えることをアルは知っている。
「敵は殺さなきゃ安全の確保が出来ない世界だから。……君は、シズクは……躊躇わずに迷わずに、人を殺せる?命を奪える?」
何百何千と数えきれない程の命を奪って来たからこそ、その言葉には確かな威力があった。アルはどこまで言っても殺人を肯定しない。故にその業を背負う覚悟があるのかと、目の前の少女、安野雫に問いて見せるのだ。
そして、その答えは驚くべきものだった。
「無理。でも、本当に危機が迫れば考える前にそうすると思う。勿論、本能のままにボーダーラインを越えるなんて恥ずべきことだと思うけどね」
意外なことに即答で、しかも客観的な意見は、アルの不安を払拭するのに十分なものだった。アルは小さく笑って、辛気臭い空気を一変させた。
「……そっか、じゃあ結構信頼できるかも。足だけは引っ張らないようにね」
「アルちゃんも、しっかり寝なさいよ?」
「……だからちゃんづけは辞めてくれない?」
「さっきみたいにシズクって呼んでくれたら辞めてあげる」
「……あっそ。じゃあね」
アルは呆れて、足早に自分の部屋へと向かう。
「ギルドの前で待ってるねー!」
雫はそう叫んだあと、振り向かないアルを見て笑顔を浮かべた。そして、颯爽と待ち合わせ場所へと走り出した。




