第47話 守る者と、理解して縛る者
王城訓練場は、夜になるとまるで別の場所になる。
日中は王国騎士たちの鍛錬の場として、絶え間なく剣戟が響き渡る場所だった。
剣と剣が噛み合う鋭い金属音。
騎士団長の怒号。
若い騎士たちの気迫ある掛け声。
汗と土埃の匂い。
しかし今、壁際に灯る魔導灯は最低限まで落とされ、代わりに天窓から差し込む月光が白く石床を照らしている。
夜風が吹く。
冷えた空気が石床を撫で、静寂だけを運んでいく。
そんな月明かりの中央に、一人の青年が立っていた。
勇者アレン・ヴァルデン。
白銀の光が石畳をなぞり、中央に立つ青年の影を長く引き伸ばす。
(……来る)
アレンは目を閉じ、小さく息を吐く。
耳を澄ませば、遠く城内から楽団の演奏が聞こえてくる。
王都中が祝福している。
宴は今なお最高潮を迎えていることだろう。
貴族たちは高価な酒を片手に笑い合い、吟遊詩人は英雄譚を歌い、王は満足げに杯を掲げている。
ここまで届く頃には風に溶け、かすかな残響となって夜へ消えていく。
「……祝う気にはなれないな」
誰に聞かせるでもなく、小さく漏らす。
祝うべき日。
誰もがそう言う。
アレンの胸には、小さな棘が引っ掛かったままだった。
祝宴で見た光景。
聖女エリアスの隣に当然のように立つ男。
王の信頼を受け。
自然に王女と会話し。
宴の中心へ立つ男。
ルシアン・ヴァルグレイ。
思い返せば思い返すほど、妙に引っ掛かる。
「……なんなんだよ、あいつ」
コツ……
乾いた足音が響く。
規則正しく、迷いのない歩調。
石床に革靴が触れるたび、乾いた音が夜気を震わせる。
やがて月光の中へ、一人の男が歩み出た。
黒の外套。銀糸の刺繍。冷ややかな灰色の瞳。
彼は数歩手前で足を止め、アレンを真っ直ぐに見据えた。
「勇者が夜に呼び出しとは。穏やかではないな」
低く、抑揚の少ない声。
挑発でも皮肉でもない。ただ事実を述べるような口調。
その落ち着きが、逆にアレンの神経を逆撫でする。
「穏やかに済ませるつもりはない」
アレンはゆっくりと顔を上げる。
二人の視線が真正面からぶつかった。
その瞬間、訓練場の空気がさらに一段冷えたように感じられた。
ルシアンはわずかに目を細める。
アレンの呼吸、脈拍、視線の揺らぎ。
その全てを読み取ろうとする。
一方のアレンもまた、ルシアンから目を逸らさない。
政治も策略も分からない。
だが、この男だけは見失ってはいけない。
そんな本能にも似た感覚があった。
訓練場を吹き抜ける夜風が、二人の間を静かに通り過ぎる。
月明かりだけが、広い石造りの空間を淡く照らしていた。
互いに数歩の距離。
それだけしか離れていないはずなのに、その間には鋭い緊張が張り詰めている。
勇者アレン・ヴァルデン。
新公爵ルシアン・ヴァルグレイ。
どちらも剣には手を掛けていない。
一歩踏み込めばいつでも戦いが始まる。
そんな空気だった。
先に沈黙を破ったのはルシアンだった。
「用件は」
アレンを前にすると、不思議と言葉が喉につかえる。
握り締めた拳に力が入る。
『話があるのだろう』と確認するだけの一言。
その平坦さが、かえってアレンの胸をざわつかせる。
(……落ち着け)
ここへ来るまで、何度も頭の中で言葉を整理した。
胸の内にある違和感をぶつけること。
そのために呼び出したはずだった。
なのに。
いざ本人を前にすると、不思議と言葉が喉につかえる。
握り締めた拳に、自然と力が入った。
「エリアスのことだ」
ようやく絞り出した言葉。
その名が落ちた瞬間、風が止んだ気がした。
祝宴の音も、遠のいた。
月光だけが、やけに鮮明だった。
ルシアンの瞳に、わずかな光の変化が走る。
「続けろ」
その声は淡々としていた。
エリアスの名を出された瞬間から、空気の密度は明らかに変わっている。
アレンは一瞬だけ視線を逸らした。
月光が彼の横顔を白く照らす。
怒りに燃えていたはずの瞳に、わずかな迷いの色が混じる。
拳を握りしめたまま、しかしその力がほんの少し緩んだ。
「……エリアスの隣に立つの、俺より多くないか?」
…………。
…………。
…………。
沈黙。
夜風が再び吹いた。
石床を撫でるように風が流れ、ルシアンの黒い外套がゆっくり揺れる。
ルシアンは何も言わない。
表情も変わらない。
その沈黙は妙に長かった。
(……違う。
こんなことを言うために呼び出したんじゃない)
本当はもっと別のことを聞くつもりだった。
ルシアンの狙い。
王国の未来。
全部問い詰めるつもりだった。
「……は?」
ルシアン・ヴァルグレイが、この夜初めて見せた、人間らしい反応だった。
アレンは腕を組んだまま、視線だけをルシアンに向ける。
それなのに。
口から最初に出てきたのは。
「だからさ」
今度は少し早口になる。
「祝宴でもそうだったし、会議でもそうだし。
俺、勇者だぞ? 普通もっと隣にいるだろ」
夜の訓練場に、不思議な間が落ちる。
さきほどまで刃のように張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
考えた。
嘲りか。挑発か。罠か。
アレンの表情は妙に真剣だった。
演技ではない。
本気で言っている。
それが理解できた瞬間、ルシアンはゆっくりと息を吐いた。
「勇者の職務に、立ち位置の占有権は含まれていない」
「いや、占有権とかじゃなくてな……なんか自然に隣にいるだろ、お前」
アレンは眉をひそめた。
一歩、踏み出す。
石床が鳴る。
月光が二人の間に落ちる。
その間に流れる空気は、先ほどとは質が違っていた。
ルシアンはアレンを観察する。
勇者の表情は恐ろしいほど真剣だった。
(……本気か)
理解した瞬間。
ルシアンは、アレンに気づかれないほど小さく息を吐いた。
(想定外だ)
魔王軍の奇襲。
王族の内乱。
貴族の裏切り。
その全ては計算できた。
しかし、勇者が夜中に呼び出してきた理由が、
『聖女の隣に立つ回数』
だったことだけは、さすがのルシアンも予測できなかった。
「彼女の立場上、私が隣にいる方が都合が良い場面が多い」
ルシアンは表情一つ変えずに言い切った。
その言葉に、アレンの眉がぴくりと動く。
「都合ってなんだよ。
だからその"言葉通り"が分からねぇんだよ!」
思わず声が大きくなる。
夜の訓練場に、その声が何度も反響した。
ルシアンはわずかに首を傾げる。
「聖女エリアスは今や王国の象徴だ。発言一つで貴族は動き、民衆は希望を抱く。彼女が不用意に政治へ巻き込まれぬよう、盾となる存在が必要になる」
「だからお前?」
「私が最も適任だからだ」
「だったら勇者である俺が隣にいるべきだろ。
なんでそんな自信満々なんだよ!
勇者は希望なんだよ!」
「その通りだ」
「希望の隣には聖女がいるもんだろ!」
「誰が決めた」
「勇者っていうのは、そういう役回りなんだよ!」
「役回り?」
「魔王を倒して! 聖女を守って! 最後は隣で笑ってる!ラノベのお約束だ!」
「……らのべ?」
ルシアンの眉がわずかに寄る。
「いや、なんでもない!」
危うく口を滑らせたアレンは慌てて咳払いをする。
ルシアンは、ほんの僅かに目を細めた。
アレンは頭を抱えた。
本人は正論だけを積み重ねているつもりなのだろう。
だが、その積み重ねた正論の上で、いつの間にか女性陣の隣を当然のように確保している。
それが気に入らない。
「理解不能だ」
ルシアンはしばらく沈黙を貫いた末、ようやく一つの結論だけを口にした。
その声音はあまりにも冷静だった。
「だろうな!」
アレンは逆に胸を張った。
ルシアンが眉をわずかに寄せる。
「でも分かってくれ!」
「理解不能なものを理解しろと言われても困る」
「努力しろ!」
「必要性を感じない」
「そこを努力で補え!」
「努力とは必要なものに対して行うものだ」
「必要だって!」
「私には不要だ」
「俺には必要なんだよ!
くっ……!」
アレンは思わず一歩踏み出し、歯噛みする。
その勢いに押されることもなく、ルシアンは静かに立ったまま視線を返す。
(……厄介だ)
アレンは心の底からそう思った。
敵として戦うならまだいい。
剣を交えるだけなら単純だ。
会話になると、この男は恐ろしく厄介だった。
その勢いに押されることもなく、ルシアンは静かに立ったまま視線を返す。
「勇者殿」
「なんだ!」
「落ち着け」
「落ち着けるか!」
「……それは嫉妬か?」
「は?」
アレンの動きが止まる。
「勇者殿が、聖女の隣に立てぬことへの」
「お前な……本当にいい度胸してるよな。リリィの時もそうだった」
アレンは歯を食いしばり、どこか拗ねたように言い放つ。
月光が、二人の間に冷たい線を引く。
ルシアンの眉が、わずかに動いた。
「……リリィ?」
「とぼけるな!」
アレンの声が夜気を震わせる。
石壁がわずかに反響を返す。
ルシアンは無言で瞬きをする。
意味が分からない顔だ。
月光が、二人の影を伸ばす。
勇者の影は揺れ、貴族の影は微動だにしない。
「お前な……」
アレンは額を押さえる。
夜風が吹き抜ける。
黒い外套が揺れ、聖剣の鞘がかすかに鳴る。
「そのうちセリーヌ王女まで自然に隣に立つだろ」
「王女とは外交上の――」
「それだよ!
“外交上”とか“立場上”とか“当然”とか言いながら、全部自然に横取りしてくんだよ!」
アレンは叫ぶ。
ルシアンは沈黙する。
彼は真剣に考えている。
政治でも陰謀でもなく。
勇者の訴えの意味を。
「確認していいか?」
「勇者殿は、私が女性陣の隣に立つ頻度を問題視しているのか」
「勇者ポジションだ」
アレンは即答する。
「……勇者ポジション」
「勇者の左右はな、女性で埋まらないといけないんだよ」
ルシアンの思考が、明確に止まった。
月光の下、灰色の瞳がわずかに揺れる。
沈黙。
夜風が吹く。
剣は、まだ抜かれていない。
だが、張り詰めた緊張は、もはや戦意とは違う方向に膨れ上がっていた。
守る者と、理解して縛る者。
本来なら刃を交えるはずの二人が、月光の下で真顔のまま恋愛ポジション論を語っている。
ルシアンはゆっくりと息を吐いた。
「勇者殿」
「なんだ」
「私は君の“ハーレム候補”なる構想に、一切関与していない」
「関与してるだろ!」
アレンは聖剣の柄に手を置くがまだ、抜かない。
訓練場に立つ二つの影は、まだ交わらない。
「……嫉妬ではない。勇者の正当な危機管理だ」
アレンは聖剣ルミナスを鞘から抜く
ルシアンは、ほんの僅かに眉間を押さえた。
夜の訓練場に、乾いた風が吹き抜ける。
二人は、確実に衝突寸前まで迫っていた。




