第40話 幻惑の魔女
霧が、音を食っていた。
この空間そのものが、“音を拒絶している”。
つい先ほどまで、確かにそこにあったはずの気配。
アレンたちの存在。
剣戟がぶつかる鋭い金属音。
魔術が炸裂する衝撃。
怒号と、呼吸と、叫び。
それらすべてが、水底へ沈むように、ゆっくりと遠ざかっていく。
足音を立てたはずなのに、返ってくるのは一拍遅れた残響。
視線を横に振ると、景色が半歩分だけ“追いついてくる”。
まるで、見えない粘膜に覆われているかのように。
「……空間が、歪んだ」
カミラは即座に弓を構え、周囲を見渡す。
敵の位置を探るためではない。
“正しい世界”を見つけるために。
「分断ですか。随分と手の込んだ歓迎です」
冗談めいた口調だが、額には薄く汗が滲んでいる。
カミラはトレヴァーの声が右側から聞こえた。
視線を向けると、そこにはいない。
左側に、立っている。
音と視覚が、繋がっていない。
霧の奥から、足音もなく“彼女”が現れた。
長い紫髪が、ゆっくりと揺れている。
空気の流れとは、関係なく。
その周囲だけ、空間が歪んで見える。
空間が、彼女に合わせて変形しているかのように。
―ぱち。
―ぱち、ぱち。
乾いた音。
場違いなほど、軽やかな拍手。
だが、その一音ごとに、空間が震える。
「ふふ……怖がらなくていいのよ?」
耳元で囁かれているのに、霧の向こうから響いている。
「気づかないうちに」
一歩。
踏み出したのは、彼女か、それとも空間か。 判別できない。
「もう、壊れているから」
すでに“間合い”という概念が壊れている。
「……ッ!」
カミラの指が、反射的に弦を引いた。
矢は、すでに番えられている。
放てば届く距離。狙いも、狂っていない。
筈なのに。
放った瞬間、外れる。
そう“分かってしまう”。
直感ではない。経験でもない。 もっと根深い何か。
“結果が歪められている”感覚。
そのとき。くすり、と。
軽い笑い声。
「いい組み合わせね。沈黙の狙撃手と信仰の調停者」
幻惑の魔女メレナが、柔らかく微笑む
声音は優しい。
穏やかで、包み込むような響き。
敵意すら感じさせない。
それなのに。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
この空間。
異様なのは、視界だけじゃない。
魔力の流れ。
それが、あまりにも滑らかすぎる。
「……術式が、空間そのものに溶け込んでいる」
トレヴァーが、低く呟く。
これは。
結界ではなく“世界そのものの書き換え”。
「さあ、始めましょうか」
メレナが指先を鳴らす。
《偽界展開》
霧が、爆発的に広がった。
ただ濃くなるのではない。
膨張する。押し寄せる。
空間そのものを塗り潰すように。
地面も壁も天井も意味を失い、上下左右の感覚が崩れる。
足を踏み出したはずなのに、踏んだ“感触”が遅れてやってくる。
「上下左右が……!」
トレヴァーが体勢を崩す。
踏み込もうとした足が空を切る。
「トレヴァー! 声の方向を信じるな!」
カミラの声が響く。
だが、その声は一つではない。
幾重にも重なり、同時に異なる位置から聞こえる。
「信じるなって言われても!? 全部から聞こえてます!?」
トレヴァーの返答もまた、分裂する。
「当然でしょう?」
メレナの笑い声が、すぐ背後から聞こえた。
視界に映るメレナは、一人。
だが、気配が、増えていく。
トレヴァーとカミラの気配も、同様に分裂する。
仲間の存在すら、定まらない。
「ここではね、“どこにいるか”は私が決めるの。ただし基準はあなた。
“そう思った場所”に、あなたを置いてあげる」
霧が、さらに濃くなる。
視界が曖昧になるのではない。
“確信”が曖昧になる。
だがら――
トレヴァーは、目を閉じた。
視覚は、裏切る。聴覚も、歪む。
ならば。
信じるべきは、一つだけ。
内側にある“確かなもの”。
信仰。
「神よ」
静かに、祈る。
霧の中で、淡い光が灯る。
「偽りを貫き、真を示せ」
手をかざす。 光が収束する。
純白の鋭い光槍となる。
《光槍洗礼》
視界の中心に立つ、あの存在。
幻惑の魔女メレナ。
光槍は、空間を裂きながら突き進む。
霧を焼き、歪みを貫き、一直線。
貫いた手応え。
肉を裂き、内部を穿つ確かな衝撃。
「……当たっ」
言葉が、止まる。
違和感。遅れて、視界が“追いつく”。
そこにいたのは。
「――っ、カ……ミラ……?」
光に貫かれていたのは、メレナではなかった。
カミラだった。
胸元を、白い槍が貫いている。
血が、遅れて滲む。
赤が、霧の中に広がる。
「……っ……は……?」
トレヴァーの思考が、止まり理解することを拒否する。
照準も、祈りも、すべて。間違えていない。
結果が、“入れ替わっている”。
「……あ、は……」
カミラの口から、かすれた声が漏れる。
膝が、崩れる。
弓が、手から落ちた。
カラン、と。
霧の奥で。くすり、と。
メレナが笑う。
楽しそうに。
本当に、心から愉しんでいるように。
「言ったでしょう? あなたが“そこにいる”と信じた場所に、そのまま“そうなる結果”を置いてあげただけ」
トレヴァーの呼吸が、乱れる。
信仰が、揺らぐ。
基準が、崩れる。
“正しいはずの一撃”が、最も守るべきものを貫いた。
その現実が、心を抉る。
「ほら」
メレナが、微笑む。
「もう、何も信じられないでしょう?」
「――っ!」
振り向いた瞬間、視界が反転する。
霧の中に、影が立っていた。
輪郭は曖昧。
だが、その姿だけは、はっきりと分かる。
忘れようとしても、忘れられない形。
記憶に焼き付いている、あの背中。
かつて、救えなかった者の姿。
血に濡れ、崩れ落ちた瞬間。
伸ばした手が、届かなかった。
あの時の空気。あの時の匂い。
すべてが、ここに再現されている。
「……」
カミラは、息を詰める。
弓を引くことができない。
その影は、責めるでもなく、ただ静かに彼女を見つめていた。
「……優しいのね、あなた。だからこそ後悔が深い。疑って、間違えて、傷つけて……そうして心は、簡単に壊れるの」
言葉が、心の内側をなぞる。
カミラの視界が、揺らぐ。
過去に取りこぼした命たちが、静かに立っている。
その沈黙が、叫びよりも重くのしかかる。
「やめ……て……」
かすれた声が漏れる。
だが、止まらない。
霧は、記憶を選び取る。
カミラの視界に、2人のトレヴァーが現れる。
敵意がないトレヴァーと、聖杖を振り上げ、敵意を向けるトレヴァー
この近距離では。
撃てば、確実に死ぬ。
カミラは歯を食いしばる。
メレナは、わずかに目を細めた。
愉しげに。
ほんの少しだけ、意外そうに。
(あら……これは、ちょっと想定以上にいい顔するじゃない)
自分の手で仲間を殺したのよ?
大事な相棒を。
くすり、と。
声にならない笑みが、霧の奥で溶ける。
視線を、ゆっくりとカミラへ。
貫かれたままの身体。
血は流れている。
指先が、わずかに揺れる。
それだけで、結果は変えられる。
傷は“なかったこと”にもできる。
逆に本当に死なせることもできる。
(……でも、それはダメなのよね)
ほんの一瞬、つまらなそうに眉を寄せる。
(“殺すな”って、釘刺されてるし)
肩をすくめるように、小さく息を吐く。
(目的はあくまで、時間稼ぎと戦闘データ)
視線が、再びトレヴァーへ戻る。
(……信仰者のくせに、“内側”に籠もったまま?)
わずかに、眉が寄る。
この空間は、認識で成り立っている。
だからこそ。
“干渉されれば”、崩れる。
だがトレヴァーは、それをしていない。
祈っているのに。 届かせていない。
(困るわね、それじゃ解除できないじゃない)
この幻は壊させることも前提に設計している。
肩をすくめるように、息を吐く。
(仕方ない……少しだけ、優しくしてあげましょうか)
霧が、わずかに揺れた。
ほんの微細な変化。
意図的な“綻び”。
空間の奥に、わずかに“歪まない一点”が生まれる。
「……効きますね。こういうのは。胸の奥を、じわじわと削ってくる」
トレヴァーは歯を食いしばり、立ち上がる。
手が震える。
だが、彼は聖杖を強く握りしめ。
《救済の鐘》
澄んだ鐘の音が、霧を震わせる。
精神の澱が洗い流され、二人の視界が一瞬、澄んだ。
「……助かった」
カミラが、息を吐いた。
「お互い様だよ」
「なるほどね。自分の弱さを認めて、それでも立つなんて……美しいわ」
メレナは、少しだけ感心したように目を細める。
次の瞬間。
霧が、糸のように絡みついた。
《魂縫い(ソウル・ステッチ)》
見えない拘束。
恐怖を縫い止め、心を麻痺させる術。
「……?」
完全には、止まらない。
カミラの中にあるのは、恐怖ではない。
怒りと、覚悟。
「……縫えない。壊れていない心は、奪えないのね」
メレナは、小さく眉をひそめた。
「迷うことはあっても……私は、決して“折れ”たりしない!」
カミラは弓を引き絞る。
「怖くても、前には進めます……神官なんて、所詮そんなもんです!」
トレヴァーが、隣に立つ。
二人の魔力が、重なった。
《聖影循環弓》
カミラの放った矢が、霧を塗り潰す。
幻界そのものが、ひび割れていく。
「時間切れね……でも、あなたたち、本当にいいコンビね!」
メレナは距離を取り、微笑んだ。
すべてが、ほどけて。
《夢幻分界・ミラージュ・ラビリンス》が崩壊した。
すぐにアレン、エリアス、ガイア、リリィの姿が見えた。
「いない……」
メレナの姿は、どこにもなかった。
ただ、胸の奥に残る、わずかな違和感だけが、 彼女が確かに“そこにいた”証のように、消えずに残っていた。




