第3話 王女と勇者 ― 正義の眼と仮面の悪
王都リグレインの朝は、いつも光に満ちている。
だが、その日だけは違った。
噂が風に乗って、王城の廊下を駆け抜けていた。
「お聞きになりましたか? “冷血侯爵”が、また――」
「北区の反乱鎮圧で、容赦なく……」
「ひとりの命も救わず、ただ沈黙のまま去ったとか」
金糸の髪を揺らしながら、セリーヌ=アルヴァ=リグレインは立ち止まった。
侍女が不安げに告げる声が、やけに遠くに聞こえた。
「……ルシアン・ヴァルグレイ、ね」
王女の唇がわずかに動く。
その名を呼ぶとき、冷たい記憶がよみがえった。
数ヶ月前、市へ下りた際――灰の外套に包まれた男がいた。
あの時の視線。冷たいのに、妙に穏やかだった。
「殿下?」
「いえ。少し風が冷たくて」
セリーヌは手袋を直しながら、心の中でひとつの言葉を反芻した。
――正義。
王家の理念。それは「弱き者の声を聞く」こと。
王女である自分が果たすべきは、裁くことではなく、守ること。
だが、胸の奥でざらつく感情があった。
“噂”が事実だとしたら?
もし、彼が本当に“悪”であるなら、正義はどちらにあるのか。
「正義は、誰かを裁くための剣ではない。――救うための光でなければ」
そう口にして、セリーヌは窓辺に立った。
朝の陽光が金の髪を照らし、瞳に冷たい決意を映した。
「やあ、久しいな。王女殿下」
剣の音が響く訓練場。
黒髪の青年が振り返り、微笑を浮かべた。
勇者アレン・ヴァルデン。王国が誇る最強の剣士にして、民の希望そのものだ。
「アレン。あなたが王都に戻るとは思いませんでした」
「少し、気になる話を聞いてね。ルシアン侯爵のことだ」
「……あなたも?」
「“冷血侯爵”。噂だけが一人歩きしている。だが、俺はまだ信じたくない」
アレンの声は穏やかだが、瞳の奥には炎があった。
彼の正義は、いつだって“確かめる”ことから始まる。
「俺は、侯爵の真意を調べるつもりだ。誰かの言葉でなく、自分の目で」
「あなたらしいわ」
セリーヌが微笑む。
けれど、その笑みには少しだけ影が差していた。
「けれど、もし本当に民を苦しめているのだとしたら――」
「その時は、俺が剣を取る。たとえ相手が貴族でも、だ」
風が二人の間を抜けた。
セリーヌの青い瞳が、まっすぐにアレンを見つめる。
「真実は、時に誰よりも残酷だ。だがそれを見なければ、誰も救えない」
「なら、私は見ます。あなたと共に――真実を」
剣士と王女。
正義を信じる二人の瞳が、同じ一点を見つめていた。
――まだ、何も知らぬままに。
王都中央の市場は、いつも賑やかだ。
だが、その日は妙に静かだった。
「なんだか……重い空気ですね」
「ええ。値上がりもひどいです。小麦が昨日より三割高いとか」
セリーヌはフードを深くかぶり、庶民の服に身を包んで歩いた。
護衛のアレンが隣を歩く。二人の姿に気づく者は少ない。
「ルシアン侯爵の税が厳しいんだとさ」
「やり方が冷酷なんだって。反抗した村が、一夜で……」
子供の泣き声が風に混じった。
老人がうずくまり、商人たちが息を潜める。
そのとき、空気が変わった。
馬車の音。鎧の擦れる金属音。
――彼が、通る。
「っ……!」
セリーヌの心臓が跳ねた。
馬上に立つ男。黒衣に銀の刺繍。
まるで闇夜に差す月のように、冷たく美しい。
ルシアン・ヴァルグレイ。
彼が視線を向けるだけで、群衆は息を止めた。
誰も声を上げない。目を伏せ、ただやり過ごす。
まるで嵐の通過を祈るように。
その沈黙が、恐怖よりも雄弁だった。
「……あれが、“冷血侯爵”」
「確かに冷たく見える。でも、ただの噂だけでは説明がつかないな」
アレンは静かに目を細めた。
ルシアンが通り過ぎた後、わずかに一人の老婆が手を合わせて祈った。
――誰もそれを見ようとしないまま。
「恐れは、時に嘘より強い。だから俺は、恐れの裏側を見に行く」
「あなたの目には、あの侯爵がどう映っているの?」
「……まだ、分からない。ただ、彼が悪なら斬らねばならなくなる。」
「侯爵ルシアンの行いを、これ以上放置することはできません!」
王城の会議室。
セリーヌの声が響く。
円卓には王、アレン、そして重臣たち。
「民からの訴えは山のようです。商人の破産、村の飢餓……このままでは王国の理念が崩れます!」
王は沈黙していた。
白髪の下の瞳が、どこか悲しげに細められる。
「セリーヌ。正義とは、時に誰かを犠牲にして守るものだ」
「犠牲にしてよい命など、ひとつもありません!」
その声は、会議室の空気を震わせた。
アレンがそっと立ち上がる。
「陛下、俺に調査を任せてください。真実を見極め、必要ならば剣を振るう」
「……よかろう。だが、慎重に動け」
会議が終わり、廊下を歩くセリーヌの手がわずかに震えていた。
怒りか、それとも不安か。
「あなた、本当に戦うつもりなの?」
「戦いじゃない。確かめるだけだ。彼が敵なのか、味方なのかを」
「……私も、確かめます」
セリーヌの決意は、夜風のように静かで、鋭かった。
その夜。
王女の執務室に、一通の封書が届いた。
封蝋には、見覚えのない印章。
中には短い文だけが記されていた。
『侯爵領にて、救援物資の配布を確認。罪なき者を救う、仮面の手に注意せよ』
セリーヌは息を呑む。
――救援、だと?
「偽りの善か、隠された真か……」
胸の奥で何かが揺れた。
彼が“冷血”を演じているとしたら?
悪を装い、何かを守っているのだとしたら?
それを確かめるために、彼女は決めた。
王女として、直接対面する。
夜、霧が王都を包む。
ルシアン邸の門が開かれると、そこには静寂があった。
豪奢で、冷たい。
まるで心そのものを拒むような館。
「王女殿下をお迎えいたします」
老執事セバスチャンの声が響く。
彼の瞳は、どこか探るように優しかった。
「ご案内を」
ルシアンは、薄い笑みを浮かべて立っていた。
青い瞳に光を宿さず、淡々と礼を尽くす。
「ようこそ、王女殿下。夜更けに訪問とは珍しい」
「あなたに、問いたいことがあるのです」
「おや。王家の剣ではなく、言葉をお持ちとは」
「……民の声です。あなたの施政で、彼らは苦しんでいる。
それを“秩序”と呼ぶのですか?」
ルシアンの唇がゆっくりと歪む。
「秩序には代償が必要だ。
腐敗を断つには、時に血を流さねばならない」
「それが正義だと?」
「いや。私は“悪”だ。だが、悪がなければ秩序は保てない」
セリーヌの瞳が怒りで震える。
アレンが一歩前へ出ようとしたが、彼女が手で制した。
「正義を掲げた者ほど、世界を誤る。私は悪を演じて、秩序を守る」
「人の命を“演出”と呼ぶあなたを、私は決して許せない」
沈黙。
ルシアンの背後、セバスチャンがわずかに眉を寄せた。
だが何も言わない。
ただ、主を見守るように立っていた。
「殿下。あなたの正義が光ならば、私の行いは影だ。
だが――影がなければ、光は形を持たぬ」
セリーヌは息をのむ。
その言葉が、どこか哀しみを含んでいたから。
「……あなたは、本当に悪人なの?」
「私が悪である方が、あなたの正義は美しく輝く」
そう言い残して、ルシアンは背を向けた。
光の届かぬ闇の奥へ。
翌朝。
王都の空に、淡い光が戻る。
セリーヌは机に向かい、報告書を書いていた。
アレンは装備を整え、馬に鞍をかける。
「行くのね」
「ああ。真実の裏を探るために」
「もし彼が本当に“悪”だったら?」
「その時は、俺が剣を抜く」
「……でも、私は祈るわ。あなたが、その剣を抜かずに済むことを」
アレンは微笑み、振り返らずに去った。
窓の外では、侯爵邸の灯りがまだ消えていない。
セリーヌは静かに筆を置いた。
「正義が誰かを照らすなら、同じ光が誰かの影を生む。
ならば私は――その影を、見張る者であろう」
朝日が城を染める。
新たな正義が、歩き出そうとしていた。
だがその影で、ひとりの執事が密かに動いていた。
セバスチャン――主の“裏の忠誠”と“疑念”を抱えながら。




