第25話 王女の突然訪問
夜の静けさは、まるで計算された沈黙のようだった。
ここは王都の片隅、地図にも載らぬ邸宅。
ルシアン=ヴァルグレイが「誰にも見つからぬため」だけに造り上げた、秘密の隠れ家である。
書斎には、整然と並ぶ書物の背表紙と、深い青のカーテンが夜気を吸いこんでいる。
蝋燭の炎がひとつ、微かに揺らめいた。
ルシアンは、机の上の茶器を静かに置いた。
「……ようやく、一息つけるな。」
王都の政争。勇者パーティを巡る騒動。
すべての思考を一度切り離し、ただ一杯の紅茶に心を沈めようとしていた――その瞬間。
――コン、コン。
扉を叩く、控えめでありながら確実なノック音。
ソファで本をめくっていた少女エリアスが、びくりと肩を揺らした。
「……いまの音、誰か来たんですか?」
「静かに。」
ルシアンの低い声。冷静に見えて、その心拍は一気に跳ね上がっていた。
(待て、ここを突き止められた? 何者が? ……いや、それよりこの状況――!)
彼は軽く指で合図を送り、エリアスに目で命じる。
《――隠れろ。》
エリアスは一瞬「えっ」と小さく声を上げたが、即座に察した。
そして、彼女はため息をつきながら机の下へと滑り込む。
「ちょ、ちょっと……狭いですよ、ここ……」
「今は我慢してくれ、頼むから。」
「……はいはい。」
(くっ、この状況……よりによって、私の机の下に隠れるとは。)
ノックはもう一度、二回。
ルシアンは深呼吸をひとつ。
そして、間をおいてから静かに扉が開いた。
――王女セリーヌ・アルヴェイン。
月光を背に、淡い青のドレスをまとい現れた王女の姿に、ルシアンの表情が一瞬だけ揺れる。
そのわずかな動きを、机の下のエリアスが見逃すはずもない。
(なぜだ。なぜ王女が、ここに?)
内心、氷のような思考が高速回転を始める。
王族がこの場所を知っている時点で、秘密の意味は崩壊だ。
しかも――今、エリアスがこの場にいる。
「(ねぇ、王女ってまさか……あのセリーヌ王女?)」
「(頼むから声を出すな!)」
彼の内心はすでにパニックだった。
ルシアンは紅茶を静かに置いた。
「……この時間に訪問とは、随分と大胆なご趣味だな」
声は冷ややかに、だが礼を欠かぬ穏やかさで。
セリーヌは上品に椅子へ腰を下ろす。
白金の髪が月明かりに反射して、まるで光を纏うようだった。
セリーヌは意味深な笑みを浮かべ、指先でカップをなぞる。
「侯爵ルシアン殿。お休みのところ申し訳ないわ。けれど、急を要する話なの」
「ふむ。王族の“急”とは、国政か……それとも私個人に関わることか」
セリーヌはわずかに微笑んだ。その笑みは、社交の仮面を貼りつけたまま、どこか挑発的でもあった。
「――あなた、勇者パーティのこと。……それに、“聖女エリアス”の件も、知っているわよね?」
その瞬間―― カタリ。
机の下で何かが微かに動いた。
ルシアンはほとんど表情を変えなかった。
ただ視線だけを落とし、ほんの僅かに呼吸を整える。
(……やれやれ。よりにもよってこのタイミングか)
「……? 何か聞こえたかしら?」
「いえ、古い屋敷ですから。夜風が石壁を鳴らすこともあります」
完璧な平静。
だが机の下では、エリアスが膝を抱え、目を丸くしていた。
(ちょっ、どうするのこれ! 私、バレたらヤバい状態じゃない!)
彼女は息を潜めながら、ルシアンのズボンの裾を小さく引く。
――まるで「助けて」とでも言いたげに。
(……頼む、動くな。もう一度音を立てたら終わりだ)
ルシアンは眉一つ動かさず、静かに席へ戻る。
「それで。王女殿下が、夜分に“秘密”などと仰るのは、いかなる意味で?」
セリーヌは椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。
上品な仕草だが、その眼差しには“試す”ような色があった。
「あなた、勇者一行の動向を追っているのでしょう? そして……その中の“ある人物”に特別な関心を抱いている」
ルシアンの心拍が、一瞬だけ跳ねた。
(……やはり、彼女の存在が……!)
しかし表情は冷たい水面のように、何の波紋も見せない。
「……根拠のない憶測に過ぎません。王女殿下」
「そう? けれど、あなたの“書簡の一部”を調べてみたの。そこには“彼女”の名があったわ」
彼女。
その一言に、机の下のエリアスがびくりと反応した。
そして、こっそりルシアンの足を小突く。
(ねぇ、私のこと? 私のことって言ってる!?)
(頼む、黙ってろ……!)
机の下で、エリアスがくすくすと笑う。
小声で囁くように――「ルシアン様、顔が青ざめてますよ? かわいい。」
(やめろ……頼む、静かにしてくれ……っ!)
セリーヌは紅茶を一口飲み、微笑を浮かべる。
ルシアンは咳払いひとつで平静を保つ。
「殿下。“彼女”とは、どなたのことでしょうか?」
「まぁ、焦らないで。……勇者パーティの聖女、エリアス・フェルンよ」
(!)
ルシアンの思考が一瞬、止まった。
机の下でも同じく、エリアスが小声で息を呑む。
(ば、バレた……!?)
その微笑は優美でありながら、どこか挑発的だった。
言葉の裏に隠された“試し”を感じ取ったルシアンは、表面上の余裕を崩さないまま紅茶を口にする。
しかし、王女の口調は別の方向を示していた。
「あなた、彼女を勇者一行の“弱点”として見ているのでしょう? だからこそ動向を調べている。違う?」
ルシアン(心の声): (……弱点? いや、隠しているとはいえ彼女を“利用”など……誤解が過ぎるな)
「私は分析をしているだけです、殿下。感情的な介入は一切――」
「でも、“分析”の書簡で“彼女の容姿の描写”に二頁も費やす必要があるのかしら?」
ルシアン、一瞬沈黙。
机の下で、エリアスが口元を押さえてぷるぷる震えている。
(ちょっと、二頁って何!? そんなに私のこと書いてたの!?)
「……それは観察記録の一環です」
「そう。とても“詩的な観察”ね」
セリーヌは意味深な微笑を浮かべた。
それはまるで、「あなた、恋をしているでしょう?」と告げるような。
(……面倒な展開だ)
ルシアンは、内心で短く嘆息した。
「さて、本題に入りましょう」
セリーヌは組んだ指を顎に添え、低く続けた。
「勇者たちは現在、北方の渓谷で消息を絶っています。私は秘密裏に、あなたに捜索支援を要請したい」
「……勇者の補助に、私が?」
「ええ。そして、聖女エリアスの安否確認を最優先に」
机の下で、エリアスがこっそりガッツポーズを取る。
(わーい、捜索対象本人だよ! 皮肉すぎる!)
セリーヌは優雅に脚を組み替え、じっと彼を見つめる。
「どう? “取引”をしましょうか。貴方も、勇者たちを救いたいのでしょう?」
机の下で、また足をつつかれる。
「ねぇ、上手にかわしてみせてくださいね? 貴族の交渉術、見せどころですよ?」
「……頼む、やめてくれ。」
「ふふっ、声が震えてますよ?」
(……この女、絶対楽しんでるな。)
ルシアンは軽く目を細める。
「救う……というより、“手遅れにしない”ための手を打つつもりです。」
「ふふ、やっぱりね。貴方は計算高いけれど、最後には誰かを見捨てられない。」
(……やめてくれ。そんな風に言われると余計に誤解を招く。)
セリーヌの瞳には、知略と優しさの両方が宿っていた。
だがその微笑の裏に、まだ“別の狙い”があるのをルシアンは感じ取っていた。
(……王女がわざわざ一人でここへ? ただの確認ではない。彼女は、何かを掴んでいる。)
「その前に、貴方の“心構え”を知りたいわ。勇者アレンの仲間たち――たとえば、聖女エリアス。彼女をどう思っているの?」
――その名が出た瞬間。
机の下で、エリアスの体がぴくりと跳ねた。
「ちょ、ちょっと……また、名前出ましたけど!?」
「静かに……!」
(なぜまた、その名を出すんだ……!)
セリーヌは彼の反応を見逃さない。
「ふふ、図星?」
「取引の条件を聞かせてください。」
「しかし、報酬は?」
「侯爵の望むものを。
金貨でも、爵位でも……好きなものをお選びになって可能な限り」
(落ち着け、自然に……“現実的な報酬”を言えばいい……金貨?爵位?それとも……)
だが、口が勝手に動いた。
「……王女殿下。もし可能であれば――次の舞踏会で、私と一曲、踊っていただけませんか?」
沈黙。
蝋燭の炎が小さく揺らぐ。
空気が、一瞬、止まった。
セリーヌのまつげがわずかに震える。
カップの紅茶が、ほんのわずかに波打った。
「……え?」
セリーヌは一瞬で硬直した。
(えっ、ま、待って。婚約者がいるのに……踊るって?この人、正気?)
「なにか不都合でも?」
「……ふふ。あなたって、本当に大胆ね」
「い、いえ、それほどでも!」
机の下で、エリアスが口元を押さえ、肩を震わせて笑いを堪えている。
「ルシアン様、想像以上に大胆ですねぇ♡」
(ち、違う!違うんだ、口が滑ったぁぁぁ!)
瞳の奥にわずかな揺らぎ―
セリーヌは紅茶を一口飲み、真顔に戻った。
「……もし、このことが“バレたら”、大変なことになるわよ? 本当に大丈夫?」
(勇者にバレたら、確かにまずい。でも――今さら引けない!)
「問題ない」
「……そう。あなたって……覚悟があるのね」
(ねぇ、“バレたら”って……まさか王女、私のこと……!?)
(ちが――!勇者アレンの話だッ!!)
(ふぅん……なら、もう少し面白くしてあげる♡)
「ところで、侯爵。あなた……彼女のこと、どう思っているの?」
唐突な問い。
ルシアンは短くまばたきした。
セリーヌは“婚約者のこと”を指していた。
だがルシアン達は、“聖女エリアス”のことだと勘違いした。
机の下――エリアスがぴくりと動く。
小さく、いたずらっぽく、だが確かな威圧を含んだ囁きが届く。
「さぁ、どう答えるんですかぁ? ルシアン様――納得のいく答えじゃなかったら、今ここで机から出て来て、直接確かめさせてもらいますからね?」
その一言にルシアンの背筋が跳ね上がる。心の中で、慌てふためく声が鳴る。
(ちょ、ちょっと待て。出てくるとか、冗談でも勘弁だ!)
ルシアンは、言葉を選びながらも急いで口を開いた。声はいつもの冷静さを保とうとしていたが、どこかぎこちない。
「彼女は、誠実で――理知的で、困ったときに決して手を放さない。信頼に値する者です」
机の下が、くすくすと鳴った。エリアスの小さな勝ち誇った息遣いが、脚元に伝わる。
「ふふ。なるほど。……それで納得できなければ、私は出て行きますよ? 本当に――出て行ってしまっていいんですからね?」
ルシアン、勢いづく。
「心が綺麗で、優しくて、笑うと周りが明るくなる! 俺が……一番守りたかった人だ。」
セリーヌ、顔を赤くして目を瞬く。
(こ、ここまで……想ってる……!? まさか、私と躍り……嫉妬作戦!?)
机の下で――
バンッ!と何かが震えた。
「時に無茶をするが、それも他者を思っての行動だ。私はその強さを尊敬している」
セリーヌは頬を紅潮させ、瞳を伏せた。
(……そんな風に婚約者を語るなんて……ずるい。どうしてそこまで誠実なの)
「……ルシアン」
セリーヌは静かに言った。
「その気持ち、彼女に伝えるべきだと思うわ。隠すより、誠実に」
数分後。
「取引は成立したようね、ルシアン卿。舞踏会、楽しみにしているわ」
その言葉とともに、王女が優雅に退出する前に扉の前で振り返った。
「……今夜の話、他言無用よ。もし広まったら――とても“面白いこと”になるから」
妖艶な笑みを浮かべ、彼女は去っていく。
机の下で、エリアスがこっそり小声を漏らす。
「(……ねぇ、ルシアン)」
「(な、なんだ)」
「(ちゃんと説明してもらうからね♡)」




