第1話 悪役侯爵ルシアンに憑依した俺
――目を覚ました瞬間、俺は息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、まるで絵画のような豪華な天蓋付きベッド。
天井からはシャンデリアがまばゆく光を放ち、壁際には本棚がずらりと並び、重厚な肖像画がこちらを見下ろしていた。
「……なにこれ、ホテルのスイートルーム?」
寝ぼけた頭を振りながら、俺は身を起こした。
だが、見渡す限りどこにもテレビもスマホもない。代わりに、古風な燭台と分厚い書物ばかりだ。
「いや、待てよ。これ、ゲームか夢か……?」
混乱しながら鏡に映る自分を見て、俺は思わず凍りついた。
鏡の中には――鋭い輪郭に、血のように赤い瞳。
銀髪を後ろで束ね、どこか冷たさと威厳を兼ね備えた美貌の男。
「……うわ、マジか」
その顔に見覚えがあった。昨日、寝落ちする直前まで観ていた深夜アニメ。
『聖剣勇者アレン』に登場する悪役貴族、ルシアン=ヴァルグレイ。
冷酷な策略家。
勇者アレンを追い詰め、民を苦しめた罪で、最期は民衆と王に断罪される――破滅確定キャラ。
「……ってことは、俺、悪役に憑依したのか?」
口に出した瞬間、頭の奥に稲妻のような衝撃が走る。
記憶が――流れ込んできた。領地、財産、権力、そして……勇者との因縁。
「くっ……!」
思わず頭を押さえた俺の耳に、静かな声が届いた。
「お目覚めですか、ルシアン様」
振り向けば、白髪をきっちり撫でつけた老紳士が立っていた。
深い皺の刻まれた顔、磨かれた銀の執事服――完璧に整った立ち居振る舞い。
「……セバスチャン?」
「はい。お加減はいかがですかな」
――間違いない。アニメでも登場していた、忠実なる執事セバスチャン・ノアール。
(うわ、本物だ。完全に異世界転生コースじゃん……)
ルシアンとしての記憶が、次々と蘇る。
政治工作。王都の陰謀。勇者アレンへの敵対。
そして、処刑台で晒される自分の姿――。
(マジで詰んでる。完全に破滅ルート確定)
セバスチャンが静かにティーポットを置いた。
「本日は少々お疲れのご様子。お休みの間、領地の視察は中止いたしましょうか?」
「いや……いい。少し考えたいだけだ」
俺は紅茶を口に運びながら、必死に頭を働かせる。
破滅を回避するには、まず“演技”だ。
ルシアンの冷酷な仮面を被りつつ、裏で民を救い、勇者の敵対フラグを折る。
だが、そのためには信頼できる味方が必要だ。
(セバスチャンに話すか……?)
彼は忠実な部下であり、ルシアンの全てを知る存在。
事情を話せば、もしかしたら協力してくれるかもしれない。
「……セバスチャン」
「はい、旦那様」
「もし……仮に、俺が“別人になったようだ”と言ったら、信じるか?」
セバスチャンの眉が、ほんの僅かに動く。
「……旦那様。それは……冗談の範疇でございますか?」
「いや、仮にの話だ」
「左様ですか。……ならば、私は何も聞かなかったことにいたしましょう」
――沈黙。
まるで俺の心を見透かしたような、深い眼差し。
(……怖っ。この人、絶対ただの執事じゃない)
冷や汗をかきながら、俺は内心で結論を出す。
「……いや、やめだ。セバスチャンには何も話さない」
――表では冷酷な侯爵を演じ、裏で破滅を回避する。
それが今の最善手だ。
(忠実な執事?信じたいけど、もし裏切られたら速攻でゲームオーバーだしな)
「セバスチャン、今日の予定は?」
「商人ギルドとの取引交渉、そして隣領の伯爵との会談でございます」
「……なるほど。なら、まず商人どもを“締め上げる”とするか」
俺はルシアンの冷笑を真似て唇を歪めた。
執事は一礼し、扉の向こうへ消える。
そして、俺の“初仕事”が始まった。
――商人ギルド会館。
大理石の床に豪商たちの靴音が響く。俺が入るや否や、全員が一斉に硬直した。
「ル、ルシアン侯……!」
「“冷血侯爵”が直々に……!」
その視線の怯えようときたら、まるで怪物でも見たかのようだ。
まあ、実際アニメでは民を搾取してたんだけど。
(今だけは演技だ。完璧な悪役でいけ)
「穀物の価格を三割上げろ」
「は、はぁっ!?」
「不服か?」
「し、しかし、それでは領民が――」
「黙れ。俺は慈善事業家ではない」
椅子に深く腰掛け、ワイングラスを傾ける。
冷たく響く声に、誰も言い返せない。
(――表の顔は完璧だ。裏ではもう動いてる)
俺は昨日、城下の農民代表と密談を交わしていた。
裏ルートで安価な穀物を仕入れ、民のみに流す。
商人たちは俺を強欲と罵るだろうが、実際には領民が助かる。
「契約を切るのは自由だ。だが、私の庇護を失えば……どんな商人でも冬は越せぬぞ」
「……ひっ!」
「……ルシアン様のご命令に従います」
全員が頭を垂れた。
――完璧な悪役侯爵の演技だ。
(うん、我ながら怖い。鏡の前で練習した甲斐あったわ)
会議を終えて屋敷に戻ると、セバスチャンがすぐに出迎えた。
「お帰りなさいませ。交渉は、滞りなく?」
「まあな。商人どもは尻尾を巻いたよ」
「それは結構でございます」
淡々とした声。だが、わずかにその瞳に“探るような光”が宿っていた。
「……何か言いたげだな?」
「いえ。ただ――」
セバスチャンは静かにカップを差し出す。
「旦那様が“仮面”をお使いになる時は、ほどほどになさいませ。
長く被っていると、本当の顔を忘れてしまわれますゆえ」
「……仮面?」
「いえ、独り言でございます」
まるで俺の心の中を読んでいるような言葉に、思わず息を呑む。
(やっぱこの人、只者じゃねぇ……)
セバスチャンは一礼し、そっと懐から一通の古びた封筒を取り出した。
「ところで、これをお預かりしております。先代様が残された書簡でございます」
「……先代?」
「中身は旦那様が然るべき時にご覧になるとよろしいかと」
そう言って去っていく背中を、俺は黙って見送った。
胸の奥がざらつく。
――“仮面”って言葉、刺さるな。
夜。
執務室の窓から領都の灯を見下ろす。昼間は怯えていた民も、今は穏やかに眠っている。
「……少しは、マシな明日を迎えられるといいけどな」
グラスを揺らしながら、独り呟く。
俺の目的はただ一つ――破滅の回避。
冷血侯爵の仮面を被りつつ、裏で民を救う。
勇者アレンと敵対する前に、あいつの“誤解”を解く策も練らなきゃ。
(このままじゃ、処刑END確定。
でも、脚本を書き換えりゃエンディングだって変わるはずだ)
窓に映る自分の姿――赤い瞳の奥に宿るのは、決意の光。
「ルシアン=ヴァルグレイ。お前の破滅は、俺が塗り替えてやる」
翌夜。
城下の裏通りでは、農民たちが密かに集まっていた。
「こ、これが……安い穀物だと?」
「あぁ。侯爵様のおかげで飢えずに済む……!」
「“冷血侯爵”が、俺たちにこんな……」
暗がりの中、彼らの表情には涙が光っていた。
俺は屋敷の屋上からそれを見下ろし、息を吐く。
(よし……これで第一段階クリアだ)
だが、同時に――路地の影から一人の影がそれを見ていた。
黒衣の男。ギルドの密偵だ。
「……侯爵が、民に穀物を?妙だな」
その声が夜風に消えていく。
一方、屋敷では。
「……ふむ」
セバスチャンがランプを手に、倉庫を調べていた。
床に散らばる麻袋の跡。誰かが夜間に穀物を動かした痕跡。
老執事はしばし立ち尽くし、やがて静かに呟いた。
「やはり、旦那様は……“変わられた”」
その言葉には、確信とも、寂しさともつかぬ響きがあった。
夜更け。
ベッドに腰掛け、俺は深呼吸する。
あの密偵の影……セバスチャンの様子。
どこかで、破滅の歯車がゆっくり動き出している気がする。
「……まあ、いい。俺の台本はまだ序章だ」
扉の向こうから、セバスチャンの声が響いた。
「旦那様。明朝、勇者アレンが王都入りするとの報せが」
「……そうか。ついに、物語の主人公が動き出したか」
俺は微笑む。冷酷な悪役の顔で。
――だが内心では、胸の奥で火が灯る。
(いいだろう、勇者アレン。破滅の台本はここで破かれる――
……いや、もっと巧妙に書き換えてやる)
夜風がカーテンを揺らし、燭火が小さく踊る。
その光の中、悪役侯爵ルシアン=ヴァルグレイの“第二の人生”が、静かに幕を開けた。




