2-α 安楽椅子の哲学者(2/3)
あなたは今、病院にいる。
私たちがよく知る病院ではない。わけもわからずに連れて来られた、近くの知らない病院だ。
あの場でへたり込んでしまったあなたは、周囲の人たちに怪我でもしたのかと思われてしまったらしい。医者に診てもらった方がいいのでは、ということになって、半ば強制的に連れて来られたのだった。
実際のところ、あなたが負ったのは地面に手をついたときにできたすり傷くらいだ。たまたま事故に行き合っただけだというのに、とんだ大さわぎになってしまった。
それにしても――
唐突に起こった、あの事故。その直前、あなたはそれを予見したかのように立ち止まっている。あれはいったい何だったのだろう。
幸いなことに死者は出なかったようだが、警察の人にはいろいろと事情を聞かれることになってしまった。それでいて、あなたはそこで奇妙な証言までしている。そればかりか、この病院でも――
あなたがこうして連れて来られたのは、そのせいもあるのかもしれない。どうも、あなたの頭がどうにかなったのではないか、と思われてしまったようだ。
しかし、診察の結果は特に異常なし。車にぶつかったわけでもないのだから、当然だろう。
そうしてあなたが行き着いた場所は、病院内にある小さな休憩室のようなところだった。
折りたたみ式の机にパイプ椅子が並べられているだけの狭い部屋で、本来は何に使う場所なのかよくわからない。病棟の奥まったところにあるせいか、辺りには人気もなく静かだった。
事故のことは家族に連絡済みで、あなたはここで迎えを待っている。もちろん、友人との予定は中止。
直後にはそれこそ混乱していたあなただが、今はどうにか落ち着いているようだ。それでもどことなく戸惑っている風ではあるが、今さら騒いだところでどうしようもないとでも思っているのか、頼りないパイプ椅子の上で大人しくぼんやりとしている。
ふと思い出したかのように、あなたは鞄から携帯端末を取り出した。この部屋で使用しても問題ないだろうか、と迷う素振りを見せながらも、あなたはそれを操作し始める。
家族からのメッセージの中に、菅原憂からのメッセージが一件混じっていた。今から目的地へ向かうから、来られるなら直接来るように、とだけある。
簡素な文章は彼女が発信したものではないだろう。本人からだとしたら、まだ? とか、遅いよーとか、短いくせに絵文字で装飾過多なメッセージがきっと大量に送られている。
平賀千代は自分の端末を持っていない。菅原憂のものを借りて、代わりにメッセージを送ってくれたのだろう。事情を問い質さないのは、おそらく彼女なりの気づかいだ。
そのことにほっとしながらも、あなたはあらためて姉からのメッセージに目を通した。仕事ですぐには向かえないので代わりをよこす、という内容だ。
平賀千代のメッセージも簡素ではあったが、姉の方が妙にとげとげしく感じるのはなぜだろう。あなたも同じように思ったのか、画面を見つめながら大きくため息をついた。そのとき――
こんこんこん、と室内に小気味よく扉をノックする音が響いた。
あなたは思わず周囲を見回すが、そこには当然、誰の姿もない。返答にまごついているうちにも、廊下に続いているその扉はあっさりと開かれてしまった。
部屋の中に入ってきたのは、黒いスーツ姿の男がひとり。その顔に見覚えはない。あなたがぽかんとしていると、男はさっそうと歩み寄って来て、にこやかな笑みを浮かべながら、こう問いかけた。
「どうも、こんにちは。初めまして。どちらがいいですか?」
男があなたに差し出したのは、ペットボトルの炭酸飲料が二種類。よりによって、どうしてこれなのだろう。炭酸が苦手なあなたは、どちらもいらない、という表情を隠そうともしなかった。
いや、そういう問題ではない。そもそもこの男は誰なのか。あなたは相手の顔をまじまじと見返すが、当の本人は気にする様子もなく、こちらの出方をじっと待っている。
あなたは渋々口を開いた。
「けっこうです」
「まあまあ。そう遠慮せずに」
珍しく明確に示した拒否の意思表示は、事も無げに無視されてしまった。目の前の机の上に選択した覚えのないペットボトルがどんと置かれたので、あなたは思い切り顔をしかめている。
視線の先では、透明な液体に浮かぶ泡がさらさらと容器の中を流れていた。素直に受け取る気などないのだろう。あなたはそれをにらんだまま、手を伸ばす気配もない。
謎の男はあなたの向かいにある椅子に断りもなく座ったかと思うと、手にしているペットボトルを開けて、おいしそうに飲み始めた。何なんだ、この人。
年の頃は三十代くらいだろうか。背格好は中肉中背。顔立ちにも、これといって特徴はない。何か特徴があるとすれば、ずいぶんと大きな黒のビジネスバッグを手にしていることくらいだろうか。
突然のことに、あなたはしばし呆然としてしまっている。
しかし、得体の知れない男とふたりきりという状況は、よくよく考えてみるといささか不穏ではあった。早々に去ろうとでも思ったのだろう。あなたは椅子から立ち上がる。が――
「お待ちください。私はあなたにお話があるんですよ。金谷理子さん」
聞き間違えようもない。呼ばれたのは確かに私の名前だった。
この場から逃げ損ねたあなたは、間抜けな顔で相手のことを見返している。そんなあなたの反応などおかまいなしに、男はスーツの内ポケットから何かを取り出すと、そこから一枚の紙片――どうやら名刺のようだ――を抜き出して、それをあなたに差し出した。
「私はこういう者でして。それから……そちらについては、お気になさらず。私のおごりですよ」
男の言う、そちら、は机の上に置かれたペットボトル飲料のことだろう。それについてはひとまず無視することにして、あなたは男から仕方なく名刺を受け取ると、その紙面に目を走らせた。
すぐさま目に入ったのは、おそらくこの男の名。ハトムラ、タスク――当然、聞いたことなどない。
それにしても、どうして全部ローマ字で書かれているのだろうか。読みにくいこと、この上ない。併記されている文字列はただの装飾かと思ったのだが、どうやら外国の住所のようだ。電話番号らしき数字の羅列もある。
うさんくさく思って裏返してみると、反対側には日本語での表記もあった。鳩村翼。住所はない。あるのは携帯電話の番号とメールアドレスだけ。
名刺を受け取ったところで、何ひとつわかることなどなかった。それでもあなたは、そこに何か重要なことが隠されているのではないか、とでも言う風に、穴が空くほどそれをじっと見つめている。
「少し話が長くなると思いますので、どうぞおかけになってください」
鳩村翼はそう言って、目の前の席につくようあなたを促した。あなたはどうすればいいかを決めかねて、その場でただ立ち尽くしている。
病院。静かな部屋。そこで話があると呼び止められるあなた。これでこの男が白衣の医師だったなら、余命宣告を覚悟してもおかしくないところだ。
しかし、ここにいるのはあくまでも得体の知れない黒スーツの男であって、相対しているのも、ちょっとした事故に出くわしただけの、ただの中学生でしかない。
もしかして、保険関係の人か何かだろうか。事故について話に来たとか。それならそうと言って欲しいが――
少なくとも表向きは友好的にも思える相手だからだろうか。あなたはこの男を強く拒絶することも、かといって、素直に従うこともためらわれるらしい。逡巡した結果、あなたは出入り口に一番近い椅子へと座り直した。これなら、いざというときにはすぐにでも逃げ出せるからだろう。
ひとまずその場に落ち着いてから、あなたは恐る恐るこうたずねた。
「どんなお話でしょう」
あなたはあからさまに疑わしげな目を向けていたが、相手の方はあくまでも余裕の表情だ。
「いえ、ね。先ほどの医者との会話を、ちょっと小耳に挟みまして。それで、あなたとお話がしたいな、と思ったんですよ」
「小耳に挟んだって、どういうことですか?」
よりいっそう不信感をつのらせているあなたに向かって、鳩村翼は平然とこう言い放つ。
「あの診察室、となりとつながっているんですよね。あなたがいらっしゃるとき、私はそちらにおりまして。それで」
「それって要するに、盗み聞きしたってことですよね?」
あなたは非難めいた声でそう問い返したが、鳩村翼は悪びれる様子もない。
「盗み聞き! 盗み聞きとは心外ですね。私はあくまでも、となりにいたというだけで、話を聞いてしまったのはたまたまです。地獄耳、とはよく言われますけどね。私もあなたと同じ患者ですよ。となりで診察を受けていたのですが、医者が途中でいなくなってしまって。どこかへ行ったまま、帰ってこなくなってしまったんです。他にすることもなかったので、ぼうっとしていたという次第で」
それはいったいどういう状況なのだろう。本人は患者だと言うが、どうにも信じがたい。厄介な人物だったとかで、放置されていただけではないだろうか。あるいは、単に忘れられていただけかもしれないが。
あなたは呆れてものも言えないようだが、鳩村翼がそのことを恥じる様子はない。むしろ、何を思ったのか、ぶつくさと文句のようなものまで口にし始めた。
「まったく。痛い痛いと訴えている患者を放っておくなんて、どういうつもりなんでしょうね? 確かに、他の重症の方に比べれば、私の怪我など大したことはないのでしょう。一応は歩けますし。とはいえ、いつ悪化しないとも限らないじゃないですか。遠方から乞われて訪れた客人に対して、この町は冷たすぎる!」
そんなことを言われても困るのだが。この男はあなたにいったい、どうしろというのだろう。
もはや相槌を打つのも面倒といった風に、あなたはひたすら口を噤んでいる。鳩村翼の話を聞いているのか、いないのか。聞かなくてもいいような気もするけど。
「いいですか。私はこの近くにある神社の御神体を調査するために招かれたのです。それで、つい先日に行われた例祭を拝見したんですけどね。終わった後に周辺を見て回っていたところ、暗闇の中、足を踏み外して、おむすびころりんすっとんとん、です! 外傷がなかったのはよかったんですが、あれ以来、腰が痛いったらない!」
「あのお祭りのときに、あなたもあの場所にいたんですか」
おかしな表現も内容もすっ飛ばして、あなたは思わずそう返した。
それまで沈黙していたあなたがふいに言葉を発したので、鳩村翼は虚をつかれたらしい。しかし、すぐに気を取り直すと、得意げな顔でにやりと笑った。
「ええ。しかも、特別に関係者枠で、です。御神体での儀式も拝見しました。しかし……あなたもあの祭のことをご存知でしたか。それなら、話は早い」
何が、話は早い、のだろう。これからの話と、何か関係があるのだろうか。
いぶかしげな表情を浮かべるあなたに向かって、鳩村翼はにこやかに笑うと、あらためてこう話し始めた。
「さて。それでは、そろそろ本題に入りましょうか。これについては、そのお祭りとも無関係な話ではないのですが――ともかく、あなたは診察のときに、奇妙なことをおっしゃっていたでしょう? お聞きしたいのは、そのことです」
奇妙なこと。その言葉を耳にすると、あなたは途端に複雑な表情を浮かべた。
鳩村翼が言っているのは、あなたが証言した事故についてのことだろう。
現場を訪れた警察にも、診察を受けた医者にも、あなたは事故のことをこう話している。壊れた車があったので立ち止まったら、そこへさらに車が突っ込んで来た、と。
しかし、起きた事故は一度きり。見間違いか、あるいは、事故に出くわした驚きで記憶に混乱が生じたのか――ともかく、事実と異なる証言に、あなたは真っ先に正気を疑われた。
当初は頑なだったあなたも、何度となくいぶかしげな目を向けられていては、さすがに自信をなくしたらしい。そのうち、そう主張することもなくなった。その結果、その話は今ではなかったことになっている。
そのことは、あなたにとって苦い記憶なのだろう。思いがけず蒸し返されたことで、あなたはあからさまに顔をしかめた。
「あれは……私の勘違いです。びっくりして、ありもしないものを見たと思ってしまっただけで」
あなたはそう言い訳するが、鳩村翼はそれをさらりと流してしまう。
「まあ、勘違いかどうかはともかくとして、あなたはそう証言されていたでしょう? 事故が起こる以前に、あなたは事故を目撃した。それから、もうひとつ。声が聞こえた、という話もありましたね」
その問いかけにも、あなたは苦々しい表情を浮かべている。
あなたが聞いたという声は、おそらく私が発したものだろう、と思う。発した、というか、伝わった、というか。
私はあのとき、立ち止まったあなたに向けて、確かにこう問いかけた。行かないの? と。その声が、どうやらあなたには聞こえていたらしい。
もしもあのとき、あの声に従っていたとしたら、自分は車に轢かれていたかもしれない――と、あなたはずいぶんと怯えていた。あなたの立場からすると、そういう認識になってしまうのだろう。こちらとしては、そんなつもりはなかったのだけれど。
どこか釈然としない様子で、あなたはこう呟いた。
「確かに、言いましたけど……」
鳩村翼はあなたの心情を思いやることもなく、ただその言葉だけを取り上げて、思ったとおりだと得意げな顔をしている。挙げ句、こんなことまで言い出した。
「しかも、事故に居合わせた親子は直前に、危ない、と声をかけられたから難を逃れられた、と言っているのだとか。周囲にはあなた以外に声をかけられる者はなく、しかし、あなたはそんなことは言っていない、と」
そのことについては、私にもよくわからない。私の声は今まであなたにだって聞こえていなかったのに、ましてや他の人にも聞こえていた、だなんて。俄かには信じがたいことだ。
そんなことを考えていると、鳩村は思いがけずこう続けた。
「もしも、その声があなたの内からのものだとすれば――それは、応声虫ではないかと思うのですよ」