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樹上の蜥蜴座(ラケルタ)  作者: 速水涙子


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28/30

10-α 自由の刑に処せられて(1/3)

 古めかしい喫茶店で、少女たちは他愛もないおしゃべりに花を咲かせている。


 夏休みもそろそろ終わる頃、三人でどこかに出かけようということになって、彼女たちはひとまずこの店に集まっていた。


「だから、どうしてまた映画なのよ」


 平賀千代はそう言いながら、相変わらず熱いブラックコーヒーを飲んでいる。


 どうやらここは、彼女にとって行きつけの店だったらしい。店の人からおまけとして、ひとりずつに手作りのクッキーをもらってしまった。


「だって、あのときは途中で寝ちゃったんだもん。それにあの映画、理子ちゃんは見られなかったんだし。いいでしょ」


 菅原憂はそう話しながらも、柄の長いスプーンで目の前にあるグラスの中身をつついている。彼女が注文したのは、あざやかな緑色の炭酸飲料に白いアイスクリームと真っ赤なさくらんぼが乗ったクリームソーダだ。


「だとしても、あたしは二度目じゃない。それなら、あんたが見たかった映画で寝てる方がまだマシよ」


「えー……じゃあさ。理子ちゃんは、どこか行きたいところはある?」


 今までどおりであれば、どこでも、なんて答えそうなあなたが、今日は珍しくはっきりとこう答えた。


「プラネタリウム、かな」


 あなたが手にした透明なカップには、青色のハーブティーが淹れられている。それは窓からの光を受けて、不思議な煌めきに揺れていた。


 あなたの発言に、ふたりは少しだけ驚いたような顔をしたけれども、すぐにいつもの調子を取り戻したようだ。


「プラネタリウムなんて、小学校のときの遠足以来かも」


「選択肢が増えてるじゃない。まあ、そもそもまだ映画に行くって決まったわけじゃないし、むしろ別のところの方がいいとは思うけど」


 平賀千代の発言を聞き咎めて、菅原憂はとぼけた顔でこう返した。


「でも、やっぱり私は、あの映画が見たいかなあ」


「そこまで言うなら、どうしてあのとき寝ちゃったのよ」


 呆れた表情を浮かべる平賀千代に向かって、菅原憂は小さく肩をすくめている。


「私が好きな俳優、すぐに死んじゃったと思ったんだもん。まさかその人が犯人だったなんて。ひらっちょがそんなこと言わなければ、気にならなかったのに」


「あんたがオチを教えろってせがんだんでしょ。そもそも、理子の前でそれ話してどうすんのよ」


 しばらくふたりのやりとりをながめていたあなただが、ふと店内に貼られていたポスターを見つけると、それを指差しながらこうたずねた。


「それじゃあ、あの映画にしてみる?」


 これは何だっけ。よく覚えていないけど、平賀千代が見たかったらしい歴史映画のポスターだっただろうか。


「まだやってるんだ」


「やってるみたい」


 あなたと菅原憂は、そんなことを言いながら顔を見合わせている。それから、そろって平賀千代へと視線を転じたが、その先で彼女はふんと一笑した。


「それこそ、あんたたちはどっちも寝そうね。三人で行く意味ないじゃない」


 菅原憂は不服そうに口を尖らせている。


「ひらっちょ、見たいんじゃないの?」


「見たけりゃひとりで見に行くわよ」


 すげなくそう返した平賀千代に、菅原憂は、だったら、と言ってこう続けた。


「やっぱり私は、あの映画をもう一度見たいかなあ」


「映画はこの前、別のを見たし……憂ちゃんが話しちゃったから、その映画はもうオチがわかっちゃったよ。プラネタリウムはダメ? 私はよくわからないけど、憂ちゃんが好きだって言ってた女優さんが、期間限定でナレーションしてるらしいよ」


 あなたがそう口を挟むと、菅原憂は面食らいつつも考え込んでしまった。平賀千代はコーヒーをひと口飲んでから、小さくため息をつく。


「何なのよ、もう。全然決まらないじゃない」


 そうして笑い合いながら、少女たちは他愛もないおしゃべりに花を咲かせている。





 この日、あなたは自宅の台所に立っていた。


 何をしているのかと言えば、今は姉が書いたレシピとにらめっこをしている。というのも、あなたが姉に料理の教えを乞うたところ、それを渡されてしまったからだった。


 どうやら、今夜の夕食は肉じゃがらしい。


 目の前には新しい圧力鍋。そういえばこれ、お姉ちゃんからの誕生日プレゼントだったなあ、と今さらながら思い出す。もうしっかりと姉に使われていたけれども、今日からは本来の持ち主にも使われていくのかもしれない。


「こるりもおてつだいする」


 あなたがじゃがいもの皮をむいていると、近づいて来た小瑠璃がそう言った。休日ということもあり、姉一家がそろって遊びに来ていたのだ。


「ダメだろう。小瑠璃。理子ちゃんの邪魔をしちゃ」


 義兄が後を追って来て、慌てて小瑠璃を押しとどめている。しかし、すぐにどこかへ行くのかと思えば、義兄はその後もじっとあなたのことを見つめていた。


 視線に気づいたあなたは、思わず身がまえてしまっている。とはいえ、まさか義兄にまで、手つきが危なっかしくて見ていられない、なんて言われたりはしないだろうけれども。


 あなたがちらりと背後を振り向いたことに気がついて、義兄はぐずる小瑠璃を抱き上げながら、こう話した。


「ああ、ごめん。亜衣沙が向こうで、すごくそわそわしていたものだから」


 そわそわしていた? 姉が? 珍しいこともあるものだ。そんなに今日の夕食が心配なのだろうか。


 そう思っていると、義兄は思いがけないことを話し始めた。


「きっと理子ちゃんのことが心配なんだろうね。亜衣沙は昔、言ってたことがあるんだ。もしも、もう一人自分がいたらって」


 話のつながりがよくわからなくて、あなたはおそらく、内心では大きく首をかしげている。


「それ、姉は何て言っていましたか? 仕事を代わってもらいたいとか?」


 いぶかしげにあなたがそう問い返すと、義兄はゆっくりと首を横に振った。


「いや。もう一人いたら、自分にできない分、思いっきり自由にしてもらいたいんだって」


「逆ではなく?」


 義兄はその言葉に笑いながらうなずいた。


「責任感が強いというか、何でも自分でやらないと気が済まないというか……亜衣沙はそういうところ、あるからね。そこはゆずれなかったんだと思うよ」


 そう言って、義兄は小瑠璃をなだめながらリビングへと戻って行った。


 あなたはしばし考え込む。


 姉はどんな気持ちでそんなことを言ったのだろうか。義兄はあんな風に言っていたけど、本当は何もかも背負うのは嫌だったんじゃないだろうか。そうせざるを得なかっただけで。


 思えば、母が亡くなったときだって、姉は涙をこらえる姿を一度見せたきり、今まで落ち込む素振りさえ見せなかった。気丈で強い私の姉。けれども、そんな姉にだって、そうではない一面はあるのかもしれない。


 もしも、もう一人姉がいたならば、姉はそんな風にひとりで頑張ることもなかったのかもしれない。


 どうにか夕食の準備を進めていると、台所の入り口にいつの間にか姉の姿があった。


 姉はあなたの元に歩み寄ると、ひととおりの進捗を確認してから、そのまま黙って料理を手伝い始める。いつもなら、包丁なり何なりをさっさと取り上げるところだろうが、今日はそこまでするつもりはないらしい。


 黙々と、ふたりでの作業は続いていく。


「あのさ。私、どんな子供だったかな。私が……記憶をなくす前」


 あなたはふと、そんなことを姉にたずねた。ここで言う私とは、つまり私のことだろう。どんな答えが返ってくるのか、わくわくしながら待ちかまえていたのだが――


「猿」


 姉はひとこと、そう言った。


 え? 今なんて? 私のこと、猿って思ってたの? お姉ちゃん、ひどい。


 そんな私の嘆きが伝わるはずもなく、姉はさらにこう続ける。


「阿呆だったわ。どうしようもない阿呆。何も考えずに近所の悪ガキにまじって走り回っているような阿呆よ」


 そんな風に言われて、私は返す言葉もない。昔の私はそんなにひどかっただろうか。でも、あの頃はまだ、私も幼かったし。とはいえ、いくらなんでも、そこまで言われるのは心外だ。


「えっと……それなら、記憶をなくしてからは?」


 私が話を聞いていることを意識してのことだろうか。あなたは慌てて話題を変えた。


 しばし考え込んだ後、姉はこんな風に答える。


「幼いながらにあらゆる不幸を背負った、かわいそうな子」


 あなたはその言葉に目をしばたたかせた。


「ごめん。私、そのときのこと、あまり覚えてなくて……」


 謝るあなたに視線を向けることもなく、姉はふんと一笑した。


「でしょうね。あんたには記憶もなくて、母親まで入院することになって。かわいそうなことが明らかで。だからこそ、みんなあんたにかかりっきりで、私はほとんど顧みられなかった」


 あなたは、はっとしたように姉の横顔を見る。そうして、何かを言おうとしたらしいが、姉が続きを話す方が早かった。


「あんたが幼すぎて何もわかってないことも、周りがつきっきりになることも、全部仕方がないことだった。仕方がないから、何も言えなかった。だから私は、あんたのことを何もできない、かわいそうな子なんだって思うことにしたの」


 思いがけない姉の告白に、あなたはとっさに言葉も出ないようだ。


 しかし、姉がそう考えたのも、仕方がないことなのかもしれなかった。年が離れていることもあって、あの頃の姉は大人のように思えていたけれども、よくよく考えれば、今のあなたともそれほど年は変わらない。


 夕食の支度は順調だ。鍋に火をかけて、できあがるのを待つだけになったとき、姉はひとり呟くように、こう話し始めた。


「私はね。そんな枠組みが嫌で、さっさと結婚したの。そうして家から逃げ出したかった。けれども、同時に自分の役割を放棄したようにも思えて、後ろめたかった。お母さんがこれから大変なことはわかっていたし、それにあんたのことだって――」


「お姉ちゃん」


 あなたは姉の話をさえぎるようにして、そう呼びかけた。姉が驚き口をつぐんでいる間にも、あなたはすかさずこう続ける。


「お姉ちゃんが厳しくしてくれて、よかったよ。お母さんもお父さんも、やさしかったから。お姉ちゃんがいなかったら、私はもっとダメになってたと思う」


 姉はそこでようやくあなたの方へ目を向けたが、すぐにふんと一笑した。


「馬鹿ね。やっぱり馬鹿だわ」


 そう言って、姉は目の前の鍋を見下ろすと、顔をしかめて黙り込んでしまう。それからは、どちらもお互いを見ることはなく、そろってそこにある鍋を見つめていた。

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