9-β 卵が先か鶏が先か(2/3)
私は端末で付近の地図を呼び出した。画面には原色で塗り分けられた町の地図が現れる。ハザードマップだ。
町の東には川が流れていて、氾濫の危険があるとの情報がテレビのニュースで流れていた。保育園から家までの経路をたどって、危険な場所を確認していく。
――探しに行くの?
そのとき、どこからか声が聞こえた気がした。
しかし、とっさに気のせいだろうと思う。あるいは、端末からアクセスした先で、何かの音声が流れてしまったとか。何にせよ、今は取るに足らないことだと考えて、気にしないことにする。
姉の家へ帰ろうとしたにせよ、この家に向かったにせよ、保育園からこの辺りまで、小さな子どもの足で歩くには少し遠い。晴れている日ならともかく、この雨の中、何ごともなく歩いて来られるとは思えなかった。
どうしよう。もしも小瑠璃に何かあったら。私みたいなのがのうのうと生きているのに、何の罪もないあの子が危険にさらされるなんてことが、あっていいはずがないだろう。
やっぱり探しに行こうか。ここで待っているだけだなんて、私には耐えられそうにない。
小瑠璃が帰って来たときのために、姉は自宅へと戻って行った。父との会話からすると、義兄が車で近所を探しに行くようだ。もしも小瑠璃がこちらに来るといけないので、父はこの家で待つことになっている。
他に小瑠璃が行きそうなところがあったとしても、すでに連絡は入れてあるだろう。お友だちの家だとか、よく行くお店だとか。それ以外には、どんな可能性があるだろうか。
小瑠璃はさとい子だ。少しわがままなところはあるけれど。今まで黙っていなくなるなんてことはなかったし、ひとりでどこかへ行ってしまうような子ではないと思う。だとすれば、よほどのことがあったに違いない。
――もしかして、神社じゃないかな。
その言葉に、はっとした。
神社? どうして神社なのだろう。思いがけない場所だったので、私は思わず、神社、と呟いてしまった。
そもそも、この声はどこから聞こえてきたのだろうか。さっきの声も、気のせいではなかったのかもしれない。そうでなくとも、小瑠璃の行方を考えているときに、そんな言葉が聞こえるだなんて、偶然にしては出来すぎているような……
私は部屋の中を見回した。ここには私ひとりきり。誰かがいるはずもない。音を出すようなものがあるとすれば、手元の端末か、あるいは千代ちゃんのラジオくらい――
千代ちゃんから託されたラジオは、今は本棚の上に置かれている。しまい込むのも違う気がして、けれども、近くにあれば壊してしまいそうで、とりあえずはそこにあるといったところだ。
これは鉱石ラジオと言って、鉱石を利用して作られた、電気がなくても使えるラジオらしい。ラジオを受け取ってからいろいろと調べてみたのだが、正直言ってよくわからなかった。使ってみたこともない。しかし。
――あれ? もしかして、私の声が聞こえてるの?
かすかなノイズが混じりながらも、声は思いのほかはっきりと私の耳に届いた。私が戸惑っているうちにも、その声はさらにこう続ける。
――ねえねえ。だったら、神社に行ってみようよ。私覚えてるよ。あなたが見た未来。
「私が見た未来? 何のこと?」
思わずそう問いかけると、その声はうれしそうにこう答えた。
――この前も、話してたでしょう。ラジオを受け取ったときのことだよ。雨の中、神社で泣いている女の子を見たって。
私はその言葉に首をかしげた。そうだっけ。いまいちよく覚えていない。そうでなくとも、私は自分が未来を予知できるなんてこと、やはり信じてはいなかった。
しかし、その声は無邪気にこう続ける。
――ラジオを通して私の声が聞こえているんだね。何でなのかよくわからないけど。でも、よかった。思っていることが伝えられて。あなたの力は本物だよ。大丈夫。私はあなたのことを信じているから。
どうして、そこまで信頼されているのだろうか。わけがわからなかったが、とにかくまずは小瑠璃のことだ。私は声が言ったことについて、あらためて考えてみた。
あの神社は、付近に何かあったときのための避難所でもある。たとえ小瑠璃がそこにいなくとも、避難している人にたずねれば、もしかしたら何かわかるかもしれない。
私はひとまず神社へ向かうことにする。おそらく、何の当てもなく探し回るよりはましだろう。
地図を確認して準備を済ませてから、私は少しだけ迷った末に、ラジオに向かって声をかけた。
「えっと、その……じゃあ、行ってきます」
――うん。行ってらっしゃい。って言っても、私はあなたの中にいるんだけどね。
そんな風に返されるのは、何だか不思議な感じがする。
傘は役に立たないだろうと思ったので、雨合羽を着て、長靴を履いて、私はひとり家を抜け出した。
激しい雨で視界はかすみ、吹き荒れる風でうまく息もできない。地上にいるのに、溺れてしまいそうだ。それでも私は、身をすくめるようにして、ゆっくりと前へ進んで行く。
体を動かすことは苦手だ。無理をすればするほど、自分の体ではないような気がしてくる。それはそもそも、これが私の体ではなかったからだろうか。単に運動不足なだけな気もするが。
とにかく進むしかない中で、私はあの声のことを考えていた。
唐突に届いたあの声。確かに聞いたはずなのに、今となっては夢だったかもしれないとすら思っていた。しかし、あれはやはり、本来はこの体を動かしていたはずの、彼女からの声なのだろう。あまりに突然のことだったので、ずいぶんとあっさり言葉を交わしてしまったが――
あのときの彼女の言葉を思い出す。
彼女は私のことを信じていると言った。私は彼女に小瑠璃のことを託されたのだろう。そうであるからには、私は彼女の声に必ず応えなければならない。
たとえどれだけ不自然な存在であっても、私は私でいたいと思ってしまった。けれども、今のままではいられない。こんなダメな私では、私は私自身を許すことができない。
ここにいたいという思いと、ここにいていいという許しと。強い思いがあるから、ここにいられるのか、誰かに許されたから、ここにいられるのか。どちらが先で、どちらが後なんだろう。
ここにいたいという思いと一緒に、ここにいてもいいのだろうかという自信のなさが私の中で巡っている。それでも、何度も何度も迷いをくり返しながら、私はこれからも進んで行かなければならない。
だからこそ、今はとにかく、いなくなった小瑠璃を見つけなければ。
冠水の危険がある地域を避け、それでも雨水が川のように流れる道と出くわしながら、私はどうにか神社へとたどり着く。
役場の職員らしき人がいて、避難に来た人たちを誘導していた。私は他の人たちにまぎれて、境内にある会館の中へと入って行く。
そこには思いがけずたくさんの人がいた。しかし、小瑠璃の姿は見当たらない。
ここではなかったのだろうか。落胆しかけたが、それでも根気よく探して回っていると、ふいに私を呼ぶ声がした。
「りこちゃん!」
振り向いた視線の先に小瑠璃がいる。私は小走りで彼女の元へとかけ寄った。
「小瑠璃!」
抱きしめると、ちゃんと温かな体温が伝わってきた。当の小瑠璃は突然のことに驚いたのか、身をこわばらせている。しかし、私が何度もその名を呼ぶと、そのうちほっとしたように私の体にしがみついた。
「どうしてこんなところにいるの。みんな探してるよ」
そう言って小瑠璃の顔をのぞき込むと、泣き腫らしたように目が赤くなっていることに気づいた。もしかしたら、怖くて泣いていたのかもしれない。
しかし、そんなことなど微塵も感じさないよう、小瑠璃は気丈に振るまっている。そして、すぐ側にいた老夫婦を指差すと、ここに至るまでの経緯をたどたどしくも話し始めた。
保育園が急に休むことが決まって、周囲が慌ただしくなっていた中、小瑠璃はひとりで家まで帰ろうとしたらしい。しかし、激しい雨で歩けなくなっていたところ、この老夫婦に出会い、ここまで連れて来てもらったようだ。
私は老夫婦にていねいにお礼の言葉を伝えた。
とにかく、早くお姉ちゃんに無事を知らせなければ。そう思った私は、慌てて端末を取り出した。
通知の表示が目に入って、いくつか着信があったことを知る。家を抜け出したことがばれたのかもしれない。
お姉ちゃんの番号を呼び出して、発信しようとしたとき、小瑠璃がふいにこう言った。
「こるりはね。おかあさんがいなくてもだいじょうぶだよ」
突然何を言い出すのかと思って、私は小瑠璃を見返した。小瑠璃はさらにこう続ける。
「おかあさんがね。おばあちゃんがいなくなっちゃったから、いそがしくなるって。おじいちゃんや、りこちゃんがしんぱいだからって。こるり、だいじょうぶだよっていったの。だから、ひとりでおうちにもかえれるとおもって……」
私はその言葉にはっとする。
小さい子どもは何を考えているかわからない――なんて思っていたけれど、この子はこの子なりに、自分がしなければならないことを考えていたのだろう。
何より、お姉ちゃんが忙しくて寂しかったのは小瑠璃の方なのに。この子は、私よりもよほどしっかりしている。勝手に行動したことは褒められたことではないが、自立しようという気持ちの強さは、姉ゆずりなのかもしれない。
姉と連絡がついたので、私たちは安全だとわかるまで、その場で待つことにした。天気予報によると、もうすぐ雨は止むらしい。




