8-α 人間は考える葦である(2/3)
「勘がいいのね。そうよ。アヤはね、亡くなった娘と同じ名前なの。だから、そう呼ばれるのは、ちょっと腹が立ってしまって。ごめんなさいね。あなたに悪気なんてないでしょうに」
何ということはない。あなたと橘綾乃が知り合ったとき、あなたは彼女に問いかけたのだ。綾ちゃん、と呼んでもいいか、と。
そういえば、平賀千代に対しても、あなたは当初、千代ちゃんと呼んでいたっけ。ちゃんはやめて、と言われて、それで菅原憂が提案したあの呼び名になったのだ。千代ちゃんはダメでひらっちょはいいのか……と驚いた覚えがある。
あるいは、小瑠璃のことも。るりちゃんるりちゃんと呼んで、あなたはいまだによく怒られている。
ともかく、名前への思い入れは人さまざま。しかし、あなたは知らずに橘綾乃を怒らせてしまったらしい。本人は気にしていない振りをしているけれども、おそらくはそういうことだろう。
彼女は手にしていた本を閉じながら、こう言った。
「私は綾乃。別の何かになったりはしない。私は誰かの望む私にはならない。金谷さんもそうじゃないの? あなたが自分を探すのは、本当の自分でありたいから――自由になりたいからじゃないの。私だって、誰かの代わりなんて、ごめんだもの」
あなたは考え込むように口をつぐんでいる。
「それなら、それはとても簡単なことでしょう。他人のことなんて気にしなければいいの。自分がしたいようにすればいいだけ。誰かが私をどんな風に評価しようと、ただ私は私が思うようにあるだけ」
あなたは悲しそうな表情で、彼女にこう問いかけた。
「今のお母さんのこと、好きじゃないの?」
「どちらでもない。私にとっては、ここは仮宿のようなもの。だから、どうだっていいのよ。学校も家族も」
橘綾乃の言葉に、あなたは悲しげな表情を浮かべた。
「そうやって他人を排除していって、何者にも左右されない、その中心にいるのが、自分というものではないの? そうして自分だけの価値観を持っている人こそが、本当の正義を示せるのだと私は思っている。それはきっと、特別な資質なんだって」
橘綾乃はそう言うと、今まで見たこともないような笑みを浮かべた。うっとりと何かを夢見ているかのような。
そんな彼女を見つめながら、あなたは淡々とこう返す。
「そうかな。私にはよくわからないけれども……他人を排除したいって思うなら、その時点でもう、誰かのことを意識してしまっているように思う。ただ反発しているだけ、というか。それは本当の意味での自由なの?」
おそらく、彼女とっては思いがけない反論だったのだろう。橘綾乃は途端に表情をなくす。
彼女の話を聞いているうちに、私もこんなことを考えていた。
あなたと彼女はどこか似ている。拠りどころを失い、誰にも悲しみを打ち明けられないでいるようなところが。
それでも、あなたと彼女では考え方が真逆だった。つながりを求め続けているあなたと、つながりを拒絶して、それがないことに意味を見いだそうとする彼女と。
そうして思いを違えながらも、あなたと彼女との会話は続いていく。
「私の考えに主体性がないって言うの。そんなこと――あなたがそう思っているだけでしょう?」
「うん、そうだね。でも、それはきっとお互いさまだと思う」
あなたの言葉に対して、橘綾乃は怒りをあらわにするかと思われた。しかし、彼女は感情を表に出すことなく、むしろ何かを押し殺したかのように目を閉じてしまう。
「そう……残念ね。あなたなら、わかってくれると思ったんだけど」
そう言って、橘綾乃はため息をついた。ほんの少し寂しそうな顔で。
細い路地を歩いて行くと、目的の場所へとたどり着いた。あやしげなところかと思えば、そうでもない。むしろあまりに普通だったので、すぐにはわからなかったくらいだ。
そこには、占、の文字が書かれた看板が掲げられている。その下には小さな文字で、花鶏の店、ともあった。周囲には他にそれらしき店もないから、ここで間違いないだろう。
入り口を探すと、ビルの側面にある階段を降りた半地下のようなところに扉があるのを見つけた。あなたは意を決して、中へと入って行く。
その先に続いていたのは小さな部屋。橙色のランプだけが灯っている店内は、薄暗いが不思議と落ち着く雰囲気だ。
中央には黒いベルベットの布が敷かれた丸テーブルが置かれていて、その向こうには黒いドレスを身にまとい黒いベールを被った女性が座っている――アトリだ。
「ようこそ、理子ちゃん。私の店へ」
いつもとは違う姿でありながら、いつもと変わらない笑みを浮かべて、彼女はそう言った。驚きながらも、あなたは慌ててこう返す。
「あの、すみません。お時間をいただいて。大丈夫だったでしょうか……」
「今日はもう店じまいしたところよ。ゆっくりしていってちょうだい」
彼女はそう言って笑っている。
店のことを教えてくれたのは菅原憂だった。初めて知ったときは驚いたけれど、あらためて見ると、彼女はこちらの出で立ちの方がしっくりくるような気もする。
「こういう店に来るの、初めてです。お店の名前は、はなにわとりの店……ですか?」
「あれはねえ。花の鶏と書いてアトリと読むのよ」
アトリはそう言うと、あなたにテーブルを挟んだ向かいの席につくよう促した。
店内には占いっぽいものはあまりないと思っていたが、よく見ると部屋の隅には小さな水晶玉や紫水晶の結晶が置かれている。どんな意味があるのかはわからないが、単純にきれいだなと思う。
椅子に座ったあなたと真っ直ぐに向き合うと、アトリはテーブルに両肘をつきながら、軽くおしゃべりをするように切り出した。
「さて。相談したいことは何かしら」
その言葉にうなずいたあなたは、ゆっくりと話し始めた。すべてを。記憶をなくしたと思っていた幼い頃のことから、真実を知って今に至るまでを――
あなたの話を聞いている間、アトリは息を潜めるように沈黙していた。どんな話を聞いても笑うことはない。眉をひそめるようなことも、あるいは、首をかしげることも。淡々と事実を受け止めているかのように。
すべてを話し終えたあなたが息をつくと、アトリもまた、静かに息をはいたようだった。そして、考え込むように目を閉じてから、彼女はぽつりとこう呟く。
「不思議な話ね。脳に寄生する生命体も、未来を予知する力も……」
あなたはアトリの反応をうかがいつつも、うなずきながらこう言った。
「それを言い始めた人が信用できるのかどうか、私にもよくわかりません。嘘をついたり、騙したりといった感じではないんですけど。存在自体がうさんくさいと言うか……それでいて、今流行りの店とかに嬉々として並んでそうな人なんです」
「何それ。何だか私も、その人に会いたくなっちゃったじゃない」
思わずといった風に吹き出したアトリに、あなたは苦笑いを浮かべている。
「私の話、信じてもらえるでしょうか」




