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【第三部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド交響曲―  作者: 不二丸茅乃
chapter.5.5

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5.5-4.悪夢から目覚める時




「――っ、ぁ、……っは、……!!」


 真夜中、重苦しい雨季の空気。

 蝋燭の火も吹き消した室内は、外から聞こえる雨の音だけが煩く響くようだった。

 その雨音を一瞬だけ掻き消したのは、ディルの呻く声と、飛び起きる音。じとりとした室内の空気に、彼は全身に汗をかいていた。


 夢を、見ていた。


「っあ、……アル、……アル、ギ、ン」


 喘ぐように呼んだ名は、隣で眠っている筈の妻の名前。

 とても、ひどい悪夢を見た。思い出す事も二度としたくない、ディルの一番の恐怖。

 額に滲むほどの汗を拭いながら、隣に視線を向ける。でも、暗闇の中では妻の姿が見えなくて、悪夢の内容が再び脳裏に押し寄せる。

 妻が、双子が居ない、悍ましい程寒い世界。何の希望も無い、悪夢としか形容できない世界。

 手がシーツの上を辿る。夢では冷たい布を辿るしか無かった指先は、思った以上に早くぬくもりに触れる。いつも寄り添って眠っている事を考えれば、不思議でもない。

 そうと分かればディルの行動は早い。少しでも灯りが欲しくて、窓幕を開く。外も曇天で暗くて欲した灯りにはならないが、それでも重苦しい空気は少しは晴れる。

 暗くて見えない筈の目が、少しずつ慣れて来た。薄布の下で上下する胸部が見えた。彼女の鈍い灰銀の髪の一筋が、視界に入る。


「――……」


 それだけで、酷い夢を見た直後では涙が溢れそうになる。最愛の人が居ない世界(ゆめ)を見た後では、存在を確認するだけで胸が満たされる。

 妻の姿をどうしてももっと見たくて、更に光が欲しいと思った。寝床にある蝋燭に火を点す為に燐寸(マッチ)を擦った。蝋燭に灯りを点し、再び妻に視線を向ける。


「……アル、」


 ぼやりとした灯りに照らされた妻の顔。

 その閉じた瞼から、涙が流れていた。声も出さぬまま、すん、すん、と小さく震えて泣いている。

 どんな夢を見ているのかは分からない。けれど、悲しい夢を見たのは自分だけではないと思えばディルの心も少しだけ軽くなる。指先で、妻の瞼を拭ってやった。後から後から、閉め損ねた蛇口の水のように流れるアルギンの涙は尽きない。


「……」


 起こすかも知れない、とは思った。

 けれどそれでも良い。妻の涙を、これ以上見たくなかった。慰められない涙なら、寧ろ起きて欲しい。

 妻を抱き上げる。背中に手を通し、腕に力を込めた。


「……ぅ、……? ……んぁ」


 一度寝るとなかなか起きないアルギンだが、その時はすぐに反応した。少しだけむずがるが、自分を動かしている相手が夫だと分かると拒絶もしない。

 今は互いに顔が見えない状態だ。でも、それで良かった。


「……ぅあ、……でぃるぅ……。ディル、だぁ」


 あどけない寝起きの声は掠れている。


「ディル、……」

「……ああ、我だ」

「ディル、いた。……いたぁ」

「……すまぬ、痛いか。だが、暫く……このままで」

「ううん」


 掠れた声が。


「……ディル、居たぁ……。良かっ……たぁ……」


 ただ、安堵を口にした。

 アルギンの腕はディルの背に回る。小さな手が、ディルを離すまいと抱き締め返した。


「ディル、あのね。アタシね、怖い、夢、見たの」

「……ああ」

「ディルがね、いなくなる夢。おかしいよね、ディル、いつもそばにいてくれるのにね」

「ああ」

「ディル、いなくならないでね。はなれて、いかないでね。ずっと、いっしょにいたいよ」

「……勿論だ」


 そうだ。離れる筈が無い。

 ただ夢を見ただけだ。話すのも嫌なほど、最悪な夢。

 暫くそのまま抱き合っていれば、互いに落ち着いてくる。夢の内容も少しだけなら薄れる。

 妻を慰める体裁を取って、その実ディルも縋っている。あんな寒い世界、もう夢でも経験したくない。


「……ディル、……ごめんね」

「何がだ? ……謝罪の理由が分からぬ」

「アタシ、変な寝言言ってなかった……? うるさかったよね、ごめん……」

「汝は、何も言っていない。寝言なら聞かせろ、汝がどんな愉快な夢を見ているか……聞いてみたい」

「今日のは、ねぇ。愉快じゃ、なかったよ。……いつもは楽しい夢、見るのにね」

「例えば?」

「ええっと、ねぇ……」


 それからも夫婦は、ぽつり、ぽつりと他愛のない話をしては沈黙の時間を多く持つ。

 やがてアルギンの息が安定した頃を見計らって、ディルが腕の力を抜く。互いに顔が見られるだけ離れれば、視線も絡み合った。

 もう、アルギンの瞳にも涙は無い。話している間に、随分落ち着いたらしい。


「……変な事言ってごめん」


 意識が覚醒してくれば、それまで言った言葉も恥ずかしいらしい。

 普段から夫に対しては幾らでも、周囲さえ羞恥に震える事を宣っている筈のアルギンだが――それとこれとは別らしい。

 頭を数度撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めるアルギン。再び眠りに落ちそうな、とろんとした目付きになって来たので枕に下ろしてやる。くぁ、と小さな欠伸が聞こえた。


「此の侭、寝ていろ。朝は未だ遠い」

「……ディルは……? いっしょ、ねよ……?」

「寝る気が失せた。……と、言うより、目が冴えてしまった。今日はアルカネットが夜番であろう、自警団詰所でも冷やかして来る」

「ええぇ……。アイツ絶対嫌がるよ? それに、ディルいないと、アタシがさみしい……」

「寝るまでは共に在る。……夢から覚めても、我は居る。その頃には帰って来る。何も案ずる事は無い」

「……うん。じゃあ……せめて、手、繋いでてくれる……?」


 アルギンの小さなおねだりを聞き届けるディルは、指を絡ませて妻を寝かしつける。アルギンを寝かせるのは、日中の楽しみに興奮する双子を寝かせるよりも簡単だ。

 横たえて手を握り、逆の手で頭を撫で続ければすぐに寝息が聞こえてくる。絡めた指に力が入らなくなって、簡単に解けてしまった後で、ディルは寝入った妻の額に唇を寄せた。

 この眠りが穏やかである事を願う。叶うなら、次に起きた時に見せるものが涙ではなく、笑顔であるように。

 夜着から普段着に着替えて、妻の眠る部屋を後にする。廊下に出た時、酒場客席側が少し明るい事に気付いた。この時間は店員姉妹さえ清掃を切り上げて眠っているというのに。

 あまりに静かな客席に、ただの灯りの消し忘れかとも思った。けれどディルの目に入ったのは、カウンター席のひとつ、彼女が指定席と決めたその場所で、勝手に酒を拝借していたミュゼの姿だった。


「……ミョゾティス?」

「……あ」


 独り飲みに興じる彼女は、簡素な夜着のままで酒を煽っているようだった。傍にある酒瓶の数は二つ。片方は既に空らしい。

 ディルに気付いたミュゼは、視線を泳がせる。居候が勝手に商品を飲んでるのも、彼女に後ろめたさを感じさせる原因だろう。

 けれど基本的に、彼女は行儀が良く、双子とも良く遊んでくれる味方だ。だからディルはその近くへ行って、椅子に座らぬまま瓶を手に取る。そして彼女の酒杯に酒を注いだ。


「……怒んないの? ありがと」

「酒を嗜むのはアルギンとて同じ。金を払う心算はあるのだろ?」

「あー、うん。持ち出しの欄には書いてる。後で請求されるんでしょ」


 貸宿の面々には、自由に酒を飲む権利もある。その場合は何の酒を持ち出したか、専用の書類に記載する事で部屋代と一緒に請求が来るので、円滑に飲酒活動が捗るようになっている。

 店主の伴侶から酒を注いでもらったミュゼは、やや気分よさげにそれを煽る。水や何かで割らずに飲めばそこそこ強い酒だが、平気な顔をしている所を見るとミュゼはアルギンよりも酒に強そうだ。


「座らないの?」

「座る必要性を感じない。このまま自警団詰所まで冷やかしに行こうと思って起きて来た迄だ」

「あーっそ。んでも行かない方が良いよ、もうすぐ雨降りそう」

「……雨、か」

「濡れて風邪引いたら嫁さんが心配するよ。こんな夜に出歩いても心配するだろうし、止めときなよ」

「暗いと思っていたが、また雲が出たのか。雨季は行動が制限されて滅入る、昔のように川や下水の氾濫が少ないのは救いだが」

「へぇ、やっぱり氾濫とかあるんだ? 昔は、ってことは今は無いの?」

「王妃殿下の部下であるプロフェス・ヒュムネは、治水の知識が豊富だった。そう好意的でないにしろ、彼の種族の助力が無ければ、今も何処かで城下の家が水に沈んでいたであろうな」

「ひゅう。元聖騎士様は、王妃殿下やその子飼いに絶大な信頼をおいていらっしゃる。見上げた忠誠心ですこと」

「……何が言いたい?」


 どこか下世話な揶揄いに聞こえるミュゼの言葉。ふ、と息を吹き出すように笑う音も聞こえた。


「べっつにー。ほら、私無慈悲な酒場しか知らないって言ったじゃん。だから今でも慣れないだけ」

「……無慈悲な酒場、か。あのアルギンをして、無慈悲とは程遠いとは思わぬかえ」

「そうだね。ディル様が生きてるなら無慈悲にはならないんじゃない、あの人」

「……」

「絶対離れちゃ駄目だよ、ディル様。あの人、貴方が居ないと堕ちるの早そうだ」

「何を、言っている?」

「なんでもなーい」


 話をはぐらかすミュゼは、以前からそうだ。何か重大な事を知っていそうで、その詳細を聞こうとしても教えてくれない。

 何度もあったのに、否、何度もあったからこそ、そろそろディルも限界だ。元から無い忍耐力が尽きようとしている。


「ミョゾティス、此れ以上はぐらかせば、我とて考えが有る」

「……どんな?」 

「汝の過去には然程興味はない。だが、汝が何を企んでいるかは聞かせて貰いたい所だ。其れが我が妻や子に不利益を齎すものであれば全力を以て阻止する」

「別に、マスターや双子ちゃん達に何かしようとは露ほども思ってないけどね。寧ろ、その辺りはディル様と考え一緒だし」

「……一緒?」

「他に誰も聞いてないみたいだし、良いよ。他の誰にも言わないなら少し喋っても。取り敢えず、座りなよ」

「……」


 思った以上に、ミュゼはすんなり了承した。隣の椅子を勧められたが、それよりひとつ離れた席に腰かける。

 「用心深ぁーい」と軽口が飛んだが、肩を並べるつもりは今の所無い。


「ミョゾティス。汝は、何が目的で此の酒場へ近付いた。何がしたい、何が欲しい。汝の動きは不可解が過ぎ、しかし敵意が見えぬ故に我も手出しが出来ぬ」

「……敵意なんて無いよ。そもそも、この酒場を敵に回して勝てる訳が無いからね。ディル様も居ればアクエリアも居るんだから」

「其処まで分かっていて何故、全てを話さぬ」

「話したらどうなるか分からないからなぁ。例えばディル様、ウィリアの結婚相手とか知りたくないでしょ」

「な、――」


 それまでミョゾティスに対する疑惑の目が変わらなかったディルだが、その一瞬で大きく目を見開いて硬直した。

 まだ幼い、可愛らしい幼児である長女。の、結婚相手――。まだ二十年は考えなくて済むと思っていた未来をいきなり突き付けられて動揺が止まらない。

 話をすり替えるな、と思う心と、その相手を本当に知っているのならどうしても聞きたい、と思う心が交錯する。

 ディルが見せた普段とは違う顔が、良い感じに酒の肴になったらしいミュゼは微笑んだ。


「でも、教えてやんないよ。ディル様がその男殺して未来変わったら、私消えちゃうから」

「……消、え……?」

「他の誰にも言っちゃだめだよ、ディル『おじいちゃん』。私なぁ、貴方達の子孫なんだ。ウィリアの血を引いてる、貴方達の玄孫(やしゃご)。」


 その言葉を、狂人の与太話と跳ねのける事も、ディルには出来た筈だった。


「全部話すと、貴方の頭が破裂しそうだから止めておくね。でも私はこれだけ確実なのを覚えておいて」


 最後の一杯とばかりに酒瓶を傾けたミュゼ。一滴残らず酒杯に注ぎ終わった後に立ち上がる。階段上の自室に戻る為に。

 まだ混乱から抜け出せていないディルに向けた一言を残して。


「マスター・アルギンは王妃に殺された。エ……アクエリアも裏切られた。この国を暗雲に落としたのは王妃、そしてプロフェス・ヒュムネだ。私は奴等を許せない」

「――……殺、され……?」

「今のこの世界で、例え王妃がどうあろうと、どうしても私は許す事が出来ない。……他の奴等に言ったら、貴方も狂人扱いされるから止めておいた方が良いよ。まぁ、マスターだけは貴方の言葉を全部信じるんだろうけどね。じゃ、また明日」

「……ミョゾティス。まだ話は終わっておらんぞ」

「続きはまた今度ねぇー。いい事教えてあげるよ」


 階段を上る彼女を、物理的に引き留められたはずだ。

 でもディルは、そうしなかった。


「……ぜーんぶ、冗談だよっ。やだ、本気にした?」


 振り返って、笑顔を浮かべるミュゼの顔。

 唇だけ笑っていても、瞳は笑っていない。冗談だと言い放つ顔が、冗談には見えなかった。

 階段を駆けあがる軽い足音が、扉を開いて閉める音と同時に消えても、ディルは動けない。

 ミュゼの『冗談』は全部とは思えないし、同時、彼女の言葉を信じる自分の心の在り処にも驚いた。


 アルギンより聡明で。

 アルギンより酒に強く。

 アルギンと似た人好きのする性格で。

 アルギンの方が美人と、ディルが判断した彼女によく似た顔。


 その全てを嘘と思えないのは、妻に似た顔がそうさせるからか。

 それとも、彼女の体に流れる自分の血がそうさせるのか。


 冗談などは、そんな顔をして言うものでは無いと、彼女の周囲で誰も教えてやらなかったのか。


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