5.5-3.妻の悪夢
おはよう、ディル。
意識が浮上すると同時に、胃腸に不快感を覚える。
朝になると、いつもこうだ。
いつまでも寝ていたいが、そうもいかない。昨日やり残した仕事が残っている。酒場の掃除も、朝食の準備も、自分が起きないとオルキデやマゼンタに押し付けた形になってしまう。
のそり、と寝台から起き上がるアルギン。鉛の鎧でも身に着けたかのように重い体を無理矢理起こし、窓を見る。
窓幕は引かれたままだ。重い体と頭を起こす為には、外の光を浴びるのが一番。
……その前に、いつもの日課。
「んー……。うぅー、……ディルー、ねむいー」
枕に顔から突っ込み、夫の名を呼ぶ。
優しく頭を撫でてくれる手を思い出しながら。
そのまま二度寝に入る事も有るが、今日は無事に起き上がる事が出来た。寝台に腰を下ろした状態で、眠い目を擦りながら自分の首に手を回す。
そこに下がる鎖を引き上げれば、その先に繋がる指輪が出て来た。
「おはよぉー……ディル……」
これが、夫だ。
「眠いよぉ、ディル……。今日も一日頑張るね……」
指輪に口付ける、それまでが日課。
夫は既に、死んでしまっているから。
過去の戦争で、アルギンを守る為に、戦場に残って。
アルギンは夫と一緒に、色々なものを失った気がする。
子供は産めたが、一人で育てられないと判断が下りた。今はディルの部下であったフュンフが施設長を勤める孤児院に預けている。
酒場は相変わらず経営できているが、賑やかなだけでどこか虚ろだ。
洗濯するのは一人分の衣服。食事も自分の分を用意して、要望があれば貸宿の面々の分を作る。気楽な独身時代に戻ったようだった。夫を気遣って生活態度を正すのも、子供の夜泣きに付き合って夜中に起きる事も無い。
食欲が無いから、今日の朝は珈琲一杯だけ。定位置であるカウンター内部でゆったりした気分で飲んだ後に、日課の煙草に火を点ける。
酒場一階に、紫煙が舞った。
「おはようございますマスター……って、もう煙草吸ってる」
「おー」
モップを手にしたマゼンタが、アルギンに気付いて声をかけてくる。同時、匂いのきつい煙草に気付いて顔を顰めた。
マゼンタに挨拶すると同時、カウンターに新聞が置いてあるのに気が付いた。また客の忘れものか、と呆れながらも手に取って広げる。
中に書いてある記事が、何なのか理解出来ない。字面を視線で追っても頭に入って来ない。特にめぼしい情報が無いからだと勝手に理解して、再び新聞を閉じる。
「酒に煙草に、って、本当に早死にしますよ? それでなくとも、昨日も相当深酒したでしょう」
「コレが無かったら、アタシそれこそ早死にするよ。楽しみが欠片も無くなった世界、退屈過ぎてすぐ嫌気が差しそうだなぁー」
「もう……」
マゼンタは不満そうにしながらも、それ以上何も言わずにいてくれるから有難い。
雇い主と従業員の関係は、深入りする事を許さない。だから実質アルギンの天下。
アルカネットもジャスミンもユイルアルトもアクエリアもミュゼも暁も、みーんな何も言わない。
「………」
もしかしたら、この中の誰かは、アルギンの死を心待ちにしている者もいるのかも知れない。
無理もない。アルギンは味方も多いが、敵を作りやすい。酒場と裏稼業を並行して動かしている女だ、可愛げも無くて当たり前。
可愛げなんて最初っから殆ど無かったのに、そのなけなしの一欠片すらあの人と一緒に死んでしまった。
客が入らなければ、静かな酒場。
アルギンに表立った反感を持つ者は居ない。
誰も彼もアルギンに優しくて、どんな勝手も出来るぬるま湯のような世界だ。あとは『上』から貰う命令を遂行してさえいれば、平穏無事に暮らせる。
朝も昼も夜も。
昨日も今日も明日も。
春も夏も秋も冬も。
去年も今年も来年も。
平穏万歳、と高笑いしながら叫んだっていい。このまま死ぬまでぬるま湯が続いてくれるなら願ったりだ。
幸せ、ではないけれど。
「……ディル」
虚ろな瞳で、じりじりと焼け落ちていく煙草の先を見る。
平穏が幸せと繋がらないと、今では強く思う。
――本当は、こんな平穏なら要らない。
愛する人が側にいない平穏なんて、退屈過ぎて今にも死んでしまいそうになる。
子供達も手放してしまった今、心動かされる何かに出逢う事もない。
緩やかに死んでいくだけの平穏は、王家に飼い殺されている事実の裏返し。
王家は――王妃は、命令を聞く使い勝手のいい駒であるアルギンを逃がさないのだから。
「ディル、淋しいよ」
名指しして悲哀を嘆いても、彼には届かない。
「ディル、寂しいよ」
彼は死んでしまった。
その死体を、アルギンも見て、触れたのだから。
「ディル、ねぇ、ディル」
首が無い、胴だけの死体を。
あの日の事は今でも思い出す。夢にも見る。愛していると言って抱き締めてくれた腕が、二度と動かない。
声が届かない。
愛が届かない。
返ってこない。
帰ってこない。
喉が締め付けられるように痛むのは、煙草を吸っているからだけじゃないだろう。
永遠を信じた相手に、一方的に守られて。それで死なれては、残された側はどうすればいい。
「………戻って、きてよぉ……」
春が来る。夏が来る。秋が来る。冬が来る。
そのどれもに夫の姿が無い。
朝焼け、快晴、夕焼け、星空。
その空の下に夫は居ない。
美しいと思った白銀の髪。
高かった身長。
強かった彼。
二度と戻って来ないと分かっていて、アルギンは今でも泣いている。
彼が居なくなって、何年経っただろうか。
昨日も今日も明日も彼が居ない。そう思う日々がいつ終わってくれるだろう。明日も明後日も明々後日も彼は帰ってこない。いつ忘れられるだろう。忘れられないかも知れない。
胸を打つ楽しみも無い代わりに、夫を喪った時ほどに悲しみを抱く事も無い。楽しくも辛くも無い、ただ平坦な毎日。いつまで続くか分からない、退屈な地獄。
何も無い。
また、アルギンは明日も泣くだろう。
明日だけじゃない、明後日も泣くだろう。
いつか夫の傍に逝くその日まで、あと何日泣けばいいのか。
何も無い平坦な日々が続く中で、アルギンはまた年を取る。
その年月の中で、いつか夫の記憶が薄れて、悲しくても泣かずに済む日が来るのだろうか。
ならば早く来い、と願うのは、いけない事だろうか。
いつまでも、彼の名を呼ぶ。死ぬその時まで、きっと愛している。
忘れられるなら、とも思うけれど、彼を忘れるなんてやっぱり無理だ。
だから、アルギンは毎日積み重ねる。
本当は、いつまでも繰り返せていた筈の、最愛の人と一日の始まりに交わす言葉を。
命続く限り永遠に続く、壊れた、平坦な日常の中で。
おはよう、ディル。
返事は無い。




