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5.5-2.夫の悪夢



 ディルが目を覚ました時、とても静かだった。


「……?」


 外から朝日が入って来る窓は、窓幕が開いたまま。広い寝台には一人しか寝ていない。

 体を起こすと、部屋の色々な所が昨晩と違っている気がする。家具の配置や、寝具の色。自分が寝ている間に妻が衣替えでもしたのかと思うほどだ。


「……アルギン?」


 妻が居ない。

 時計を見れば、普段ならまだアルギンも寝ている時間だ。そもそも、あの女は妊娠してからというものディルが起こさない限り起きられなくなっている。滅多な事ではディルより先に起きないのに、今は寝室にも居ない。

 不気味さを感じるほどに静かなのは、双子さえ起きて来ていないからか。この部屋に着替え一式を置いているから、起きれば必ずこの部屋に来るのに。


「……ウィスタリア? コバルト……?」


 妻や子が齎す喧しさを、ディルは好んだ。

 たまに感じる静かさも好きだが、それは家族がいてこそだ。妻が何時頃起きたかを知りたくて、自分が寝ていた隣に手を滑らせる。――冷たい。

 独りで寝るには広すぎる寝台は、彼女の温度を留めておけなかったようだ。


「……?」


 何故か突然に、寒気を感じた。

 今の季節は確か、雨期だった筈だ。もうすぐ夏本番だ、子供達を海に連れて行きたいとアルギンが計画を立てていた。

 窓から外を見れば、雲は無い。代わりにどこか色が褪せつつある街を見た。通行人も居ない、さびれた通り。

 この寒気は、何から来るものなのか。ディルが寒さに震える腕を抑えれば、服の下の自分の体が冷えているのに気付く。

 とても、寒い。


「……っ、は……」


 まるで、秋が深まったようだ。

 冬ほどの寒気ではない。しかし、夏頃の気温では絶対に無い。

 ディルの手っ取り早い暖取りには、いつもアルギンや子供達の存在があった。小さな彼女達を抱き締めていれば、安心できるぬくもりが感じられる。

 待っていても、愛しい三人の声は聞こえてこない。部屋に誰も来る気配が無くて、ディルが寝室を出る。

 寒いから、紅茶でも淹れて貰おう。蜂蜜たっぷりの紅茶を飲めば、きっと寒気も消えるだろう。

 だから、廊下を抜けて、酒場ホールに出た瞬間――驚いた。


「……」


 これまでの酒場では有り得ない程に密やかな声で、貸宿の面々が集まっていた。

 アルカネット、ジャスミン、アクエリア、ミュゼ――オルキデとマゼンタ。それから、見覚えはあるのに酒場では姿を見たことが無い、濃紺色の髪をした男が別に一人。

 七人はディルに気付くと、それぞれ違った視線を向けて来た。

 アルカネットは軽蔑。ジャスミンは畏れ、アクエリアは憐憫、ミュゼは戸惑い。

 店員姉妹はディルを一瞥すると同時、厨房に引っ込んでいく。


 何かが、いつもと違う。


「お、起き……たんだ。マスター」

「……マスター……?」


 声をかけて来たミュゼは、ディルを『マスター』と呼んだ。

 その呼称はアルギンに使われるものの筈だ。

 ディルの疑問を寝起きの不理解と思った濃紺色の髪の男が、吹き出すように笑う。


「おいおいディル、大丈夫か。寝すぎて頭湧いてんじゃないだろうな? そもそも、起きて来て大丈夫なのか」

「……汝は、誰だ? 客人かえ」

「……は?」


 穏やかに問うたディルの声に、男が目に見えて動揺する。

 長すぎる前髪を下ろし、目許が隠れている。毛先の間から見える瞳に、ディルは見覚えがあった。


「……お前……、この時期って言っても、冗談が過ぎるんじゃないか。そろそろ正気に戻って欲しいものだなぁ」

「……正気? 我は、至って正気だが」


 この男の事は、何か問題を持って来ないならどうだっていい。これまで他の面々と談笑していたのなら、それ以上追及する気も無い。

 それより、ディルにとって大事なのは。


「アルギンは何処だ?」


 その質問を投げた瞬間に。


「――……」


 その場にいた全員が、絶句した。


「……詰まらない、冗談止めろよ」

「冗談……?」

「……」


 最初に席を立ったのはアルカネットだ。更に不機嫌になって、酒場を出ていく。低い鐘の音が、異様に重苦しい。


「……あ、えっと。……お、くすり。そう、いつもの、お薬、出しておきますね。……準備、してきます」


 次に立ち上がったのはジャスミン。無理矢理浮かべた笑顔を見せていた。が。


「……今日はユイルアルトは一緒では無いのかえ?」

「――……っ」


 その一瞬だけ、怒りと悲しみを備えた顔をディルに向けた。

 けれどそれも、本当に一瞬だった。すぐに貼り付けたような無表情になり、部屋に向かう為階段を上っていく。

 残ったのは三人。アクエリアは憐憫の視線を向け続けている。


「……今年は重症ですね」

「アクエリア、何かあったのかえ? 先程起きて来たばかりだ、我には分からぬ」

「………」

「それに、ミョゾティス。此の男は汝等の客人かえ」

「……」


 濃紺色の髪の男は、卓の上に肘を乗せて手を組んだ。今のディルの様子を深刻そうな顔で見ている。そして口調も馴れ馴れしく、ディルの名を呼ぶ。


「ディル、今が何年何月何日か分かるか」

「今……? 七七六年か。六月、……今日は何日だ」

「……今は九月四日だよ」

「九月? ……我は随分と記憶違いをしているようだ。昨日まで雨期では無かったかえ。其処なアクエリアとミョゾティスが、フュンフの孤児院に向かった」

「っ――」


 ディルはまた、不用意に言葉を発してしまったらしい。途端にミュゼの顔色が青くなり、震え始める。

 その体を抱き寄せて宥めているのはアクエリアだ。知らない間に、二人は随分と仲良くなったものだ――と、この時のディルは呑気に考えていた。


「妻の姿が見えぬのでな。あの者は先に起きたか? 此の場にも居ないとなると、何処か出る用事があったかえ」

「……ディル」


 濃紺の髪の男は、瞬きを増やしながら前髪を掻き上げた。男の額が出てやっと、それが誰だか分かる。

 普段は少し意地を張る、品を忘れない王国の第一王子。


「……アール、ヴァリン……?」

「お前は……いや、俺達は、毎年この時期になると使い物にならなくなるが……今年のお前は異常だな。お前が冗談言えないのは、俺が良く分かってるから大丈夫だよ。だから、そんなクソみたいなこと言っても、俺は殴らずにいてやれる」


 それは苛立ちか、悲しみか。浅く息を吸ったアールヴァリンは、冷たく、言い捨てる。


「アルギンは、死んだろ」


 ディルが、耳を疑う話を。


「六年前。あのファルミアで、お前を置いて。あと少しで命日だ。だから、お前はいつもこの時期になると狂う」

「――死ん、……? アールヴァリン、冗談の内容に依っては我とて怒りを覚える。殺意もだ。妻に関する冗談は金輪際聞かぬ」

「話は理解出来ても通じないか。まぁ、毎度の事だな。俺だってこんな話、冗談だったら言いたくないよ」

「……アルギンが死んだ訳が無いだろう。双子は、……ウィスタリアと、コバルトは」

「は、……っ。マスター、あの二人の事っ……?」

「……」


 話が通じない。

 ウィスタリアとコバルトの名前を出しても、ミュゼ以外にはピンと来るものが無いらしい。

 ディルの背中に、嫌な汗が伝う。先程まで、寒気を感じていた程なのに。


「……話にならぬな」


 アールヴァリンは、ディルに冗談が言えぬ男だと評した。けれどそれは、ディルにしてもこの三人に言える。少なくとも、ディルが怒るような冗談は言わない。

 でも、妻が居ないなんて嘘だ。だって、双子は一緒に暮らしているし、妻の笑顔も昨日見た。その体温を感じた。

 耳が腐りそうな冗談を真に受けるよりも、本人達に会うのが一番だ。双子の顔を見て、妻を腕に抱けば、こんな下らない話を二度と聞かなくて済む。


「ディルさん、どこへ」

「二階だ」

「二階って」


 一先ず、妻も双子も姿が見えないから、子供達の寝室に向かう。

 二階の一室を陣取った双子は、酒場の男衆が作った二段ベッドに寝ている。時々寂しい日は同じ段に身を寄せ合って寝ているから、とても愛らしい。

 足早に階段を上って、双子の寝室に。どうか居てくれ、と、無意識に強く願う。

 いつも安全面を考慮して鍵を掛けないその部屋は、今日に限って鍵が掛かっている。


「っ……!!」


 腹が立つ。今すぐ確認しなければならない焦りに駆られて、全力を以て扉を蹴り開けた。

 開いた扉の向こうでは、突然の事に驚いて目を丸くする双子――は、居ない。

 薄く埃が積もった床は、暫く誰も室内に立ち入っていない様子を語る。二段ベッドなど、当然無い。

 双子も、妻も、居ない。


「……は、……?」


 居ないなんて有り得ない。有り得ては、いけない。

 妻が、双子が、ディルの傍を離れるなんて、絶対に。


「――っ!!」


 有り得ない世界をそれ以上見たくなくて、乱暴に扉を閉める。蹴破った時に金具部分も壊れたらしく、綺麗に閉まり切ることは無かったが。

 走って階段を降り、再び一階へ。酒場客席に戻って来た時には、もう三人の姿も無かった。

 狭い酒場内が広く感じる。一階を抜け、寝室へ続く廊下へ。扉の取っ手に手を掛けた瞬間、掌を襲った滑るような感触に思わず手を引っ込めた。


「は、……な、んだ、これ、は」


 ――取っ手が、真っ赤だ。それも、ディルの指の形に疎らに色付いている。

 ディルの掌を見れば、真紅に染まっていた。それも滴る程の鮮血だ。生臭く気持ち悪い臭気が鼻を衝く。

 この血の臭いは過去に感じていた。何も考えずに、自分だけの役職を頼りに、敵の首を狩っていた『人形』だった頃の記憶。


 起きてからこれまで、血溜まりに触れる事も、誰かを害する事もなかったのに。


 この血は、誰の血?


「――アルギンっ!!」


 どうしてそう思ったのか、自分でも分からない。無意識に、愛する人の名を叫んでいた。

 滑る感触も無視して、寝室に繋がる扉を開く。

 その先に、妻の笑顔があることを願って。


「……あ、……」


 扉の先は、寝室では無かった。

 奥には、先程まで寝ていた筈の広い寝台ではなく、粗末な狭い寝台がひとつ。それから、背凭れも無い椅子があるだけ。

 壁は寝室の木目ではない。布張りの、まるで天幕のようなもの。

 取っ手から手を離せば、そこも扉ではなくなる。布を引き上げて出入りする、天幕入口へと変化した。


「……ある、ぎん」


 ディルの視線は、寝台の上に釘付けになっている。

 薄い掛け布があるだけの固い寝台には、ディルも何度となく世話になった。

 けれどその上が、褪せた赤色に染まっている。


「――……」


 白と赤を基調にした騎士服は、何度も見て来た。妻が騎士だった頃の公式な場での装いだ。

 元から赤を含んだその服が、所々血の色に染まっている。袖から覗く指には、ディルが贈った指輪が嵌められていた。

 妻の、腕だ。


 肩から先が、無い。


「っ、あ」


 肩部分から捻り上げられて千切れたような、おぞましい断面を晒した腕。赤く染まったそれが、寝台の上に無造作に置かれている。

 愛らしい小さな爪が、指が、嵌められた指輪が、それが妻のものだと語っていた。最愛の人の見慣れた手を、見間違える筈がない。


「ぅ、あ。……っあ、あ、あああああっ………」


 物言わぬ腕だけが、ディルを待っている。

 誰よりも愛し、心奪われた人の腕。理解出来ない世界が目の前に広がっていた。


 直後、自分の口から発せられた慟哭を、ディルは自分でも理解出来ずにいた。

 彼女の生を信じたい。けれど、彼女は此処に居ない。何をすればいいか分からない。この酒場にはきっと居ない。生きている。信じたい。信じてどうする。腕の無い彼女は生きているのか。ならば、何処で。


 『幸せ』が、一瞬で崩れ去る。

 自分の記憶に齟齬があって、何故自分が泣いているのかも曖昧になって来る。


 ……可愛らしい、自分の子である双子の顔さえも思い出せなくなり始めた。

 冷たく悲しい世界の中で、ディルは意識途切れるまで叫び続ける。


 夢なら、早く醒めろと。






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