20.深紅の記録者
いつまで経っても、首筋に鉄がめり込むような痛みも、命が消失するような最高のカタルシスも訪れなかった。
(……おかしい。もう、死んでいるはずだろう?)
俺は完璧な散り際を受け入れようと、静かに目を閉じていた。だが、首筋を撫でるのは死の冷気ではなく、まるで灼熱の炎と絶対零度の氷が同時に肌を這うような、悍ましくも圧倒的な魔力の脈動だった。
恐るべき沈黙に耐えきれず、俺はそっと目を開けた。
「…………え?」
視界に飛び込んできたのは、驚愕で顔を引き攣らせ、バルコニーの床に膝を突く原作主人公の姿だった。
彼の振り下ろしたはずの鉄の剣は、俺の首筋に触れる寸前で、まるで目に見えない「世界の壁」に阻まれたかのようにピタリと静止している。
そして、その剣の刃先を、わずか二本の指先で軽々と摘んでいる『影』があった。
「――あまりに無粋ね。これほど美しい『合理の化身』を、そんな錆びた鉄屑で終わらせるなんて」
凛としていながら、奈落の底から響くような、重く、甘美な声。
王宮のバルコニーの手すりに、いつの間にか彼女は腰掛けていた。
本来、この物語の終盤、全ての冥宮を浄化した後にようやく姿を現すはずの希望の象徴。真のヒロイン、シンシア。
だが、俺の知っている彼女とは決定的に違っていた。
原作では太陽を象徴する黄金色だったはずの長い髪は、今や鮮血を煮詰めたかのような、おぞましくも美しい深紅に染まり、その瞳には慈愛ではなく、万物を食らい尽くす深淵の輝きが宿っている。
(……待て、ありえない。この姿は……『シンシア』じゃない)
俺の脳内にある原作知識が、激しい警鐘を鳴らす。
特定の条件が重なった時のみ、現世に降臨する存在。
原作ゲームにおける真の裏ボス――深淵の捕食者、ラグナリエル。
「な、なんだ……あんたは……!? 女神様……じゃないのか?」
原作主人公が、震える声で絞り出す。
シンシア(ラグナリエル)は、一瞥だにせず、ただゴミを捨てるような仕草で指先に力を込めた。
パキィィィィィィィンッ!!
硬質な音を立てて、主人公の持つ鉄の剣が粉々に砕け散った。
それだけではない。彼女から放たれた赤黒い波動が主人公の胸を打ち、彼はバルコニーから広場の瓦礫の中へと無様に吹き飛ばされていく。
「あ……が、はぁ……っ!」
突如、緊迫したバルコニーに、場違いなほど優雅で平坦な声が響いた。
「――お見事な介入でございます。新たなる『客人様』」
「なっ……クラリス!?」
俺が振り返ると、そこには銀のトレイにティーカップを三つ乗せたメイドのクラリスが、一糸乱れぬ完璧な礼の姿勢で立っていた。
広場では狂犬が重圧に骨を軋ませ、冷徹な執行者が機能不全で倒れ伏しているというのに。このメイドだけは、深淵の裏ボスが放つ絶望のオーラを前にしても、顔色一つ変えずに紅茶を淹れてきたのだ。
「閣下の計算式が書き換わる瞬間。この特等席で拝見しておりました。……さあ、深淵よりお越しのお客様。ダージリンで喉をお潤しくださいませ」
『……ふふっ。面白い人形を飼っているのね、レイン』
シンシアは面白そうに目を細め、空中に浮遊したままクラリスのトレイからティーカップを一つ摘み上げた。
そして、ゆっくりと俺の目の前へと降り立ち、至近距離で俺の顔を覗き込んできた。
「レイン・ヴァルディア。……あなたの描く秩序、あなたの操る歪な魔力。地下の檻からずっと観測していたけれど……期待以上だわ」
「……観測……だと?」
「ええ。あなたが振り撒く【炎】と【氷】の余波が、私の檻を壊してくれた。……本来ならこの『光の器』の意識が目覚めるはずだったけれど、我慢できなくなって、私が先に飲み干してしまったわ」
彼女は俺の頬に冷たい指先を滑らせ、うっとりと微笑んだ。
「この退屈な世界の理を、あなたのその残酷な計算式で塗り替えていく……。その『記録』を、特等席で見届けさせてもらうわよ」
(……嘘だろ。主人公が俺を倒して、彼女を解放するはずのイベントが……根底から腐り果てている)
本来の真ヒロインは食われ、中身は世界を滅ぼしかねない裏ボス。
しかも、彼女は主人公ではなく、悪役である俺を「選んだ」。
俺の体内には、先ほどまで封印されていたはずの『獄炎』と『氷結』の複合魔力が、彼女の存在に共鳴するように爆発的な出力で戻ってきていた。
「ご主人さまに……触るなァッ!! この、泥棒猫ォォォォッ!!」
広場の下から、重圧を無理やり跳ね除けようとするリリアの血を吐くような絶叫が聞こえる。
セレナもまた、虚ろな瞳で「未知のバグ……排除……」とうわ言のように繰り返している。
(まずい。このままでは……ここで主人公が死ぬ)
リリアの殺意、セレナの暴走、そしてこのシンシアという名の怪物の好奇心。
この場に留まれば、初期装備の主人公は確実に、細胞レベルで消滅する。
俺はとっさに、戻ってきた魔力を掌に凝縮させた。
「……勘違いするな、シンシア」
俺は悪役としての冷徹な仮面を貼り付け、クラリスの差し出した紅茶を乱暴に受け取りながら、広場で倒れている主人公を見下ろした。
「そいつは……俺の天秤を揺らすための『変数』だ。ここで消すには早すぎる」
俺は空いた左手で最大出力の『氷結』を、主人公の足元に向けて放った。
「――『氷結滑空』ッ!!」
「え? うわあああああああああっ!?」
主人公の身体が、俺の作った超長距離の氷の滑り台によって、王都の壁を越えて遥か彼方の隣領へと強制的に射出される。
これで、ひとまずはあいつを「魔王軍」の手から逃がすことができた。
「……逃げるがいい、ゴミめ。泥水を啜り、いつか俺の首に届くほどの力を得てから、再び絶望しに来い」
俺は遠ざかる主人公の背中に向かって、完璧な悪役の台詞を投げつけた。
心の中では「頼むから俺を殺せるくらい強くなって帰ってきてくれ!!」と血を吐くような思いで叫びながら。
静まり返ったバルコニー。
俺の左右には、今にもシンシアに飛びかかろうと牙を剥く狂犬のリリアと、フラフラと立ち上がり計算を再構築するセレナ。
後ろには、この地獄絵図に「極上の紅茶ですね」と満足げに頷くクラリス。
そして目の前には、楽しそうに俺を見つめる深紅の裏ボス。
「……さて。……これから、どうするつもりだ?」
俺の問いに、シンシア(ラグナリエル)は俺の腕に絡みつき、妖艶に微笑んだ。
「決まっているでしょう? あなたがこの世界をどう蹂躙していくのか、私が一番近くで記録するの。……さあ、次の『冥宮』へ行きましょうか、レイン」
俺の「最高の死」への計画は、完全に、そして無残に瓦解した。
ここから始まるのは、勇者のレベリングを祈りつつ、規格外の女たちを連れて世界を巡る、悪役公爵の地獄の道中記だった。
人生シナリオ通りにはいかないですね!
何が起こるかわからない、だから…面白い!




