壁を乗り越えて
ラインハルトの手を握りながら少しずつだが、水面に顔を浸けていられる様になっていく。
それでも水面に顔を浸けている瞬間はラインハルトの手を握る力が強くなるから、やはりまだ怖いのだろう。
「大丈夫? 少し休む?」
恐怖と向き合うと予想以上に精神的負担が掛かる。本人が思う以上にだ。
だが、やはりそこはアルムルーヴェの血筋。
本人の性格も相俟って、負けず嫌いで首を横に振る。
「大丈夫だ。まだやれる」
「わかった。無理しないでね」
ラインハルトもやる気のヴィクトリアの気持ちに水を差したくないと思い続けた。
それからは最初は一瞬だけ水に浸かっていたのが、段々と水に浸かれる様になる。
本人が自信をつけてきた所で、次の段階を提案した。
「ヴィッキー。次はばた足の練習をやろうか?
僕が手を握っているから、水面に浮いてたら足を交互にばたつかせて。最初はゆっくりで大丈夫だから」
「わ、わかった。絶対に手を離すなよ」
「絶対に離さないから大丈夫。君の嫌がる事はしないよ」
「うん、お前を信じてる」
目の前で必死に手を握る可愛らしい少女の真剣な表情。
そんな表情で「お前を信じてる」と言われると男冥利に尽きると言えるだろう。
ヴィクトリアはラインハルトの手を握りながら水面に浮かぶ。
そしてゆっくりと足を交互にばたつかせ始めた。
「そうそう上手だよ。慣れてきたら、少しずつばた足を速くしようか」
「こ、こうか?」
ラインハルトの指導も然ることながら、ヴィクトリアの身体能力が元から高いこともあり、コツを掴むのが早い。
「じゃ手を握りながら、少しずつ後ろに歩くから。ヴィッキーはそのままバタ足を続けて」
「ま、待て!? 早くないか!?」
「心配しなくても大丈夫だよ。絶対に離さいから」
ラインハルトの言葉を信用しきっている為か、ヴィクトリアは何も言わず頷いた。
ヴィクトリアの手を握りながら一歩。
また一歩と後ろに歩く。
ペースを早めるとヴィクトリアが驚いてしまうから、牛歩の様にゆっくりと歩いた。
プールの端から始めたばた足は、いつの間にか真ん中位にまで進んでいた。
そして真ん中まで来るとラインハルトが歩みを止めた。
「ちょっと休もうか? ヴィッキー」
「まだ少ししか進んでないぞ」
「十分過ぎる程進んだよ。周りを見て見なよ」
「?」
ラインハルトに促されヴィクトリアは初めて進んだ距離を知った。
「これ、私が泳いだのか?」
「そうだよ、ヴィッキー。君の努力した証だ」
水にすら浸かれなかったヴィクトリアがラインハルトの力を借りたとしても、プールの真ん中まで泳げた事実。
泳げたこと余程嬉しかったのか、笑顔で喜ぶ。
「やった。私、泳げる様になったんだ」
「ま~一人はまだ無理だけど、ヴィッキーは運動神経が良いから直ぐに一人で泳げる様になるよ」
「本当か!?」
「うん、毎日練習すれば大丈夫。きっと再来週の水中訓練には間に合うと思うよ」
毎日練習すればという言葉に、さっきまで嬉しそうにしていたヴィクトリアの表情が若干雲ってしまった。
「ラインハルトは大丈夫なのか? その……毎日私の練習に付き合っていたら、自分の時間が無くなるぞ」
ヴィクトリアはヴィクトリアなりに気を使っているのだろう。候補生にとって就寝までの時間は数少ない自由時間なのだ。
候補生によっては読書を楽しんだり、自習もしくは家族や恋人に手紙を書いたりしている。
故に、この時間は金よりも貴重な時間と候補生の間では言われる。
その貴重な時間を自分の為に使われるのは気が引けるのだ。
「大丈夫。前にも言っただろ、君が泳げる様になるまで付き合うって」
「感謝する、ラインハルト」
ヴィクトリアの感謝の言葉にラインハルトは余計な一言を付け加えた。
「それに華やかさから程遠い僕の人生にとっては、こうやって可愛い女の子と過ごす時間は最初で最後かも知れないからね」
「バカ。全部台無しだぞ」
相変わらずの真実味に欠けるラインハルトの言葉に、いつもの様にヴィクトリアも笑いながら返した。
プールの横に設置されたベンチに二人は座った。
互いに意識している訳ではないが、何故か一人分空けて。
まだ夜になると少し肌寒く、ヴィクトリアはタオルを肩に掛けて体を少し震えさせている。
そんなヴィクトリアにラインハルトが荷物から水筒を取り出して、コップに注いだ。
「はい。温かい紅茶だよ」
ラインハルトが差し出してくれたコップからは仄かに湯気が立ち上ぼり、優しい香りがヴィクトリアを包む。
「感謝する。それにしても、お前にしては気が利くではないか」
「心外だな~ヴィッキー。僕は最初から気が利く男だよ?」
「黙れバカ。あまり嘘をつかない方がいいぞ。大方、レベッカ上級生に持たされたんだろ? お前の顔じゃ直ぐにバレるし、私は嘘が嫌いだからな」
「残念バレたか」
いつもの様に真実味に欠ける話し方をするラインハルト。
ヴィクトリアも何だかんだ言いながら、ラインハルトが気が利く男と気づいていたし、何より彼の生来の優しさに気づいていた。
じゃなければ自分の時間を費やしてまで付き合うはずがないと。
「出来れば君の好きなオラーンジェを温めようかと思ったんだけど、温めたオラーンジェは君の口には合いそうに無いから止めといたよ」
「フフ、その判断は合っているな。アレは冷えた方が美味しいからな」
「良かったよ。うっかり不味いのを飲まさしたら、君に噛み殺されるからね」
「バカ」
月下の明りが雲の隙間から射し込み二人の髪を照らす。
「ラインハルト」
「なに?」
ラインハルトがヴィクトリアの方を見ると、彼女は瞳を綴じて紅茶を注いだコップを鼻に近づける。
「うるさいから黙っていろ。お前の所為で、いい香りの紅茶が台無しになるからな」
「……はい」
ラインハルトもうっかりヴィクトリアの機嫌を損ねて噛み殺されたくないので口を噤んだ。
そして自分もコップに紅茶を注ごうとレベッカに渡された荷物を漁るが、コップが無いのに気づいた。
入れ忘れたのかと思い、諦め掛けていたその瞬間、ラインハルトに横から何か差し出された。
横を見るとヴィクトリアがコップを差し出していた。
何故か視線は合わさせずにだ。
「コップが無いのだろ? 私ので良ければ飲んで構わないぞ」
「えっと……いいの?」
一応ラインハルトも確認をするが、ヴィクトリアは視線を合わせず突き出した。
「私の気が変わらない内に早くしろ」
「う、うん。ありがとう」
「うん。感謝して飲むんだな」
ヴィクトリアからコップを受取り、ラインハルトもヴィクトリアと違う所に口をつける。
ラインハルトなりに気を使ったが、口をつけた場所から飲むのは恥ずかしいし、何よりアレになってしまったら嫌がると思ったからだ。
「大変美味しゅうございます。王女殿下」
早速紅茶の感想を態とらしい表現で表したが、ヴィクトリアには鼻で笑われた。
「その気持ち悪い言葉を使うのは止めた方がいいぞ。お前が言うと余計に気持ち悪いからな。だいいち似合わないぞ」
「あはは……だよね」
なんだか「余計に気持ち悪い」という言い方されると、最初から気持ち悪いみたいな前提が拭えず、ラインハルトはただ苦笑いするしかなかった。
そんな表情を察してか、ヴィクトリアが訂正する。
「言っとくが、別にお前が気持ち悪い訳では無いからな。その言葉が気持ち悪いんだ、だから誤解するなよ」
「それを聞けて良かったよ、ヴィッキー。てっきり僕が気持ち悪いと言われていたら、きっと今夜は枕を濡らしただろうからね」
ラインハルトがわざとらしく目元を拭う仕草にヴィクトリアはそっぽを向いて一言。
「黙れバカ」
いつもの様にラインハルトの真実味に欠ける話し方にヴィクトリアは溜息を吐き、夜空を見上げて感想を言った。
「モーントが綺麗だな……」