第七十二話 返信
手紙を出してから、一月ほどが過ぎていた。
その日も、ユリオは、いつも通り、狭い裏庭で木剣を振っていた。汗を拭いながら、ふと顔を上げた時、長屋の大家が、珍しく息を切らして駆けてきた。
「ユリオさん! 手紙です、辺境の村から!」
その一言に、ユリオの手から、木剣が滑り落ちた。
「今すぐ、寄越してくれ」
差し出された封筒を、ユリオは、ひったくるように受け取った。粗末な紙に、見覚えのある、ぶっきらぼうな字で、宛名が書かれていた。
(爺さんの字だ)
間違いない。ガレオンからの返事だった。
◇
部屋に戻ったユリオは、はやる気持ちを抑えながら、封を切った。
中から出てきたのは、思っていたよりも、ずっと短い一枚の便箋だった。ユリオの手紙は、あれほど長々と、様々な想いを綴ったものだったのに――その落差に、思わず、小さく笑ってしまった。
(相変わらず、口数少ないな、爺さんは)
それでも、その短い文面を、ユリオは、一文字たりとも見逃さないよう、じっくりと読み始めた。
◇
「ユリオへ
最初の手紙に返事をしなかったこと、まずは詫びる。忙しさにかまけていた、というのは言い訳にしかならんな。すまなかった。
二通目の手紙、読んだ。長かったが、全部、ちゃんと読んだ。
焦る気持ちは、分からんでもない。だが、お前が今、そこで大人しくしていることも、立派な戦いの一つだ。動くことだけが、前に進むことじゃない。それだけは、覚えておけ」
簡潔な、それでいて、確かな重みを持つ言葉だった。ユリオは、その一文を、何度も読み返した。
「お前の力のことも、書いてあったな。三度目の発動、か。まだ、心配するような段階じゃない。だが、いずれ、その力の正体について、話さなきゃならん時が来るとは思っている。今は、まだその時じゃない。それだけは、分かってくれ」
その一文に、ユリオは、わずかに眉を寄せた。
(「話さなきゃならん時」……?)
言葉の端々に、何か、これまで語られてこなかった事情が、隠されているような気配があった。それでも、今は、それ以上を問い詰める術はなかった。ただ、ガレオンの言葉を、信じて待つしかない。
◇
「ロトのことも、書いてくれて、嬉しかった。お前が、誰かを助け、誰かに助けられながら、少しずつ、自分の居場所を広げていってる。それを知れただけで、この爺は、十分だ。
ガイとかいう若いのとも、うまくやってるようで、安心した。あのカイエルの坊主の話にも、驚いたが……人は、変わる時は変わるもんだな」
その一文に、ユリオは、思わず頬を緩めた。ガレオンらしい、飾らない反応だった。
「リィナのことも、書いてくれたな」
その一行を見た瞬間、ユリオの心臓が、小さく跳ねた。
「柄にもなく、なんて書いてたが、そう思うのは、別に悪いことじゃない。大事な人がいるってのは、強くなる理由にもなるし、弱さにもなる。その両方を、ちゃんと引き受けられる男になれ」
その言葉を、ユリオは、しばらくの間、じっと見つめていた。何と返せばいいのか、すぐには言葉が浮かばなかった。それでも、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。
◇
「村の方は、変わりない。ミラも、相変わらず元気にやってる。お前の話をすると、決まって、少し寂しそうな顔をするがな」
その一文に、ユリオは、村での日々を、懐かしく思い出していた。幼馴染のミラ、口うるさい村人たち、代わり映えのしない、けれど、確かに温かかった日常。
「森の様子も、少しずつ変わってきている。詳しくは、また今度、話す。今は、心配しなくていい」
その一文にも、ユリオは、わずかな引っかかりを覚えた。だが、それ以上、深く考えることは、あえてしなかった。今は、ガレオンの言葉を、そのまま受け止めるべき時だと、そう感じたからだった。
◇
便箋の最後は、こう締めくくられていた。
「野菜スープの味が薄いのは、単に、お前が塩を惜しんで買ってこなかったせいだ。ちゃんと稼いで帰ってきたら、少しは贅沢な飯を用意してやる。
焦らず、腐らず、驕らず。基礎を忘れず、しっかり励め。
お前の帰りを、待っている。
ガレオン」
最後の一文を読み終えた時、ユリオの目頭が、思わず熱くなった。
「……相変わらず、素直じゃねえよな、爺さんは」
誰に向けるでもなく、そう呟いた声は、少しだけ、震えていた。
◇
その日の夕方、ユリオは、リィナとカイエルに、返事が届いたことを伝えた。二人とも、それぞれの調査の合間を縫って、裏長屋に顔を出してくれた。
「良かったじゃない」
リィナは、心底安堵したような表情を浮かべた。
「ああ。相変わらず、素っ気ない文面だったけどな」
「素っ気ないところが、ガレオンさんらしいじゃない」
その言葉に、ユリオは、小さく笑った。
「カイエルのことも、書いてあったぞ。『人は、変わる時は変わるもんだな』ってさ」
その一言に、カイエルは、少し驚いたような顔をした。
「一度、顔を合わせただけの相手に、そこまで言われるとはな」
「爺さんは、そういう人だよ。ほんの少し会っただけでも、ちゃんと、人を見てる」
ユリオの言葉には、確かな誇らしさが滲んでいた。
◇
「一つだけ、気になることがあった」
ユリオは、少し声のトーンを落として、続けた。
「俺の力のことについて、『いずれ、話さなきゃならん時が来る』って書いてあった。あと、村の近くの森の様子が『少しずつ変わってきている』とも」
その言葉に、リィナとカイエルは、顔を見合わせた。
「それは……」
「ああ。何か、俺たちがまだ知らない事情が、村の方にもあるのかもしれない」
三人の間に、緊張感の混じった沈黙が流れた。反対派との攻防、家との軋轢、そして帝国を巡る不穏な情勢――そこに、もう一つ、辺境の村を巡る謎が、静かに重なりつつあった。
「今は、それぞれの目の前のことに、集中するしかないな」
カイエルの言葉に、ユリオとリィナは、それぞれ頷いた。
◇
その夜、一人になったユリオは、改めて、ガレオンからの手紙を読み返していた。
短い文面の中に込められた、不器用ながらも確かな激励。そして、まだ明かされていない、何かの気配。
(焦らず、腐らず、驕らず、か)
その言葉を、ユリオは、胸の中で、静かに繰り返した。待機の日々に、明確な意味を見出すことは、まだ難しい。それでも、遠く離れた場所から、確かに自分を見守り続けてくれている人がいる――その事実だけで、今は、十分だった。
手紙を、大切に折りたたみ、ユリオは、それを、肌身離さず持ち歩く小さな革袋の中に、そっとしまい込んだ。
◇
同じ頃、遠く辺境の村では、ガレオンが、丘の上の小屋で、一人、静かな夜を過ごしていた。
机の上には、書き損じた便箋が、いくつも丸められて転がっていた。ユリオへの返事を書くのに、これほど頭を悩ませたのは、久しぶりのことだった。
(本当は、もっと、色々と書いてやりたかったんだがな)
ユリオの力の正体、旧ヴェルニア領の異変、そして、かつての盟友のこと――伝えるべきことは、山のようにあった。それでも、文字にして送るには、あまりにも重すぎる真実ばかりだった。下手に書き記して、それが誰かの目に触れでもすれば、取り返しのつかないことになりかねない。
(顔を合わせて、この目でしっかり見て、伝えなきゃならんことだ)
だからこそ、あえて、多くを語らなかった。短い言葉の中に、伝えられるだけの想いを、精一杯に込める。それが、今のガレオンに出来る、精一杯のことだった。
窓の外に目をやると、村を囲む山々の稜線が、夜闇の中に、ぼんやりと浮かび上がっていた。以前は感じなかった、微かな違和感――大気の中に滲む、うっすらとした瘴気にも似た気配。それは、日を追うごとに、少しずつ、色濃くなっているように感じられた。
(時間は、そう長くは残されていないかもしれん)
ガレオンは、小屋の片隅――かつて、あの剣をしまい込んでいた木箱があった場所に、静かに視線を向けた。今はもう空になった、その場所を見つめながら、老爺は、静かに息を吐いた。
(あの剣は、もう、あいつの手にある)
旅立ちの朝、震える手であの剣を受け取ったユリオの姿を、ガレオンは、今でも鮮明に思い出せる。あの日、語れるだけのことは、語った。それでも、まだ、伝えきれていないことがある――森に忍び寄りつつある、あの気配の正体。そして、ユリオの力が、この先、何を意味することになるのか。その全てを、いずれ、面と向かって語らねばならない日が来る。
「もう少しだけ、待っていてくれよ、ユリオ」
誰に届くでもない呟きが、静かな夜の中に、溶けていった。
◇
王都の裏長屋では、ユリオが、革袋にしまった手紙の感触を、上着の上から、そっと確かめていた。
森の異変、力の正体、明かされていない何か――不安の種は、確かに増えていた。それでも、不思議と、恐怖に押しつぶされそうな感覚はなかった。ガレオンが、多くを語らずとも、必ず、然るべき時に、全てを伝えてくれる。その信頼だけは、揺らぐことがなかった。
(爺さんが、そう言うなら、今は、今できることをやるだけだ)
待機の日々は、まだ、続いていく。それでも、その日々の意味を、ユリオは、これまでとは少し違う形で、受け止め始めていた。焦りは、完全には消えない。だが、その焦りを抱えたまま、腐らず、驕らず、前を向いて歩き続けること――それこそが、今の自分に課された、何よりの稽古なのかもしれなかった。
窓の外に広がる王都の夜空を見上げながら、ユリオは、遠く離れた辺境の空の下にいる、老いた師の姿を、静かに思い浮かべていた。
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