第四十話 守れなかったもの
野盗との戦闘から一夜明け、一行は、傷の癒えぬまま、慎重に旅を再開していた。空はどんよりと曇り、山道には、昨夜の雨で濡れた土の匂いが、まだ色濃く残っていた。
朝の身支度を整える間も、私兵たちの間には、昨日の戦闘の緊張が、まだ色濃く残っていた。
「思ったより、統率の取れた連中でしたね」
「ああ。あの手際の良さは、素人のものじゃなかった」
ガイと別の私兵が、そんな言葉を交わしているのが、ユリオの耳にも届いた。単なる野盗にしては、あまりにも計画的だった襲撃――その違和感が、一行の間に、拭いきれない不穏さを残していた。
「カイエル様、あの連中、何者だったんでしょうね」
「わからん。だが、ただの物盗りにしては、動きに無駄がなさすぎた。誰かに雇われていた可能性も、否定できん」
カイエルの分析に、私兵たちの間に、新たな緊張が走った。もし本当に、何者かに差し向けられた刺客だったとしたら、この旅路そのものが、これまで以上に危険なものになる。
ユリオは、馬上で揺られながら、昨日の光景を、何度も頭の中で反芻していた。リィナの腕に走った、あの浅い傷。庇ったつもりだった。それでも、完全には守りきれなかった。
(もっと早く動けてれば……もっと強ければ……)
自責の念が、頭から離れなかった。ガレオンとの三年間の稽古で、確かに以前よりは強くなったはずだった。だが、いざという時に、大切な人を完璧に守れるほどの力には、まだ程遠い。その現実が、これまでにない重さで、ユリオの胸にのしかかっていた。
「浮かない顔ね」
馬上、隣を並走していたリィナが、声をかけてきた。彼女の腕には、丁寧に包帯が巻かれている。
「……あんたの傷のこと、考えてた」
「これくらいの傷、大したことないわ」
「大したことなくねえよ。俺が、もっとちゃんと守れてれば――」
「ユリオ」
リィナが、遮るように、彼の名を呼んだ。
「あなたが、私を庇ってくれたことに変わりはないわ。もしあなたがいなければ、この程度の傷では、済まなかったはずよ」
「それでも、完璧じゃなかった」
「完璧じゃないのは、当たり前のことよ。カイエル様だって、あらゆる攻撃を完全に防げるわけじゃない。それでも、彼はできることを、精一杯やっている。あなたも、同じだったわ」
その言葉には、慰めではない、確かな論理があった。それでも、ユリオの胸の奥にわだかまる自責の念は、簡単には消えてくれなかった。
「なあ、正直に言ってくれ。痛かったろ、あれ」
「……少しは」
リィナが、素直にそう認めた。
「でも、それ以上に、あなたが庇ってくれたことが、嬉しかったわ。誰かにあんな風に、体を張って守ってもらったのは、初めてだったから」
その言葉に、ユリオは、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「別に、当たり前のことをしただけだよ」
「当たり前じゃないわ。少なくとも、私にとっては」
その真摯な言葉に、ユリオは、何も言い返せなくなった。ただ、胸の奥に、複雑な、それでいて温かい感情が広がっていくのを感じていた。
◇
夜営地で、ユリオは、一人、剣の手入れをしながら、物思いに耽っていた。ガレオンから譲り受けたその剣を、丁寧に磨きながら、彼は、静かに己の非力さと向き合っていた。
「まだ、悩んでいるのか」
不意に、カイエルが声をかけてきた。
「……悪いのかよ」
「悪いとは言っていない。ただ、その姿勢は、悪くないと思っている」
意外な言葉に、ユリオは、思わず顔を上げた。
「己の非力さを認め、それでも前を向こうとする。それは、簡単なようで、難しいことだ」
「あんたにも、そういう時期があったのか」
「私は、生まれながらにランクSの紋を持っていた。だからこそ、お前のような苦しみとは、無縁だったと言えるだろう」
カイエルは、焚き火の炎を見つめながら、続けた。自嘲めいた響きが、その声にわずかに滲んでいた。
「無縁であったがゆえに、気づけなかったこともある。力に恵まれた者には、恵まれた者なりの盲点があるということを、この旅で、思い知らされている」
「だが、力に恵まれているからといって、全てを守れるわけではない。私も、これまで、守れなかったものが、いくつもある」
「あんたが?」
「ああ。詳しくは、語るつもりはないがな」
その言葉には、何か重い過去を思わせる響きがあった。ユリオは、それ以上追及せず、静かに耳を傾け続けた。
「大事なのは、守れなかった過去を悔いることではなく、次にどう活かすかだ。お前も、今日の経験を、次への糧にすればいい」
「言うのは簡単だけどな」
「簡単ではない。だからこそ、口にする価値がある」
カイエルは、剣の柄に触れながら、遠くを見るような目をした。
「私も、若い頃、似たような経験をしたことがある。守るべき者を、守りきれなかった経験だ」
「詳しく、聞いてもいいのか」
「今は、まだ言えん。だが、いずれ、話す時が来るかもしれん」
その返答には、含みのある響きがあった。ユリオは、それ以上踏み込まず、静かに頷いた。
「一つだけ、言えることがある」
「なんだよ」
「守れなかった悔しさを忘れない者は、必ず強くなる。忘れてしまう者だけが、同じ過ちを繰り返す」
その言葉を、ユリオは、静かに胸に刻み込んだ。
◇
少し離れた場所で、リィナもまた、自分の腕の傷を見つめながら、考え込んでいた。
(私が、もっと早く危険を察知できていれば……)
調査官としての観察眼を、彼女は常々誇りに思ってきた。だが、実戦の場では、その自負が、必ずしも役に立つとは限らないという現実を、改めて突きつけられていた。
傷の痛みよりも、自分の未熟さへの苛立ちの方が、彼女の胸を強く締め付けていた。エルスフィア家の令嬢として、常に完璧であることを求められてきた彼女にとって、こうした失敗は、決して簡単に受け流せるものではなかった。
(でも……)
ふと、脳裏に浮かんだのは、村での日々だった。灰色の紋を持ちながら、失敗しても、蔑まれても、決して腐らずに前を向き続けてきたユリオの姿。あの強さを、少しでも見習うべきなのかもしれないと、リィナは思った。
「リィナも、何か考え事か」
ユリオが、そっと歩み寄ってきた。
「お互い様、ってことか」
「そうかもしれないわね」
二人は、しばらく無言で、焚き火の炎を見つめていた。それぞれの未熟さと向き合いながらも、その沈黙は、不思議と、孤独なものではなかった。
「なあ、リィナ。俺、もっと強くなりたい」
ユリオが、静かにそう切り出した。
「刻の狭間を歩く者――この力を、いつか、ちゃんと自分の意志で使えるようになりたい。それに、剣の腕も、もっと磨きたい。次は、絶対に、誰も傷つけさせない」
その決意には、これまでにない、確かな強さが宿っていた。
「私も、あなたに負けないくらい、強くなるわ。もっと的確な判断ができるように、もっと役に立てるように」
「お互い、頑張らねえとな」
軽く笑い合う二人の姿には、失敗を糧に、次へと進もうとする、確かな意志が滲んでいた。
少し離れた場所で、その様子を見ていたガイが、カイエルに小声で話しかけた。
「いい関係ですね、あの二人」
「そうだな」
カイエルは、短くそう答えた。その声には、複雑な感情が滲んでいたが、以前のような棘は、もはや感じられなかった。
「カイエル様も、何か思うところが?」
「……いや。ただ、若さというのは、時に眩しいものだと、思っただけだ」
その呟きに、ガイは、静かに微笑んだ。
「カイエル様だって、まだお若いですよ」
「お前と、大して変わらんだろうが」
軽口を交わす二人の様子にも、旅を通じて育まれてきた、確かな信頼関係が滲んでいた。それは、この一行が、単なる寄せ集めの旅の道連れではなく、少しずつ、確かな絆で結ばれつつある証でもあった。
夜が更けていく中、それぞれの傷を抱えながらも、一行は、明日への英気を養うべく、静かに眠りについていった。旅は、まだ半ばだった。だが、この日の出来事は、それぞれの胸に、決して消えることのない、大切な教訓として刻まれることになった。
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