招請 ―開会のお知らせ―
リュカは、いつものように執務室で政務に追われていた。
机の上に広げられているのは、次回の帝国議会に提出する法案――「拷問禁止法案」である。
カトゥル帝国の議会は、議員の多くが首都に居住している。そのため、必要とあればすぐに開会でき、活発な議論が行われることが大きな特徴だった。
法案そのものは、すでに大筋でまとまっている。
あとは、ブリーフィングの席で各国の代表団に提示し、議会での採択に向けて事前の根回しを進めるだけ。
――そう、思っていた。
「ふう……」
リュカは深いため息をつくと、椅子から立ち上がり、ソファへ倒れ込むように寝転がった。
「お疲れ様です」
声をかけたのは、メイド長のリルだった。
「何かありましたか?」
「拷問禁止法案がね……北国の反対にあって、なかなかまとまりそうにないんだ」
リュカは天井を見上げながら答えた。
「それにしても、あのおとなしいチンキムさんが、ここまで強硬に反対するなんて……」
「そうですね。何か事情があるのでしょうか?」
リルは少し考えるように首を傾げる。
「私が探ってみましょうか?」
「ああ。そういえば、リルはテレサ皇帝陛下が北国の使節団とティータイムをされる席に陪席するんだったね」
「はい」
「それなら、その折に何か聞けないかな?」
「承知しました。探ってみます」
「よろしく頼むよ」
「お任せください」
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そして、翌日のティータイム。
リルはさりげなく話題を誘導し、北国の代表団から事情を聞き出すことに成功した。
「どうやら、北国では動物が非常に身近な存在なのだそうです」
後日、リルから報告を受けたリュカは頷いた。
「それは聞いたことがあるね」
「ですが、今回の拷問禁止法案によって、動物に対する扱いまで一律に禁止されることを北国側は問題視しているようです」
「動物に対する扱い……?」
「はい。北国の代表団によれば、今の生活そのものを維持できなくなる可能性がある、と」
「え……」
リュカは言葉を失った。
「それって、動物愛護という観点からすると、かなり問題なのでは……?」
「動物が身近な生活を送っているにもかかわらず、その扱いについては残虐とも言える慣習が残っている――そういうことなのかもしれません」
ヘレナが静かに口を挟んだ。
一同の間に、しばし沈黙が流れる。
やがて、マリーが口を開いた。
「いっそ、北国へ赴いてみてはいかがでしょうか?」
「北国へ?」
「はい。現地の暮らしを実際に見てみなければ、なぜ彼らがそこまで反対するのか、本当のところは分からないのではないでしょうか」
「たしかに……」
ヘレナも頷いた。
「現地の実情を知らずに法案だけを押し通せば、北国との間に余計な溝を作ってしまうかもしれません」
リュカは幼さの残る、髭のない顎に手を当てた。
しばらく考えた後、ゆっくりと頷く。
「……わかった。そうしてみよう」
そのときだった。
コンコン。
部屋の扉がノックされた。
「入ってください」
リュカが答えると、扉が開く。
そこに立っていたのは、北国のオッチギンという地位にあり、現在は帝都で外相を務める男――チンキムだった。
「チンキム殿?」
リュカは少し驚いた。
「ちょうど、北国の話をしていたところなんです」
「ええ。この件については、いずれ話題になると思っておりました」
チンキムは落ち着いた様子で一礼した。
「拷問禁止法案について、ですね?」
「はい」
リュカは姿勢を正した。
「北国は、人間や動物に対する拷問・虐待の禁止に反対していると聞きました。なぜですか?」
「反対、と申し上げるよりも……」
チンキムは一瞬、言葉を選んだ。
「虐待の定義が問題なのです」
「定義……?」
リュカは、ティーカップに伸ばしかけていた手を止めた。
「どういうことでしょう?」
「帝都にお住まいの方々からすれば、我々の暮らしは野蛮に見えるでしょう」
チンキムは静かに語った。
「しかし、我らはそれで生き延びてきたのです」
「……」
「一度、リュカ殿ご自身の目で北国をご覧になってはいかがでしょうか」
チンキムはリュカをまっすぐに見つめた。
「そうすれば、なぜ我らがこの法案を受け入れられないのか、その実情もご理解いただけるかと思います」
リュカは少し考えた。
そして――
「わかりました」
迷いのない声で答えた。
「すぐにでも参りましょう」
「それはありがたい」
チンキムは微笑んだ。
「折しも、我が北国では、クリルタイを開催する予定となっております」
「クリルタイ?」
聞き慣れない言葉に、リュカは首を傾げた。
チンキムによれば、クリルタイとは、北国――タイアル首長国において、ハーンを選出するための重要な儀式なのだという。
北国は、岩肌が露出し、さまざまな鉱物を含む険しい土地が広がっている。
その環境の中で、人々は農耕よりも放牧や牧畜を中心とした生活を営んできた。
そして今回、その北国の国家元首たるハーンを、久しぶりに選出するクリルタイが開催される。
「その機会に、北国をご覧になってはいかがでしょう」
チンキムはそう提案した。
リュカは考え込む。
拷問禁止法案への理解を得るためにも、北国の暮らしを知ることは必要だ。
それに――。
ハーンを選出するというクリルタイが、どのようなものなのか。
宰相として、興味がないと言えば嘘になる。
「……わかりました」
リュカは頷いた。
「クリルタイに参加させていただきます」
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こうして、リュカ一行は、拷問禁止法案への理解を得るべく、北国へ向かうことになった。
しかし、帝国中央にも、まだ解決すべき問題は山積している。
まず、かつてリュカ排斥の乱を起こし、その後死亡したナッシュが保有していた領地。
反乱の処分として没官領となったものの、その後の扱いは決まらず、宙ぶらりんの状態となっていた。
次に、南国のために制定された「海底農場法」。
この制度を、広大な森林地帯を抱える東国でも応用できないかという検討が、作業部会で進められている。
そして――。
今回の「拷問禁止法案」である。
内閣には、パンチ陸相、コーラル海相、ダンドロ財相、チンキム外相のほか、無任所大臣としてカルロ、ゴー、ハリー、マッシモが入閣している。
そのため、リュカは内閣において一定のリーダーシップを発揮できると考えていた。
しかし、帝国議会となれば話は別だ。
リュカ派は、未だ少数与党に過ぎない。
カトゥル帝国の議会は、東西南北、そして中央の旧ユニマル王国から選出された議員によって構成され、主に十三の派閥に分かれている。
その中でも、「牧場主の集い」は、北国の利害を代弁する最大派閥だった。
遊牧民族の連帯を掲げ、農耕民族からの経済的独立を目指す彼らは、北国の生活と文化を守ることを何よりも重視している。
そして現在、その「牧場主の集い」が、拷問禁止法案の採択を頑なに拒み続けている。
リュカは、議会の勢力図を頭の中で思い浮かべた。
「……彼らの動き、妙に統制が取れすぎてやしないか?」
単なる北国の文化や生活習慣の問題。
本当に、それだけなのだろうか。
そんな疑念が、リュカの胸に残った。
折しも、北国ではハーンを選出するクリルタイが開かれる。
北国出身の外相・チンキムからの誘いを受け、リュカは北国へ向かうことを決めた。
拷問禁止法案に、なぜ北国はここまで強く反対するのか。
その答えを求めて――。
リュカは、北国へと旅立つことになる。




